世界のバリアフリー絵本展に出かけた。
「バリアフリー絵本展」と銘打つ展覧会には、これまでにも何度か足を運んだことがある。大抵、目の見えない人向けに文章を点字にしたり点で絵をかたどったりしている、いわゆる「点字絵本」やフェルトや布で作った人形をマジックテープなどで本側に貼り付けた「さわる絵本」の点字が多かった。点訳絵本をつくるボランティアをしていたこともあって、技術の面で参考になる点や布だとこういう表現(点字だと言葉での説明が限界なのが、布だと触って理解することができるなど)が可能となるのか、と新しい発見があり、楽しく見て回ったものだ。
しかし、今回は違う。
決定的な違いは「バリア」という言葉が表すモノの多さである。
私が認識しているよりも、もっともっと大きな概念でとらえている。
展覧会には「今の社会の中で生きていくのに障壁となるものをバリアとしている」とあった。そういった概念を軸に世界中の「バリアフリー絵本」が集められていたのだ。
だから、先に書いた絵本は逆に少なく、自閉症の子どもの読み物もあれば片足がない子どもが運よく支援により義足をつけられるまでの写真つきの実話本(絵本のような装丁で読みやすい)があり幅広い内容だった。知能に障害があってモノの大きさの判別をしづらい子どもに対するしかけ絵本もある。例えばネズミの隣のページが縦に開くようになっていて開くと、きりんがいてsmallとbigの違いを分からせるような本だ。
印象に残った絵本がある。
主人公(仮にAくん)はスプーンにしては先が3本に割れているがフォークにすると全体が丸いし3本に割れた先も尖っていなくてさすことができない。食事が始まろうとするとスプーンやフォークやナイフはそれぞれ相方と手を組み、楽しそうに自慢げに定位置につくのにAくんはいつもバカにされ仲間外れ。ギザギザの帽子をかぶってみたり色々工夫をするのだがみんなにバカにされるだけ。しかし、落ち込む彼にもちゃんと活躍できる場があったのだ。それは・・・赤ちゃんの食事。すくって食べたり、突き刺して食べたりする赤ちゃんに主人公がぴったりだったのだ。しかも、先が尖っていないから安心。
この展覧会では、2種類の「バリア」があることを強く語っているように感じた。ひとつは書いた視覚障害や身体障害などの相手が持っているバリア、そしてもうひとつは皆の心の中にもっているバリアである。
バリアフリーと聞くと、ついつい「見えない子どもが絵本を読めるようにするには?」「見えない
大人が子どもに絵本を読むためには?お酒とジュースを間違えないようにするには?」と考えがちだ。もちろん、それもバリアフリー。物理的な障害を持つ人々のどんなに助けになろうか。
ただ、今後複雑化している社会の中で、今私たちが考えてゆかねばならないのはむしろ知らず知らずに分厚くなっている自分の心のバリアをどうフリーにしてゆくか、ということだと思う。
フォークにもスプーンにも足りないAくんを「ダメなやつ」とみることがすでに人為的に作り出されたバリアであり、もしかしたら、すでに社会にはこういった人為的バリアが蔓延っているのかもしれない。Aくんが存分に力を発揮できる場所はどこだろうと自然に発想する、それこそがバリアをフリーにすることではないだろうか。
相手のバリアをフリーにするお手伝いをする、フリーを考える。と同時に日常の中でふと感じたことに対し、「これは自分が心に作ったバリアではないだろうか」と常に自問してゆくこともバリアフリーであると思う。折々で実践してゆこう。相手がそれをもっているからこそ良いことは?それを生かせることは?に
フォーカスして、よく考えてみるのだ。皆がそんなふうに発想してゆけば今そこにあるバリアは優しく溶けてゆく。