●法然と親鸞 山折 哲雄 著
この本は今年の3月に初版されたものだが、山折さんは御年80歳。年齢で人を判断してはいけないが、「80歳にしてこちらの探究心をくすぐる思考展開と情熱的な筆致の源は、どこからくるのだろう」というのが正直なところだった。
テーマは「師」と「弟」である。親鸞は若くして法然から「選択本願念仏集」の書写を許された優秀な弟子だった。親鸞も、法然を深く「師」と仰ぎ、「法然にだまされて地獄に落ちるというなら、喜んで落ちよう」とまで言っている。しかし、親鸞はほかの弟子とは別の独自の道を歩んだ異端児であった。ゆえに選ばれた弟子たち数名がその場にいることを許されたという法然の臨終にもいなかったし、法然の教えを継ぐ弟子だとおおっぴらに語ることもなかった。
法然の死後、弟子たちの多くは法然の教えを継承しつつ、多くの「派」を作った。念仏を「一度」唱えれば救われる「一念義」、いや常日頃から唱えることが重要だとする「多念義」。当然、派閥の争いも起きたようだが、彼らに共通しているのは根幹は法然の教えそのものであり、法然に護られているという安寧である。様々なかたちの変化や考え方が起きようとも、すべては「法然というサークル」の中での話である。むしろ、その大きなサークルに護られているからこそ、弟子たちは好き勝手に自論を述べられるということであろう。それを、著者は「教えの分割相続」と呼んでいる。
それに対して「単独相続」を試みたのが親鸞である。親鸞は法然のそばで、また書写した「選択本願念仏集」から、その教えの「本質」をつかみ取ろうと必死になった。そして、もがき続けたその先に現れたものは1.尊敬する師の教えに対する疑問」と2.自分なりにもっと深く、もっと広く展開・発展させたい」という欲望であった。
1.については、「悪人」の取り扱いについてである。「選択本願念仏集」を書くにあたって法然が愛読した書に「感無量寿経」があるが、そこには念仏を唱えれば誰でも救われるとしながら「五逆の罪」を犯したものは除く、という例外規定がある。そして法然はこの例外規定について何ら触れていない。それに疑問をもったのは親鸞であり、のちの「歎異抄」につながってゆく。そこではお馴染み「いわんや悪人をや」とあり、親鸞は悪人こそ救われるとしている。いわば法然思想からの「離反」である。
2.の欲望は「教行信証」の執筆につながる。法然の教えを基礎としながら、彼独自の思想論をここで展開するのだ。法然思想を否定するものには決してしたくない、しかし自分の中で沸き起こる思想を書かずにはいられないというジレンマが書のタイトルに現れている。法然は「我は念仏を選択する」という意志表明で「選択集」を書いた。それに対して親鸞は「教え」「行い」・・まるで目次の羅列のようで、明確な意思を表していない。いや、師と仰ぐ法然が心にいる限り、表せなかったのだ。
親鸞は、法然を深く師と仰ぎ、その本質を見極め、あるいは疑問を持ち、躊躇し悩みながらも、それをベースに新しい発想を、親鸞が生きた時代にそぐうような、その中で生きる多くの人々を救えるに足るような独自の思想を展開していった。それこそが、師の思想を責任をもって継承することだと考えたのだろう。「師を知り、深め、師を超えること」が、一方で師への恩返しと考えたのかもしれない。だからかどうか、親鸞自身も、関東で得た多くの弟子を捨て、単身京都に帰ってしまう。「師による弟子捨て」である。これは「いつまでも私の周りにいないで、どんどん新しい思想を展開させなさい」というメッセージだったのかもしれない。
本のテーマは「師弟」だが、親子の関係と似ているなと思う。子は親の元に生まれ、親を手本に育ってゆく。だが、あるとき反抗期を迎え、親を否定し、色々な社会的な影響を受けながら、次第に親から離れ巣立ってゆく。そして、いつの間にか己というものが形成され、それに気づいたとき、子は親を超えいる。でも、そこにあるのは超えたという優越感ではなくて形成に一役も二役も買ってくれた親への感謝ではないだろうか。親のほうも、身も心も大きくなった子を見て、そして少し小さくなった自分に気づき、子の成長を目を細めて温かい気持ちで眺めることだろう。
法然と親鸞の年の差は40歳。あるいは法然も、いつか自分を超えてゆくと知りつつ、悩みもがいている若き親鸞を、目を細めて見守っていたのかもしれない。