●「ポジティブ病の国、アメリカ」 バーバラ・エーレンライク著
図書館をブラブラしていて、たまたま目に留まった。「ポジティブ」と聞けば、何となく肯定的なイメージがある。それを「病」としているところ、そして当のアメリカ人が書いているところに興味をそそられて読んでみることにした。
そうだったのか!と驚きの連続だった。
まず、「ポジティブ」な考え方は、何もアメリカ人に昔々から根付いている国民性ではなかった。ポジティブの原点は人々に懲罰的なイデオロギーを強いるカルヴァン主義だった。19世紀、幸福に関心を集中することそのものを恥辱とみるカルヴァン主義に人々はうんざりしていて、そんな中からポスト・カルヴァン主義として生まれた新しい思考法が、現在のポジティブ思考の土台となった「ニューソート運動」というものだった。というのも、カルヴァン主義によって、意気消沈し、窮屈な暮らしを強いられていたからか、当時の人々の間で「神経衰弱症」となづけられる「病」が流行する。どんな治療も有効ではなく、薬も効かなかった。そこで徐々にニューソートと言う考え方が生まれた。つまり、「心のパワー」を投じれば、病気は治る!と医師が患者に助言するのである。要は、カルヴァン主義からの「心の解放」を試みて病気の治療に生かそうというものだろう。
それにとどまっていればよかったのだが、ニューソートを健康問題から離して出世や金儲けをあおる者が出てきてしまった。それは、今日のポジティブシンキングにおいても受け継がれている。様々な手段を使って、「ポジティブシンキングこそ最高の考え方だ。だから、ネガティブな考え方をする人と時を一緒にしてはならない。」というような価値観を人々に植え付けるのである。そして、ポジティブでいることを持続できるように、様々なレクチャーや講演が発生する。教えるのは、最近日本でも定着してきた「コーチ」や、アメリカには存在する「モチベーショナル・スピーカー」だ。
彼らは、自分を売り込む最初の場を企業とした。折りしも当時のアメリカは大規模なリストラを企業が次々と行なっていたようだ。解雇された人間に不平を言わせないように、残された人間のモチベーションを下げさせないようにしたいという経営者の思惑と、ポジティブシンキングを広めてビジネスチャンスを得たいコーチやスピーカーのそれとが一致して、ポジティブシンキングは一気にアメリカ社会に広まった。余談だが、日本で売れに売れた「チーズはどこへ消えた?」は、ポジティブシンキング啓発のための小冊子として企業が大量購入して社員に配布するというかたちで、アメリカで1000万部売れたそうだ。。「アメリカでベストセラー」という情報だけで日本に入ってくると、日本人は単純だから、簡単に信じて買ってしまう・・・。
もうひとつの試みは、「教会」である。キリスト教信者は日曜の朝に礼拝に行くのが当然と思いがちだが、実際は行かない人も多いという。精力的な牧師たちは「どうすれば、ウチの教会を人でいっぱいにできるだろう」と考え始める。彼らは「牧師企業家」と自称し、積極的な「改革」を行なう。キリスト教の象徴である十字架、尖塔、キリスト像の撤去。現代風の概観。健康促進イベント、ウエイトトレーニング教室の実施、就業支援、ロック音楽の採用・・・その原動力となるのがポジティブシンキング(ここでは限定的に「ポジティブ神学」と名づけていた)であり、「神は、われわれに素晴らしいものを与えることを望んでおられる」「神は私たちが金持ちになることをのぞんでおられる」という考え方だ。ここでも、人を集めたい牧師と多数の人々にポジティブシンキングを広めたいコーチたちの思惑が一致した。
こうして、アメリカの人々のなかにポジティブンシンキングはすっかり定着するとともに、もはやネガティブな言動は許されず、ポジティブシンキングではない人は排除されるまでの社会になってしまった。だから、ポジティブは常にネガティブを警戒し、恐れている。そして、常にポジティブでいるように「努力」を強いられている。事がうまくゆかないのは「ポジティブに考えていない結果だ」と自己責任にされてしまう。ポジティブな人間は企業における評価も高い。幸せになるにはポジティブシンキングが必須条件。そんなポジティブ漬けのなかに、どうやらアメリカ人はいるようである。
そんな社会に、著者は疑問を投げつけ(実際、ポジティブシンキングの提唱者に丁寧かつ度重なり取材しているようだ)、警鐘を鳴らす。ポジティブシンキングはいわば「能天気」で、現実を見ていないというのである。ネガティブなことにこだわらないようにと命令するのが経営者の責務と考えてしまったから、危機に気づいた社員は何も言えず、リーマンショックを招いたと、その例をあげている。彼女はネガティブを推奨するのではなくて「批判的思考」のスキルを身につけることを提唱している。批判的思考は懐疑的で、つまり現実をきちんと見て、リスクに対してポジティブシンキングで片付けずに適切な対応をしてゆこうよ、とするものである。そういうことを試みることが「私の幸せ」として、筆を置いている。
日本でも、「ポジティブに!」と言うのはよく聞くけれど、そのわりには多くの人々の価値観を埋めてしまうほどには広まってないように思う。いやなことや不安なことが起きたときに「ポジティブに考えよう」というくらいで「ドンマイドンマイ」もしくは「大丈夫大丈夫」と言った励ましのツールの一つとして機能しているにすぎないのではないか。コーチングという手法も、イマイチ注目を浴びず、ビジネスとして成り立たせるのは難しいと聞く。アメリカからの「輸入もの」に飛びつきやすい日本人なのに、なぜだろうと考えてみた。
やはり、宗教的な文化の違いでポジティブシンキングは根底のところで日本人の心には馴染まないのかなと思う。どんな部分で、と言われると明確に言葉にはならないのだが・・・キリスト教は「私があなたの苦痛を取り除いてあげましょう。そこから救い出してあげましょう」という「物質的な救済」の立場をとるが、仏教は「一生懸命頑張れば、浄土に導いてあげましょう。」という「死後への不安からの解放」の立場にある。アメリカ人にとっては苦しみからの救済としてポジティブシンキングが最良の方法となりえたのではなかろうか。無論、今はそのポジティブ自体がある意味、「苦しみ」になってしまっているようだが・・・。日本人は何だかんだで、やっぱり「頑張る」「ひたむきな努力」に価値をみていると思う。だから、考え方を変えたからといって、すべてが好転するわけではないと心の底のどこかで感じているのだ。だから、「一ツール」にとどめているように思う。
私も日本人だから、ポジティブは「時のツール」でいいなと思う。物事はすべて、ネガティブに捉えることもポジティブに捉えることも出来るのだ。だから、ネガティブな考えを認識した上で「ここはポジティブに考えて先へ進もう」とするほうがポジティブの層も厚くなって、その考え方も輝いてくるというものだ。そんな気がしている。