
「教行信証入門」 矢田了章 著
ようやく読み終えることができた。この本は昨年の夏に自分への「夏の課題図書」として選択したものであった。親鸞の考え・教えがトータル的に深く、濃く詰まったものが「教行信証」であり、それについてこの本で学んできたことはとても有意義だった。親鸞と言えば「歎異抄」があまりにも有名で、「いわんや悪人をや」は彼の代名詞と言っても良いほどだ。書店で仏教のコーナーに立ち寄ると「「なぜ、いわんや悪人をや」なのかを解き明かす」と帯に書かれた本が何冊もある。が、そこだけ切り取らなくても「教行信証」を読めば分かる。と私は思っている。もちろん、「歎異抄」という書物が残っているのだから、その部分(悪人についての部分)を掘り下げることは良いと思う。でも、それはいわば「ステップアップ」であり、まずは教行信証から読むことが効果的ではないか、と今回読み終わって感じた。
親鸞はどこまでも「他力」の人であった。他力と言うと「人に頼る」という意味に捉えがちだが、そうではなくて・・・「阿弥陀仏の力のおかげで」という感じである。
自分の力(努力)なくしては浄土はあり得ない。でも、それは自分で掴み取るものではなく、阿弥陀仏によって「与えられる」ものでもなく、阿弥陀仏が自分というものに「浸み込ませてくれる」ものである。だから、色もかたちもないのに、確かに感じることができ、無常(無常は有限でない、終わりでないという意味)である。親鸞はそう説いた。そして、そのような境地に辿り着く前には自分の力によってここまできたという実感を感じて愕然とするときがあるそうだ。なぜ、愕然とするのか。逆説的だが、悟りは「他力」によってもたらされるものであるのに、自分の力を感じてしまうということは、まだまだ悟りへは道半ばということを意味するからだ。
そして、さらに道は続く。悟りを開く道を「往相回向」というが、そこから「環相回向」と続く。これは「悟りを開いた、むっふっふ」と満足するのではなくて、衆生たちを浄土へと導くことに努め続けることである。信じて念仏を唱え、努力すれば必ず阿弥陀仏が浄土へと導いてくれるのだと説き、そう信じて頑張れる衆生を一人でも多く増やすのだ。衆生の安寧に寄与しなければ、それは悟りを開いたことにはならないというのである。
そういう意味で、善人は信仏心をもって毎日を過ごしているから「信じて頑張り」やすい。順調に山登りを続けているのだ。しかし、悪人は、まず自分の行為の過ちに気づき、後悔に苛まれ、失意のどん底から始まる。いわば、善人の遥か後方からのスタートだ。しかも、悪事を働いたのだから、道はより険しい。「いわんや悪人をや」とは簡単に地獄に落ちて終わり、ではなくて、浄土への険しい険しい道を悪事を働いたからこそ、歩くべきであるということである。現代で言えば、簡単に死刑にせずに血を吐くような毎日を送りながら罪を償い切れ、というところだろうか。
何の縁か、私もあなたもこの世に生を受け、生きている。それは死への道でもある。いつか必ず訪れる死に対して「無常」の意をもって、今日毎日を生きるためのヒントを親鸞はくれそうだ。「無常」を感じると、生きることがもっと楽しく豊かになりそうだ。その実感は確かにある。