アレコレ着る人委員会「平成きもの白書」

委員会は、着る人にとって好ましい商品やサービスや環境を積極的に情報発信し、快適なきもの環境を作ることを目指します。

着る人が主役になってきた(1)問屋の時代①

2012-07-06 19:15:07 | 第4回アンケート

 第4回アンケートは、この1年間であなたが参加した「きもの&和のイベント」について教えて下さい。また印象に残ったものも…。呉服屋さんはじめ、インディーズや着る人、そしてアレコレのイベントも含め、多くのイベントが上げられましたが、全体の流れは「きものを着る人が舞台の主役になってきた」ことです。「きものを着る人が企画し、着る人が参加し、参加した人がさらに互いに盛り上げ、盛り上がり、楽しむ」イベントがこの1~2年、急速に増してきました。

では現在に至るまで「きもののイベント」はどのような推移をたどってきたのか。大きな時代として[きものの黄金期=問屋の時代」があります。しかし皮肉なことにこの黄金期を謳歌した主役の問屋は、その99%が倒産してしまった、という過酷な現実です。

黄金期のスタートは昭和39年の東京オリンピック。高度成長が始まり、右肩上がりで収入が増え、その収入は大きく「きもの」へと流れ込んで行きました。結婚式と言えばきもの、黒留め袖や訪問着が当たり前で、お見合いから嫁入りまで一式きものを揃えるのは、普通の家でも親心として当たり前の時代。ハレの場や喪の装いもきものが普通の時代でした。その背景には戦争中で、華やかなきものを着ることが出来なかった親の「娘には」という思いや食料に替えてしまった数々のきものを新たに取り戻そう、という悔しさ…など、親世代(いまの80~70歳)のきものへの憧れ、思いがあり、その対象となる団塊世代の市場の中途半端じゃない大きさ、がありました。そして、この親世代が呉服業界を支えてくれた、上顧客でもありました。

そして昭和39年は、いままでの宿泊だけのホテルから都市型ホテル、ニューオータニ、ホテルオークラ、高輪プリンスホテルなど、多くのレストランやバー、コンベンションホールを備えた、いまでいうアミューズメントパークのようなホテルが出現し、庶民の憧れの場、新しいハレの場として注目を浴びます。

この2つの時代の流れをチャンスとして呉服ビジネスに取り入れたのが、名古屋、京都の新興問屋(ほとんどは倒産してしまいましたが…)、そして新潟県十日町市の新興買継ぎ(産地問屋で、やはりいまはそのほとんどが倒産してしまいました)です。最盛期にはニューオータニを全館貸し切り、2日間では7,500人もの集客を誇りました。ビッグイベントを開かれる一方、春や秋の新作シーズンには都内の大きなホテルで毎週展示会、イベントが開かれる有様でした。。特に十日町の買継ぎは果敢でした。十日町は奈良時代から麻織物の産地として有名で、越後上布や小千谷縮など高級麻織物を生産してきました。しかし昭和40年代前半に織物の産地から一気に染めの産地へと変貌して行きます。そのきっかけが戦後のベビーブーム、団塊世代が成人式を迎え、振袖の一大マーケットの出現です。同じ呉服業界にいながら、企業として飛躍するには織りではなく、染め、それも振袖産地に変身することが第一と、先取の気質、冒険心に富んだ若い経営者が率先して動き、十日町は染めの産地に変身します。

十日町は京都に比べ歴史や伝統では追いつきませんから、対抗軸としてファッションとしてのきものの可能性を追求します。そのためモノ作りも昔ながらの分業生産から、デザインから最後まで一貫して1ヶ所での作る生産システムを完成させます。しかも、まったくのゼロから染めの技術を学び、磨き上げました。同時に山本寛斎はじめ多くのデザイナーを登用し、きものをファッションとして仕掛けて行きます。その狙いは振袖で大成功を収めます。さらに生産規模を拡大し、黒留め袖や色留め袖、訪問着など次から次へとヒットを続けます。一方京都もピエールカルダンなどヨーロッパのデザイナーを起用するなど、いままでの伝統的なモノ作りに加え、ファッション路線を加え、市場は大きく広がってゆきます。昭和50年代、まさに呉服業界は黄金期でした。

この好景気、新しい豊富な商品群を背景に「もっと効率よく販売して行きたい」。さらに新興ゆえにインパクトのある商品と販売企画を提案し、旧来の流通から呉服店を奪いたい、新しい流通システムを作りたい、という思いがあって生み出されたのが「ホテル展示会+イベント」という新しい販売スタイルです。

 


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