アレコレ着る人委員会「平成きもの白書」

委員会は、着る人にとって好ましい商品やサービスや環境を積極的に情報発信し、快適なきもの環境を作ることを目指します。

着る人が主役になってきた(1)問屋の時代②

2012-07-10 08:54:35 | 第4回アンケート

ホテルを会場にした展示会&イベントは、多くの集散地問屋(札幌、東京、名古屋、京都、大阪、福岡)が積極的に仕掛け、一大ブームとなりました。1テーブル8人前後を集客単位として、時には1回に100~300人を集める呉服屋さんや地方問屋もあって、バスを連ねて参加しました。

1泊2日のケースでは、午後に先ずホテルに着くと、最初に展示会場に行き、お見分け、きものや帯を購入します。企画する方は1客20万だ、30万だと目標を設定していますから、事前にお客様の欲しいきもの情報を会場内のマネキン(販売員)に伝えておき、販売がスムーズになるように工夫しておきます。でも、当時は会場で囲む、囲まれるなどと言うことはなく、お客様も一堂に様々なきものが見られることが出来るのを楽しんでいました。時にはこの販売会場に女優さんが参加し、ちょっとしたきものトーク(長くなると商売の邪魔になるので…)やお客様のお見分けのお手伝いなどします。大体2~3時間で販売会が終わると、展示会場の受付で、それぞれの宿泊ルームのカギが渡され、お食事までお部屋や三々五々にホテル内で時間を過ごします。

夜は当然みなさん、きものをお召しになってメインイベントに参加します。大体ディナーショーが多かったのですが、例えば五木ひろしや八代亜紀、森進一など当時の人気歌手たちのショーで、多いときには昼と夜の2回、ショーを行うこともありました。そして翌日はバスで都内観光や新橋演舞場、歌舞伎座での観劇など、さまざまにきものを着て、きものを買い物して、というパッケージでした。

この流れを見て、鹿児島の産地買継ぎが大がかりに企画し、仕掛けたのが産地でのきもの販売ツアー。一流ホテルに泊まり、産地見学、ファッションショー、さらに豪華なショー。1週間に1万人近くを動員した大がかりな企画で、松竹、松竹芸能と提携し、岡田真澄、岩下志麻、島田陽子、岡田茉莉子や歌舞伎役者、落語家など一流の出演者が、きものトークやお笑い、唄などをバラエティー豊かに組み合わせたもので、1週間続き、まるで”興業”のようなでしたが、抜群の人気でした。当時はナマで女優さんに会える、なんていうのが稀少だったんですね。呉服業界は京都が中心で映画も京都で発祥しましたから、衣裳提供など何かと映画関係者との関係は深く、アルバイト感覚で販売会に女優さんが出る、という慣習がありました。はあった用です。何しろ前日女優さんが着ていた、ウン百万円もする大島紬がかんたんに売れた時代でしたから、今から考えて不思議な時代でした。その後は沖縄旅行を加えるなどバリエーションが増え、数年続く人気企画でした。

旅行やイベントに無料招待(1部負担、実費負担などバリエーションはありましたが…)参加すれば、経費の1部は当然商品代にオンされている、と考えますよね。また経費の1部は実際にオンされていましたが、それでもはるかに良心的でした。実際経費の1部はオンされていました。それを「騙されて」なんて言う方もいますが、お店とお客様の間に、暗黙の了解、節度というものが確実にありました。

このビジネスモデルが大きな問題なのは、この経費のことよりも「商品を仕入れないで商売」出来る仕組みを作ってしまった、ということです。それまで呉服屋さんは1軒1軒問屋さんを回り、お客様の顔を思い浮かべ、1点1点仕入れていました。あらゆる面で商品の目利きでなければ、いい物をいい値段で仕入れられないので、それだけに問屋も呉服店も真剣勝負でした。またそれだけ商品が動きましたから、昭和30年代は問屋さんの利益はわずか数%、特殊な物でも10%程だったといいます。しかし、商品を問屋さんが用意して展示し、お客様が買った物だけを仕入れ?、帳合いすればいいのであれば、自然に商品に対して甘くなります。呉服店にとっては、売れ残るコトがないわけですから、楽です。それでも昭和40~50年代は、大型催事、といわれるものだけでしたが、やがて悪貨が良貨を…ではありませんが、ジワジワと普段の呉服ビジネスにも悪影響を及ぼし始めてきました。

 


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