羽鳥湖高原徒然記

福島県羽鳥湖高原 ルークのお父さんのなんでも雑記帖

福島県と真田家

2016年02月24日 | 歴史
人気のNHK大河ドラマ「真田丸」

子供時代には真田幸村(信繁)の家臣、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道などを中心とした真田十勇士の物語に夢中になりました

長野県上田市や群馬県沼田市はゆかりの地として観光で人気になっています

愛読の地元新聞「福島民報」あぶくま抄に気になる記事が載っていました

なんと遠く離れた福島県いわき市もこの真田家と縁が・・・

いわきを治めていた大名の岩城家に幸村の娘「御田姫」が嫁いだそうです

また、「超高速!参勤交代」の舞台となったこちらもいわき市の湯長谷藩

初代藩主の遠山政亮は真田信之の孫娘を妻とした

興味深い史実ですね

おまけ

NHK連続テレビ小説「あさが来た」でブレークのディーン・フジオカ

天栄村のお隣、須賀川市出身です






伊号第四百潜水艦

2015年05月06日 | 歴史
伊号第四百潜水艦

第二次世界大戦当時世界最大の日本帝国海軍の潜水艦

全長は122m、有名なドイツ海軍のUボートの約2倍。排水量は6560トン

エンジンは4基で7700馬力、Uボートの約300とまさにモンスター

この大きさは2012年に中国海軍の032型潜水艦に抜かれるまで世界最大だったそうです

航空機を3機収納できる潜水空母でもあり、地球を一周半航行できる技術の粋を集めた傑作艦

現在でも先進的な日本の潜水艦技術、オーストラリアやインドに輸出の可能性でてきました

今日は好きなNHKの「歴史秘話ヒストリア」でこの伊400の特集

戦後に米軍にハワイ沖で海没処分されたこの潜水艦世界初の映像公開

数奇な出陣航海の様など興味深い内容でした

戦争兵器なので賛否はあると思いますが、改めて日本の技術力を感じますね

問題の多いNHK、今回はヒット


もう一つの城

2013年04月20日 | 歴史
白河駅前の白河小峰城は三重櫓が復元され、総石垣造りの城として盛岡城、若松城とともに東北三名城のひとつとされています

その小峰城以前にあったのが白川城(別名今搦目城)今は城跡だけが残っています
白川城は1189年(文治5年)、結城朝光が源頼朝より白川の地を与えられ、その孫の祐広が1289年頃にこの地に移住、白川城を居城としたが、白河結城氏の衰退と共に廃城となりました

今日は買い出しついでに白川城跡へ立ち寄ってみました

案内看板の指示で道路を曲がると木々に囲まれた細い山道





ここが白川城入口でしょうか



階段が続いています



急な階段を登り切ると



本丸後は広い平坦地



震災でしょうか、石碑が倒れています



この桜は歴史を観てきたのでしょうか・・・



静寂に包まれた城跡、もう少し整備とPRをしてもらいたいですね

中野竹子

2013年03月02日 | 歴史
福島県会津若松市の神指町、上杉景勝が直江兼続に神指築城を命じ徳川家康の会津征伐のために天守閣着工間に中断されました
この地を流れる湯川のほとりに、薙刀を手に持った一人の女性の白い石像が建っています

この像の女性は「中野竹子」、八重の桜の「山本(新島)八重」以上に福島では名高い
中野竹子は会津藩士、中野平内の長女として江戸の会津藩邸内で生まれ、文武にすぐれ薙刀は道場の師範代を勤めるほどでした

湯川にかかる柳橋(涙橋)付近は、戊辰戦争で激しい戦いが行なわれ、薩長軍対して薙刀を手に勇猛果敢に挑んだ女性集団(婦女子隊)がありました
この隊の中心的存在が中野竹子、戦いは激戦となり、竹子は奮闘むなしく敵の銃弾を受け重傷、妹・優子の介錯により20歳の若さで戦場に散りました

NHK大河ドラマ「八重の桜」では中野竹子は黒木メイサさんが演じるそうです
登場が楽しみ

のぼうの城

2012年10月28日 | 歴史
和田竜の原作は面白くて一気に読み終えました
石田三成率いる2万の大軍を相手に500の手勢で忍城城主としてのぼう様が戦いを挑む・・・
いよいよ11月2日に映画封切り

監督は大ファンの犬童一心と樋口真嗣
主役の成田長親は野村萬斎
実に楽しみな作品、ぜひ観に行きたいですね~

ところで我が天栄村にもこの忍城にまけない城があったんです
その名は大里城(別名牛ヶ城)天栄村大里地区に築かれた山城



戦国時代、この地は須賀川の二階堂氏領土であり、その家臣矢田野氏の所領地
天正17年(1589)伊達正宗に責められた本城の須賀川城が落城、二階堂氏は滅亡
矢田野氏は一時、伊達正宗に仕えたが二階堂家再興を図り大里城に籠城

伊達成実、片倉景綱率いる1万の軍勢に対して守る大里城側は手勢約500名
圧倒的な力の差を跳ね返し、最後まで城は守られました

この大里城籠城戦は天下人豊臣秀吉にも知られ、その武勇を賞め安房守の受領名を与るとともに、新領主、蒲生氏郷に「本領を安堵してやれ」と下知しました

矢田野氏はその後佐竹氏に仕え、元和9年(1623)59歳で死去、子孫は秋田藩士として家系は続きました


白河ハリストス正教会

2012年09月18日 | 歴史
白河の関で名高い白河市は古くから奥州の玄関口として知られる歴史の街
仏教寺院も多く日本の全宗派の寺院があるといわれています

西洋式の建物の建造物にも歴史的なものがあります
こちらはキリスト教の歴史的教会「白河ハリストス正教会」1915年年に建造されたビザンチン様式のギリシャ正教会、建物と聖堂内のイコンは県の重要文化財





案内板には「この聖堂は大正3年(1914)7月に着工され、翌4年5月に聖式(竣工)が行われ、ハリスト教会として現存するものでは、全国で5番目に古い洋風建築です。平面は聖所を中心として、西に啓蒙所兼玄関(上階は鐘塔)、東に至聖所を配し、全体は十字型平面です。屋根は切妻造や八陵屋根、、中央の聖所には緩勾配の方形屋根を2段にかけ、中央部白塗りのドラムの上に緑色のクーポル(丸天井)を重ねており、一方、屋内は白漆喰型、聖所の天井には、球面三角形八個を組み合わせた見上げのドームを構成し、ピザンチン様式の雰囲気を漂わせています。設計は当時副輔祭であった河村伊蔵(現豊橋聖堂や現函館聖堂も担当)で、建築には地元の中村信太郎等があたり、費用は白河の信徒を中心に集められ、当時の金額4千円で建設されました。なお聖所には、福島県の重要文化財に指定されているイコン(聖画像)48点があり、そのうちの5点は当時の画家山下りんの筆によるものです。 福島県教育委員会」

通常は外観のみの見学ですが、予約により聖堂内部見学ができるそうなので一度は観てみたいですね

白河市愛宕町50
0248-23-4543

白河口の戦い

2012年09月15日 | 歴史
今から約140年前、鳥羽伏見の戦いに始まった旧幕府軍新政府軍の戊辰戦争
新政府軍は旧幕府軍の中心であった会津藩に進撃を開始、白河口で両軍の戦いが始まりました

白河口の戦いは東軍(会津藩、仙台藩、二本松藩、棚倉藩など奥羽越列同盟軍)と西軍(薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍藩など)が白河小峰城をめぐり約100日間にわたる激しい攻防戦

当時の小峰城は空城で会津藩が占拠、斎藤一が指揮する新撰組130人、会津藩家老西郷頼母が白河口総督として入城、その闘いにおける戦死者は東軍927人、西軍113人と両軍合わせて1000人を超え、戊辰戦争最大の戦いとも言われています

白河の人々は遺棄された戦死者を敵味方にかかわらず碑をたてて弔いました
市内には西軍東軍の戦没者の墓や慰霊碑、供養塔が多く建てられ、その数は50を超えているそうです

白河見聞館では企画展「戊辰戦争白河口の戦い」として繰り広げられた激戦の様子を知ることができます



展示品の数々







会津藩や新撰組にちなんだグッズも販売しています
どうぞお立ち寄りください

白河見聞館
白河市中町(楽蔵内)
☎0248-21-9395
定休日月曜日※月曜日が祝日の場合は翌日
営業時間9時~17時




福島の県庁

2012年09月09日 | 歴史
福島県庁の所在地は福島市、福島県中通りの北部に位置し人口28万4千人の中堅都市。県南部の白河市からは北と南に約90kmと遠く離れています。

郡山市は人口32万8千人、福島県の東西南北の中心部にある商都。
東日本の交通の十字路として経済・内陸工業・流通・交通の要所として、東北地方では有数の都市圏を形成。福島県内最大の経済圏となっています。
市内の国道4号には2箇所に「福島県庁を郡山市に」という看板があり移転運動もあるようです。

歴史を調べてみると、明治15年当時、会津やいわきの人々が県庁に行くには二日や三日もかかり移転運動が始まり、明治18年には福島県議会は県庁を福島から郡山に移す建議を多数で可決。だが、内務省により上申書が却下され移庁は出来なかった。
当時は県議会の議決など中央政府により簡単に却下できたようです。

実際の移転になれば浜通り北部など不便になる地区もありますが、県内の多くの地域が便利になることは間違いないと思います。









遺跡に胡桃が・・・

2012年07月26日 | 歴史
グランディ羽鳥湖スキー場近くにある天栄村の「板小屋遺跡」



江戸時代前期約160年間続いた木地師の集落跡。旧板小屋村で、会津の領主蒲生氏郷が近江国から入部した際、漆器職人と共にやって来たといわれている。木地師はろくろを使い、膳や椀、盆などの木工品を作り、会津若松や白河の漆器問屋へ持ち込み、現金収入を得ていた職人集団。最盛期には28戸があった。

道路から歩くこと約10分、墓碑群を過ぎたところに住居跡地がありました



当時は木々も少なかったと思われますが、木漏れ日の森に囲まれています



いちいの巨木、樹齢は数百年でしょうか
あの伽羅は同族、弓の材料としてもケルト人や日本のアイヌも使っていたそうです



周辺には梅のような果実がたくさん落ちています



割ってみると核が見えます



皮を剥いで乾かすとあの胡桃の殻になるんですね
若いころによく飲んでいたBARでは水割りのツマミでよく食べました

ハンサムウーマン

2012年05月02日 | 歴史
2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」
連休前には主演の「綾瀬はるか」さんが福島を訪れました。

新島八重
1845年(弘化2年)会津藩の砲術師範「山本権八・佐久」の子として生まれ、幼少期から家芸の砲術に興味を示す男勝りの性格の女性でした。
幕末、明治、大正、昭和と時代の波に翻弄されながら会津人としての誇りを持ち、のちに同志社大学創始者、新島襄の妻として波乱に満ちた生涯を終えました。

日本のジャンヌダルク
戊辰戦争の会津鶴ヶ城籠城において八重は髪を断ち、亡くなった弟・三郎の袴を身にまとい最新の7連発スぺーサー銃を駆使し薩長連合を相手に勇敢に戦いました。

ハンサムウーマン
戊辰戦争後には兄のいる京都に移り住み、英語を学び、洋装の女性に生まれ変わりアメリカ帰りの新島襄と結婚。当時には珍しい女性の教育者として活躍。
男女平等を実行、先進的な文化を積極的に取り入れた八重。夫の襄は八重をハンサムウーマンと称しました。

日本のナイチンゲール
日本赤十字社の社員となり、日清、日露戦争に看護婦として従軍。傷病兵の看護を行いました。会津の籠城戦でけがをした兵士を世話した経験が生かされました。
八重の生涯にわたる社会福祉活動を讃え「日本のナイチンゲール」とも呼ばれています。

激動の世を時代の波に翻弄されながらも、自分らしくまっすぐに生き抜いた新島八重。
福島県人の誇り、来年のドラマが待ち遠しいですね。


幸せを運ぶ赤い牛

2012年03月21日 | 歴史
会津地方の代表的郷土玩具「あかべこ」はご存知の方も多いのではないでしょうか



張り子人形で赤い色は魔よけ、幸せを運んでくるといわれています
頭に触ると前後左右に首を揺らし続ける姿はユーモラス

日本三虚空蔵のひとつに、数えられる柳津町の円蔵寺
「福満虚空蔵」とも呼ばれ毎年1月7日の七日堂裸まいりでも知られます

最澄との宗教論争で名高い名僧「徳一大師」がのこの円蔵寺に虚空蔵堂を建立する際、上流の村から大量の材木を寄進された
人々が材木を運ぶのに難儀していると、どこからともなく現われた牛の群れが材木の運搬を手伝ってくれた
重労働に多くの牛が倒れるなかで、最後まで働いたのが赤色の牛
これを顕彰するために“撫牛”として円蔵寺境内に牛の像が祀られ、これから赤べこが作られたと言われています

我家の玄関にもあかべこがお客さまをお出迎えしています


べろくんだし

2012年03月14日 | 歴史
我家のダイニングに魔よけとして飾ってある会津唐人凧

長崎を中心とした九州地方に多く見られる唐人凧
なんで会津地方に伝わったのかはよくわからないそうですが、江戸時代から続いている郷土玩具。
「べろくんだし」とよばれ、昔は正月などに空に舞っていたそうです。



戊辰戦争の1ヶ月にわたる籠城戦。
味方の士気鼓舞と「会津魂ここにあり」知らしめるため、鶴ヶ城から悠々とこの凧が上げられたと話も伝わっています。

ユーモラスで力強い姿はインテリアとしてもいいですね。


河童の詫び証文

2010年09月21日 | 歴史
天栄村中北部から村東部で隈戸川と合流、国道118号沿いに流れ、須賀川市内より阿武隈川に合流する「釈迦堂川」。天栄村にはこの川にまつわる伝説が残されています。



天栄村沖内集落「赤津神社」はその昔「不開神社あかずじんじゃ」と呼ばれ、その地中深くには城主「馬場八郎左エ門」が河童から預かった詫び証文が埋められていると伝えられています。

天正の昔、八郎左エ門は釈迦堂川の濁流を愛馬「大月」に乗って渡り、女郎寺の住職と碁を楽しんだ後帰途につき、夕闇の中釈迦堂川のなかで愛馬が動かなくなった。どんなに叱責しても一歩も進まず、棒立ちになって騒ぐありさま。剛勇を誇る八郎左エ門も途方に暮れたが、鞭をふるってようやく岸にたどり着いた。しかし愛馬はなおも荒れ狂い、いよいよ不審に思い馬の後部を見れば、怪しげな動物が馬の尻尾につかまっていた。怒った八郎左エ門は逃げる動物を「汝かっぱめ!」と太刀を抜いて手討ちにしようとした。
かっぱは「私には妻子や大勢の子分があり、お手討ちになると主を失い明日からは路頭に迷ってしまいます。」と再三にわたり詫びを入れた。八郎左エ門も哀れに思い、今後人畜に危害はもちろん、一切水難のないように守ることを誓わせ、扁平石に記しわび証文として差し出させ許してやった。これを城の東方の小高い丘に埋め、水難よけの祈願をした。

それから間もなくのこと。真夜中に異様な物音が聞こえ、村中のニワトリが一斉に鳴き叫び。村は不吉な予感に包まれたが、元の静かな夜に戻った。城中では、夜討ちの敵と思い八郎左エ門自ら出陣したが敵の姿は見えず、河童の詫び証文を調べさせた。土は掘り返されひどい有様であった。河童が詫び証文を取り返そうと大群をなし押しかけたが、ニワトリの声に夜明けとと思いこみ、目的を果たさず引き揚げたのだった。八郎左エ門はその後を案じ、詫び証文を石棺に納め地中深く埋めなおし、その上に祠を建て、永久に石棺の蓋を開くべからずと定め、社名を「不開あかず神社」とし、水難よけの神として祀った。この不開神社がいつのころから赤津と変わったのかは定かではないが、現在では社殿は大きく木造に建て替えられている。不開神社を祀って以来、釈迦堂川には水難の被害は見られず、詫び証文は今も深く信じられています。

木々が生い茂り鬱蒼としています・・・今にも河童が出そうです





戦国浪漫 南奥羽戦国記

2010年09月08日 | 歴史
昨今の戦国歴史ブーム・・・
大河ドラマの影響もあり戦国時代の武将に大きな関心を寄せる歴女、戦国時代をテーマにしたゲームや漫画から原作本を読む「歴史通」も増えているようです。

福島商工会議所青年部の立ち上げた「戦国浪漫 南奥羽戦国期」にアクセスが殺到中・・・

この南奥羽とは現在の福島、宮城、山形の南東北三県の総称。
伊達家、上杉家、葦名家、最上などの有力大名が覇を競っていました。

我が天栄村は須賀川 二階堂氏の支配下にあり本家が伊達氏に滅ぼされたあとも家臣「箭田野安房守義正」が約500人の兵で大里城に篭城、伊達成実、片倉小十郎が率いる1万あまりの軍勢の猛攻に約2ヵ月にわたり抵抗、守りきった難攻不落の名城跡があります。その武勇により豊臣秀吉より所領を安堵されたが、のちに箭田野安房守義正は佐竹氏の家臣となりました。

三県を巡る戦国武将巡礼マップもpdfでダウンロード可能。郵送で送付受付しているそうです。
歴史好き、戦国史好きな方はぜひ訪問してください。