天栄村中北部から村東部で隈戸川と合流、国道118号沿いに流れ、須賀川市内より阿武隈川に合流する「釈迦堂川」。天栄村にはこの川にまつわる伝説が残されています。
天栄村沖内集落「赤津神社」はその昔「不開神社あかずじんじゃ」と呼ばれ、その地中深くには城主「馬場八郎左エ門」が河童
から預かった詫び証文が埋められていると伝えられています。
天正の昔、八郎左エ門は釈迦堂川の濁流を愛馬「大月」に乗って渡り、女郎寺の住職と碁を楽しんだ後帰途につき、夕闇の中釈迦堂川のなかで愛馬が動かなくなった。どんなに叱責しても一歩も進まず、棒立ちになって騒ぐありさま。剛勇を誇る八郎左エ門も途方に暮れたが、鞭をふるってようやく岸にたどり着いた。しかし愛馬はなおも荒れ狂い、いよいよ不審に思い馬の後部を見れば、怪しげな動物が馬の尻尾につかまっていた。怒った八郎左エ門は逃げる動物を「汝かっぱめ!」と太刀を抜いて手討ちにしようとした。
かっぱは「私には妻子や大勢の子分があり、お手討ちになると主を失い明日からは路頭に迷ってしまいます。」と再三にわたり詫びを入れた。八郎左エ門も哀れに思い、今後人畜に危害はもちろん、一切水難のないように守ることを誓わせ、扁平石に記しわび証文として差し出させ許してやった。これを城の東方の小高い丘に埋め、水難よけの祈願をした。
それから間もなくのこと。真夜中に異様な物音が聞こえ、村中のニワトリが一斉に鳴き叫び。村は不吉な予感に包まれたが、元の静かな夜に戻った。城中では、夜討ちの敵と思い八郎左エ門自ら出陣したが敵の姿は見えず、河童の詫び証文を調べさせた。土は掘り返されひどい有様であった。河童が詫び証文を取り返そうと大群をなし押しかけたが、ニワトリの声に夜明けとと思いこみ、目的を果たさず引き揚げたのだった。八郎左エ門はその後を案じ、詫び証文を石棺に納め地中深く埋めなおし、その上に祠を建て、永久に石棺の蓋を開くべからずと定め、社名を「不開あかず神社」とし、水難よけの神として祀った。この不開神社がいつのころから赤津と変わったのかは定かではないが、現在では社殿は大きく木造に建て替えられている。不開神社を祀って以来、釈迦堂川には水難の被害は見られず、詫び証文は今も深く信じられています。
木々が生い茂り鬱蒼としています・・・今にも河童が出そうです