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小さき花-第8章~9

2022-11-23 15:15:38 | 小さき花

 1894年7月29日、父は種々の苦しみ試しに遭い、完徳に達して後遂に主に呼び招かれました。その死ぬる前の二年の間中風が全身に及びましたが、その間叔父はこの難病に罹った老人を、手厚く介抱してくれました。病気のために痩せ衰えた父は、その病中ただ一度修院の客室に来られて私に会われましたが、この時は実に何とも言えない悲しい面会でした。別れに臨んだ時私は父に「さようなら……」と申しますと、父は静かに眼を天に向け指で天を示し、自分の思いを言い表そうとして涙にむせびながら、ただ一言「天国に於いて……」と。
 父は美しい天国に入られてから後、彼の慰めであったセリナが世間に繋いであった縁が切れてしまいました。しかし……天使たちはこの世界に残るためではなく、その使命を果たすと直ぐに天主様の法に帰るので、このために皆羽翼が付いているように描かれてあるのであります。それでセリナも「カルメル修院」の方に飛ぼうとしましたが、除く事の出来難い種々の妨げがありました。ある日その妨げが益々込み入って来ましたので、私は聖体を拝領した後、聖主に次の如く祈禱を致しました。我がイエズスよ私は父がこの世に於いていろいろの苦しみ試しに遭いましたから、これを以って煉獄の贖いをも果たしてしまうようにと、日頃熱心に望んでいる事をよくご存じでありましょう。おお今私のこの望みが聴き入れられたか大いに知りとうございます。しかし私に直接これを告げてくださいとはお願い致しません。ただ次の一つの印だけお願いいたします。即ち主はセリナが「カルメル会」に入る事について、ある童貞がこれに反対しているという事もよくご存じでございましょう。それでもしこの反対がなくなればそれhじゃ主の良きご返事であって、父は真っすぐに天国に昇ったという事を知らせて下さる印であります……」と。ああイエズス様は限りなく慈しみ深く、どれほどご親切の御方ではありませぬか、ご自身の御手を以って人々の心を支配し、聖慮のままに傾かせる天主様は、反対していた童貞の心向きを変えてくださいました。
 私は聖体拝領後の感謝の祈祷が終った後、最初に会いました人は、セリナに反対していたその童貞でありました。彼女は私を呼んで涙を流しながら、近いうちにセリナは「カルメル会修院」に入る事、なお一日も早く入会する事を何よりも望む、と自分の心を打ち明けました。そして間もなく司教様もまた残る妨げを取り除いて母様に対して、島流しに遭っていたその小さい鳩の為に、修院の門扉を開け放つ事を容易に許してくださったのであります。(それで1894年9月14日セリナは「貴き面影のゲノワ童貞」という名を以って、遂にこのカルメル会修院に入りました」。
 今日では私はもうただ極度にまでイエズス様を愛するより外、何の望みもありません。私の心を引き寄せるものはただ愛のみでありまして、最早苦しみとか死とかを望みません。しかしそれでもなおこの苦しみと死とを両方とも慕う、喜びの天使のようにこれを永く招きました。私は最早苦しみに遭って天の岸に着いたかと思っておりました。私は幼い時からこの小さき花がその青春に於いて摘み取られると思っておりました。しかし今日では私を案内し導く者は、ただ天主様の摂理に委せるという事のみでありまして、これより他の磁石がありません。それゆえ私の霊魂の上に天主の聖慮が完全に行われん事を願うの外、他に何事も熱心に願う事を知りません。私は十字架の聖ヨハネの聖歌の言葉をここに繰り返す事ができます。
 
 我が親愛なるイエズスの
 奥殿に入りて愛に酔わされつ
 再び戸外に出でし時
 現世なる広き野原は荒れ果てて
 肉眼に入るものは何もなく
 伴い来たりし内心の
 私欲も欠点も散り失せぬ
 
 我が霊魂は主に仕えるため
 喜びも…悲しみも…希望をも
 すべて皆捧げ終わりぬ
 さらば、力を尽くし心を尽くし
 ただ主をのみ、ああ……
 ただ主のみ愛せんかな

或いはまた

 私は主を愛するに身を委ねてより後
 愛……愛は心の中に在る何事も……
 悪さえもなお為になるほど
 行為の上に大いなる影響を及ぼし
 なお霊魂をも同化さすほどに豊かな力がある。
 
 ああ母様、この愛の道は如何にも優しく歩みやすい道ではありませんか。無論欠点や罪悪に陥ることが出来ますが、しかし前に申した通りこの愛の道は何事にも為になる法を知りてイエズスのお気に召さない事は全てみな早く焼き付かせてしまい、心の底にはただ謙遜と深き平和のみを残します。


小さき花-第8章~8

2022-11-01 21:17:05 | 小さき花

 私の希望についての話しに移りましたから、ついでに聖主が遂げさせてくださった今一つの変わった望みの事を申し上げましょう。この望みはちょうどかの着衣式の時に、雪を望んだような子供らしい望みであります。母様、綿日は花をいかほどに深く好むかという事をよくご存じで御座いましょう。私は15歳の時この修院の囲いの中に入ることを以って事後いつまでも春の宝ともいうべき、花に満ちている郊外をさまよう愉快を味わう事を犠牲としておりましたが、この「カルメル会修院」に入ってから後は、却って今までよりも多くの花を眺めることが出来ました。
 この世間の人々の中にその許嫁の男は許嫁の女に美しき花束を送る慣例があります。イエズス様はこれをもお忘れなく、私に立派な花束を与えてくださいました……。私は祭壇に飾るためにとか、菊とか、美人草など最も私の気にいるような花を、有り余るほどたくさん貰いました。この中に私の友として特に好きであった最も小さきナデシコがありませんでした。そしてこのナデシコは修院の花園にもなかったので、切にこの花を望んでおりました。ところが奇妙にもこの花が他かた送られてきました。天主はこれを以って、御自分を愛する為に全ての物に離れた人々に対しては大いなる事ばかりでなく、至極些細な事に至るまで、この百倍の報酬を与えるという事を示されたのであります。私は今一つの最も大切な希望……種々の事由によって果たされ難く、実行されにくい希望が残っておりました、これは即ち姉セリナがこのリジュの「カルメル会修院」に入って欲しい望みであったのです。然るにこれは余程難しい事であると思いましたので、この望みを天主様に犠牲として供え、この親愛なる姉の将来を全く主の聖慮に任せておりました。万一聖慮なれば彼女は世界の果てに行っても構いません……がどうかして私の如く、その身を全くイエズス様に捧げてその配偶者になるようにと望んでおりました、私はセリナがこの世間に於いて、私が知らなかった種々の危険の中にいるという事を見て如何にも辛くありました。また私は彼女に対しては姉妹の愛情よりもむしろ子に対する慈母の愛情に似ていて彼女の霊魂のために大いに案じ煩っておりました。
 ある日セリナは叔母や従姉妹らと共に、世間的の集会に行かねばなりませんでした。私はその時どういう理由かこれがために大いに心の苦痛を感じましたので、涙を流しながら「イエズス様に「どうか彼女がダンスをしないように」と熱心に祈りました。ところがちょうど私の願った通り、聖主はご自分の小さき許嫁が良い業を持っていながらその夜ダンスをしないように計らったばかりでなく、その相手もまた不思議がっている大勢の前で、この令嬢と共に至って慎んで出歩くよりほか、どうすることも出来ないように計らってくださいました。それでその相手も遂に恥じてその夜再び顔出しをしなかったそうであります。私はこの類例のない出来事によって、ますます天主様に寄りすがり任せるという思いが増長しました。そして親愛なるこの姉の額に、イエズス様の印影が明らかに置かれてある……聖主に選ばれているという事を確かに悟りました。
 


小さき花-第8章~7

2022-10-30 08:11:47 | 小さき花

 母様、私は天主様に対して、有難く感謝せねばならぬ理由はいくらでもあります。今一つの秘密をありのままに申し上げましょう。主はソロモン王に対して与えられた慈愛を、同じく私にも与えてくださいました。私の希望が全てみな思う通りに果たさせてくださいました。それがただ完徳の望みばかりでなく、前もって無益であると悟っていた望みまでも遂げさせてくださったのであります。私は姉イエズスのアグネスを理想的の模範として、何事も彼女に真似たいと望んでおりました。かつて彼女が美しい絵を描き、詩を作るのを見て、私もこのように絵を描き市を作って自分の思念を表し、周囲にいる人々に利益ある感想を与えることが出来るようになれば、なんて愉快な事でしょう……と思っていました。しかしまた一面にはこのような世間的のたまものを願いたくありませんでしたから、ただこの望みを心の奥に隠して外には表しませんでした。
 この望みは幼い時からの希望で、私が10歳の時、父がセリナに絵を学ばせるという事を告げた時に、私も側に居りましたので、密かにセリナの幸福を羨んでおりました。ところが父は私に「我が小さき女王よ、そなたも絵を学びたいか」と尋ねました。私は飛び立つばかりに嬉しく直ぐに はい と答える所でしたが、そばから姉のマリアは、私がセリナのような傾向がないという事を申しました。私はこの言葉を聴くと同時に、これはイエズズ様に大いなる犠牲を捧げる良い機会であると思いましたので、何も答えず黙ってしまいました。私はこの絵を学ぶという事を非常に望んでおりまして、その時にどうして黙って居る勇気があ高を今日でも不思議に思う程であります。
 この貧しく小さく哀れな心の中に隠れておられるイエズスは今一度私に此の過ぎ去るすべての者のむなしさを見せる聖慮でありました。私は他の修道女等が皆不思議に思う程によく絵を描き詩を作ることが出来てこれを以って数人の霊魂のためになりましたが、かのソロモン王が無益に骨折り損した自分の手細工を見て「太陽のもとに何ごとも虚無と、精神の上の疲れのみである……(集会の書2の2)」という事を悟ったように、私も経験の上からこの世界に生存している間の唯一の幸福は、己を隠し造られた物事を全く忘れて陰徳を積むにある、そしてまた「愛」がなければすべて著しい事業でも虚無であるという事を悟りました。聖主が溢れるばかり十分に与えてくださった全てのたまものは、私の害となり霊魂を傷つけるのではなく、ことごとく皆私を聖主のほうに引き寄せるのであります。即ち変わらない唯一の者は聖主のみであって、限りもない私の希望を遂げさせてくださるのも聖主のみであります。
 


小さき花-第8章~6

2022-10-29 18:45:57 | 小さき花

 また喜んでおりましたのは、祭式用の聖き器具を取り扱う事と、ミサに用いる衣巾を整理する事とを許された事であります。綿日はこういう任務を尽くしには至って厚い信仰を持って居らねばならないと悟り、預言者イザヤの仰せられた「主の器具に触る者等よ、完かれ……(イザヤ書52ノ11)」という言葉を度々思い出しておりました。
 母様、私はこの時とそして平素の聖体拝領後の感謝について何を申し上げましょうか。私はその時ほど慰めを得ない時がありません。これは当然の事でありましょう。私は自分の楽しみ愉快を得たいために聖体を拝領するのでなく、唯一の目的は聖主のお気に召し、イエズス様を喜ばし楽しめ奉るためでありますから、私は自分の霊魂が、少しも妨げもない、滑らかな土地の如くに考えます。それで聖母マリアにお願いして壊れ物の如き全ての欠点を取り除いて頂き、なおこの土地に天国に相応しい広大な天幕を設けて、御自分の美徳を以ってこれを飾られんことを願い、然る後に私は愛の歌を歌うために、諸天使と諸聖人を、ここに招待します。されば聖主イエズス様は、私にかくのごとく丁重に歓待されるのを必ずご満足に思われ私もまた、そのお喜びを分けて頂けるように考えます。しかし私はこういう思念があるにも拘わらず、度々心が散り眠りを催すなどの事がありますから、私は感謝の務めをよく果たさない場合にはその日一日感謝の続かす決心を致します。
 母様、ご覧の通り、私はなかなか恐れの道を歩むところはありません。いつも幸福を保つ方法と自分の欠点を利用する方法を見つける事をよく知っております。そして聖主もまた私にその道に進むのを励ましてくださいます。ある日私は聖体拝領台に跪いた時、平素と違って少しの心配が起こりました。数日前から「ホスチア」(聖体のパン)の数が少なかったので私は一切れだけ受けておりました。ところがこの朝ふと「もし今日も「ホスチア」の一切れのみを受けるならば、聖主は厭々ながら私の心に降臨られるのであると思いましょう」などと、少しも道理に合わない考えを起こしました。そして聖体拝領台に跪きますと、案外にも司祭はよく分かれ離れている「ホスチア」を二つ授けてくださいました。ああ何という聖主の深き慈しみ深き愛でありましょうぞ!。


小さき花-第8章~5

2022-10-28 12:59:11 | 小さき花

 私は夢についてはあまり懸念しません。もとより私には何かの預言的のような夢が稀であります。私は朝から晩までただ天主様の事ばかりを思うのに、なぜ睡眠の間にもっと多くのこの御方に心が惹かれないのであろうかと思う事もあります。私の夢は大抵森とか川とか花とか海とか、特にまた美しい子供たちやまだ見たことのない蝶と鳥などを捕らえるという皆詩的のような夢でありまして中々神秘的や比喩的の夢ではありません。
 ところがこのゲノワ童貞が亡くなられた後のある夜、慰めの夢を見ました。それはこの童貞が私等各々に自分の所持品を遺品として与えておられましたが、私の順番に当たる時にはもはや彼女の手に一品もありませんでしたから、私は到底何物をも頂く事が出来ないと思っておりました。すると彼女は愛情深い眼で私を眺めながら「そなたには私の心を遺す」と三度申されたのであります。
 このゲノワ童貞が立派な臨終をせられて一ヶ月の後、即ち1891年の末にこの修道院内に激しい流行感冒が入りました。私も軽くこの病気に罹りましたが、僅かに他の二人の修道女と共に、臥せらずにいた位で、他の者はみな病床についておりました。この恐ろしい病気中この修道院内の光景は、実に思い出す事も忍びない位の悲惨で、一番重い病人をようやく歩行ができるばかりの病人が看護しているという有様であります。そして彼処でもここでも続いて病死し、亡くなるとすぐにこれを隔離せねばなりませんでした。
 私が19歳になった記念日にちょうど副院長が病死なされましたので心を痛めました。臨終の際には私はこの御方を看病をしていた人と一緒にその側におりました。副院長が亡くなられると間もなく他の二人の修道女も続いて亡くなりました。そしてその時聖堂の納屋係はただ私一人でしておりましたので、どうして一人で行き届くことが出来たか不思議に思っております。
 ある朝起床の鐘が鳴りますと、ちょうどその時私は病床に就いているマグダレナ童貞が亡くなったという気が致しました。まだ寝室が暗くそこに行くところの廊下が暗いですから寝室から出る者は誰もありません。然るに私は急いでマグダレナ童貞の部屋に入りますと、思った通り彼女は藁布団の上で少しも動かず、早くも冷ややかになっております。そこで私は何の恐れもなくすぐさま納屋に走って蝋燭を取り出し、彼女の頭の上に薔薇の花冠を被せました。憐れみ深い天主様はかくのごとき悲惨な場合に於いても、私等を護っておられるという事を深く感じました。病人等はみな何の心配もなく、至極穏やかにこの世界を離れて、もっと幸福な生命を得るのであります。彼女等の顔には天の喜びが現れて、安らかに眠っているようでありました。
 私はこの長き試練の間に、毎日聖体を受けるという無上の慰めを得ました。これは如何にも愉快な事で、聖主は私に対して他の者よりも特別に御慈愛を垂れてくださったのであります。この流行風邪が治まった後も、他の童貞等はまだ数か月の間、私の如く毎日聖体を拝領する事が許されませんでした。私は特にその許容を願いませんでしたが、しかし何よりも親愛なる聖主を毎日拝領する事を至って喜んでおりました。