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小さき花-第8章~7

2022-10-30 08:11:47 | 小さき花

 母様、私は天主様に対して、有難く感謝せねばならぬ理由はいくらでもあります。今一つの秘密をありのままに申し上げましょう。主はソロモン王に対して与えられた慈愛を、同じく私にも与えてくださいました。私の希望が全てみな思う通りに果たさせてくださいました。それがただ完徳の望みばかりでなく、前もって無益であると悟っていた望みまでも遂げさせてくださったのであります。私は姉イエズスのアグネスを理想的の模範として、何事も彼女に真似たいと望んでおりました。かつて彼女が美しい絵を描き、詩を作るのを見て、私もこのように絵を描き市を作って自分の思念を表し、周囲にいる人々に利益ある感想を与えることが出来るようになれば、なんて愉快な事でしょう……と思っていました。しかしまた一面にはこのような世間的のたまものを願いたくありませんでしたから、ただこの望みを心の奥に隠して外には表しませんでした。
 この望みは幼い時からの希望で、私が10歳の時、父がセリナに絵を学ばせるという事を告げた時に、私も側に居りましたので、密かにセリナの幸福を羨んでおりました。ところが父は私に「我が小さき女王よ、そなたも絵を学びたいか」と尋ねました。私は飛び立つばかりに嬉しく直ぐに はい と答える所でしたが、そばから姉のマリアは、私がセリナのような傾向がないという事を申しました。私はこの言葉を聴くと同時に、これはイエズズ様に大いなる犠牲を捧げる良い機会であると思いましたので、何も答えず黙ってしまいました。私はこの絵を学ぶという事を非常に望んでおりまして、その時にどうして黙って居る勇気があ高を今日でも不思議に思う程であります。
 この貧しく小さく哀れな心の中に隠れておられるイエズスは今一度私に此の過ぎ去るすべての者のむなしさを見せる聖慮でありました。私は他の修道女等が皆不思議に思う程によく絵を描き詩を作ることが出来てこれを以って数人の霊魂のためになりましたが、かのソロモン王が無益に骨折り損した自分の手細工を見て「太陽のもとに何ごとも虚無と、精神の上の疲れのみである……(集会の書2の2)」という事を悟ったように、私も経験の上からこの世界に生存している間の唯一の幸福は、己を隠し造られた物事を全く忘れて陰徳を積むにある、そしてまた「愛」がなければすべて著しい事業でも虚無であるという事を悟りました。聖主が溢れるばかり十分に与えてくださった全てのたまものは、私の害となり霊魂を傷つけるのではなく、ことごとく皆私を聖主のほうに引き寄せるのであります。即ち変わらない唯一の者は聖主のみであって、限りもない私の希望を遂げさせてくださるのも聖主のみであります。
 


小さき花-第8章~6

2022-10-29 18:45:57 | 小さき花

 また喜んでおりましたのは、祭式用の聖き器具を取り扱う事と、ミサに用いる衣巾を整理する事とを許された事であります。綿日はこういう任務を尽くしには至って厚い信仰を持って居らねばならないと悟り、預言者イザヤの仰せられた「主の器具に触る者等よ、完かれ……(イザヤ書52ノ11)」という言葉を度々思い出しておりました。
 母様、私はこの時とそして平素の聖体拝領後の感謝について何を申し上げましょうか。私はその時ほど慰めを得ない時がありません。これは当然の事でありましょう。私は自分の楽しみ愉快を得たいために聖体を拝領するのでなく、唯一の目的は聖主のお気に召し、イエズス様を喜ばし楽しめ奉るためでありますから、私は自分の霊魂が、少しも妨げもない、滑らかな土地の如くに考えます。それで聖母マリアにお願いして壊れ物の如き全ての欠点を取り除いて頂き、なおこの土地に天国に相応しい広大な天幕を設けて、御自分の美徳を以ってこれを飾られんことを願い、然る後に私は愛の歌を歌うために、諸天使と諸聖人を、ここに招待します。されば聖主イエズス様は、私にかくのごとく丁重に歓待されるのを必ずご満足に思われ私もまた、そのお喜びを分けて頂けるように考えます。しかし私はこういう思念があるにも拘わらず、度々心が散り眠りを催すなどの事がありますから、私は感謝の務めをよく果たさない場合にはその日一日感謝の続かす決心を致します。
 母様、ご覧の通り、私はなかなか恐れの道を歩むところはありません。いつも幸福を保つ方法と自分の欠点を利用する方法を見つける事をよく知っております。そして聖主もまた私にその道に進むのを励ましてくださいます。ある日私は聖体拝領台に跪いた時、平素と違って少しの心配が起こりました。数日前から「ホスチア」(聖体のパン)の数が少なかったので私は一切れだけ受けておりました。ところがこの朝ふと「もし今日も「ホスチア」の一切れのみを受けるならば、聖主は厭々ながら私の心に降臨られるのであると思いましょう」などと、少しも道理に合わない考えを起こしました。そして聖体拝領台に跪きますと、案外にも司祭はよく分かれ離れている「ホスチア」を二つ授けてくださいました。ああ何という聖主の深き慈しみ深き愛でありましょうぞ!。


小さき花-第8章~5

2022-10-28 12:59:11 | 小さき花

 私は夢についてはあまり懸念しません。もとより私には何かの預言的のような夢が稀であります。私は朝から晩までただ天主様の事ばかりを思うのに、なぜ睡眠の間にもっと多くのこの御方に心が惹かれないのであろうかと思う事もあります。私の夢は大抵森とか川とか花とか海とか、特にまた美しい子供たちやまだ見たことのない蝶と鳥などを捕らえるという皆詩的のような夢でありまして中々神秘的や比喩的の夢ではありません。
 ところがこのゲノワ童貞が亡くなられた後のある夜、慰めの夢を見ました。それはこの童貞が私等各々に自分の所持品を遺品として与えておられましたが、私の順番に当たる時にはもはや彼女の手に一品もありませんでしたから、私は到底何物をも頂く事が出来ないと思っておりました。すると彼女は愛情深い眼で私を眺めながら「そなたには私の心を遺す」と三度申されたのであります。
 このゲノワ童貞が立派な臨終をせられて一ヶ月の後、即ち1891年の末にこの修道院内に激しい流行感冒が入りました。私も軽くこの病気に罹りましたが、僅かに他の二人の修道女と共に、臥せらずにいた位で、他の者はみな病床についておりました。この恐ろしい病気中この修道院内の光景は、実に思い出す事も忍びない位の悲惨で、一番重い病人をようやく歩行ができるばかりの病人が看護しているという有様であります。そして彼処でもここでも続いて病死し、亡くなるとすぐにこれを隔離せねばなりませんでした。
 私が19歳になった記念日にちょうど副院長が病死なされましたので心を痛めました。臨終の際には私はこの御方を看病をしていた人と一緒にその側におりました。副院長が亡くなられると間もなく他の二人の修道女も続いて亡くなりました。そしてその時聖堂の納屋係はただ私一人でしておりましたので、どうして一人で行き届くことが出来たか不思議に思っております。
 ある朝起床の鐘が鳴りますと、ちょうどその時私は病床に就いているマグダレナ童貞が亡くなったという気が致しました。まだ寝室が暗くそこに行くところの廊下が暗いですから寝室から出る者は誰もありません。然るに私は急いでマグダレナ童貞の部屋に入りますと、思った通り彼女は藁布団の上で少しも動かず、早くも冷ややかになっております。そこで私は何の恐れもなくすぐさま納屋に走って蝋燭を取り出し、彼女の頭の上に薔薇の花冠を被せました。憐れみ深い天主様はかくのごとき悲惨な場合に於いても、私等を護っておられるという事を深く感じました。病人等はみな何の心配もなく、至極穏やかにこの世界を離れて、もっと幸福な生命を得るのであります。彼女等の顔には天の喜びが現れて、安らかに眠っているようでありました。
 私はこの長き試練の間に、毎日聖体を受けるという無上の慰めを得ました。これは如何にも愉快な事で、聖主は私に対して他の者よりも特別に御慈愛を垂れてくださったのであります。この流行風邪が治まった後も、他の童貞等はまだ数か月の間、私の如く毎日聖体を拝領する事が許されませんでした。私は特にその許容を願いませんでしたが、しかし何よりも親愛なる聖主を毎日拝領する事を至って喜んでおりました。
 


小さき花-第8章~4

2022-10-23 21:04:48 | 小さき花

 ああ、私はこの慰めの言葉を聴いてどれほど幸いであったでしょうか。私は今までかくのごとく天主様を悲しませないところの過失というものがあるということを聞いたことがありませんでしたから司祭のこの断言は私に大いなる喜びを与え、この世の島流しに耐える力を与えられました。もとよりこれは私の心の底からの思いの響きであったのであります。私は長く前から聖主は母親よりも愛の深い御方であるという事を深く信じておりました。私はこの母親たる者の心の底まで、よく知っております。彼は自分の子供が何気なく犯した過失をも、いつも赦す覚悟でいるという事を幾たびとなく幸いに経験致しました。私は母の一つの愛撫を受ける方がいかなる厳しい咎めに遇うよりもはるかに心が動きます。私は恐怖の方が私を後ずさりする性質でありまして、愛を以って進むばかりでなく大いに飛ぶようであります。
 この恩寵豊かなる黙想会の二か月後、このリジュの「カルメル会修院」に設立された「聖テレジアのゲノワ」童貞が、天国の修院に入られるため、この小さき修院を去られました。
 この御方の臨終のときの感想を申し上げる前に、まず私が奇蹟とかその他いろいろ、我々の倣うことの出来ない事をなされた御方ではなく、隠れた善徳を行われ普通の任務を執られながら、完徳を達せられた一人の聖女と共に暮らした幸いのことを申し述べ、私は度々この童貞から大いなる慰めを与えて頂きました。
 ある日曜日、私はこの童貞の御病気を見舞うために病室に入りました。ところがその側に二人の目上の修道女が居られましたので、少し遠慮して静かにその場を去ろうとしました。するとゲノワ童貞は私を呼んで、ちょうど何かお示しを受けたかのように『ちょっと待ちなさい、一言申したい事がある」、平素そなたが、私に自分の霊魂の利益になる様な金言を聞かせてくれ、と願っておったから、今日府議の言葉を聞かせる、即ち「我が女児よ平和と喜悦とを以って天主様に仕えよ。私等の神は平和の神であるということを思えよ……』と申されました。
 私は礼を述べ、天主様が私の霊魂のありさまをこの童貞にお示しくださったという事を確信し、涙を流すまで感動しながら病室を出ました。この日私は大いなる試しに遭い心配しながら自分は天主様に愛されているかという事さえも分からぬまでに、深い暗黒の中に沈んでおりました。しかしこの暗黒に代わった光明はいかほどであったか、母様はよく推し量る事が出来ましょう。
 次の日曜日、私はゲノワ童貞が以前にいかなるお示しを受けて居られたかという事を知りたかったので、この事をゲノワ童貞にお尋ねいたしましたが「何もお示しを受けなんだ」と答えられました。綿日はこの答を聞いて、いかに優れた方法によってイエズスはその霊魂の中に宿って居られて、彼女に自分の聖慮を行わせ言わせていたという事を悟りましたので深く感心致しました。ああ、このイエズス様と一致して我が心に宿し、そのお指図に従うという事は私にとって最も確かな道、最も完徳にかなう道であると思います。そしてこの道は迷いの恐れがありませんんから私はこれを望みます。
 このゲノワ童貞が島流しの地とともいうべきこの世を去って、本国なる天国に還られた日、私はひとつの特別の恩恵を受けました。私は人の死を見たのはこの時が初めてでありました。この「死」の光景が実に強く心に響きますが、私はこの臨終に迫っておられる童貞の寝台の側にいた2時間は、全く無感覚でありましたので辛かったのであります。しかし彼女が天国に生まれなさったと同時に私の心が全く変わって、瞬く間にいうに言われぬ大いなる喜びと熱心とに満たされ、ちょうど最早光栄を受けたこの霊魂が私にその光栄の一部分を分け与えたかのようでありました。私はこの童貞が真っ直ぐに天国に昇られたという事を確信します。
 ご存命中のある日私は彼女に向かって「母様、あなたは煉獄に行きません」と申しますと、彼女は「やはり私も左様に思います」と答えられました。天主様はこの謙遜に満ちている希望を確かに遂げさせてくださったに相違ありません。私等が受けたいろいろの恩恵がそれを証明いたします。
 修道女等は急いで各自このゲノワ童貞に何らかの遺物を与えられんことを願いました。母様、私がただいま大切に保存している遺物はなんであるかご存じで御座いましょう。私は彼女が臨終の苦しみの時に、そのまぶたの上にダイヤモンドのごとく美しく光るひとしずくの涙を見ました。この涙は彼女がこの世界に於いて流した最後の涙でありまして、これが地に落ちませず、その死体が公に聖堂に置かれた時にもなおその涙を見ました。それで私はその夜密かに死体に近づき、薄い布を以ってこれを拭い取りましたので、今日一人の聖女の最後の涙を保存する光栄を得たのであります。
 


小さき花-第8章~3

2022-10-16 17:50:02 | 小さき花

 私はちょうどこの聖母マリアのご誕生日、聖主の配偶者となるには、如何にも適当した立派な祝日ではありませんか。生まれたての「小さき」聖母マリア様は、ご自分の「小さき花」テレジアを「幼き」イエズス様に献げた御方であります。この日は何も彼も皆「小さく」ありまして、ただ小さくなかったものは私の受けた恩寵、平和、喜悦とでした。即ちその夜空の美しい星を仰ぎ眺めながら私も「間もなく」永遠の幸いの中に於いて天配と一致する為に、天国に昇るという事を考えながら平和、喜悦、恩寵はなかなかに「小さく」ありませんでした。
 9月24日、被巾(ヴェール)を冠る式(真の修道女となる式)がありました。が、この祝いは涙を以って覆われました。即ち父の病気は意外にも重くなりましたので、その女王の式に与ることが出来ませず、ウゴネン司教様もまた式が始まる間際に妨げが起こって来られませず、なおその他にも種々の事情があったためにこの日にはただ憂いと苦みだけが混じっておりました。が、しかしこの苦い杯の底にはいつも平和が潜んでおりました。この日私はイエズス様の摂理によって涙を流さずにおられないようになりました。そして誰もこの涙の理由を悟りません……私はこれよりもなお大いなる試しを涙を流さずに耐え忍んでおりました。これはその試しに逢う度毎に大いなる恩寵を受けて強められていたからであります。しかしこの24にchいにはなお私の能力だけに任されたものですから、涙を流し私の能力がいかほどに弱く小さき者であるかという事を示されました。
 越えて8日の後、従妹のヨハンナがネールという医学士と結婚しました。そしてヨハンナは結婚後最初に修道院に訪ねて来た時、夫に対して尽くして居るいろいろの親切を言い表しました。私はこれを聞いて大いに感動し、一人思うには「私が親愛なるイエズス様に対しても世間の人の婦人がただの人間の夫対して心を尽くすほうが優れているという事を言われないようにしたい……」と、それで新しい熱心に励まされ、私の霊魂を神聖なる配偶とせられる為に私を高めて下さった、王の王たる天配の御意に召すよう以前よりも一層努めました。
 私はヨハンナの結婚の報知の手紙を見ましたから、何が私に感動を与えたか、またこの地の縁組の誉れがイエズス様のはいぐうしゃになる誉れと比べると如何にも劣るものであるという事を示す為に、次のような報告文をしたためて修道女らに読み聞かせました。
「全能なる天主、天地の創造主、世界万物の最上の主権者と、そして天使諸聖人の元后たる聖母マリアは、王の王、主の主なる御子イエズス様と小さきテレジアとの霊的の婚礼を知らせて下さる、この小さきテレジアはただいま、その天配から結納として与えられたる国々の女王中の女王たる聖き名を「幼きイエズスのテレジア」と「聖き面影のテレジア」と名付けられました。イエズスの御幼年と御苦難によって爵位を賜りました。そして1890年9月8日に「カルメル会修道院」の中に於いて行われた結婚の祝いには、ただ天上の諸天使諸聖人のみ列席する事が許されたのであなた達を招く事が出来ませんでしたから、明日……即ち永遠の入る日に於いて行われる婚礼後の里帰りに……御子イエズス様は天の雲に乗って、光栄の中に大いなる威光を以って、生きている人と死んでいる人とを審判するために降臨されるその日に招待いたします。時間はまだ正確に決まっておりませんからどうかいつでも差支えのないよう、充分覚悟して待っていて下さるようにお勧め致します」……。
 母様、唯今何を申し上げましょうか……。私はあなたの前でイエズスに身を捧げました。あなたは私の幼年の時からの事をよくご存じでありますから、私の神秘を書く必要がないと思います。それで万一私が修道生活の話を省く事がありましてもなにとぞ赦してください。
 私が誓願を立てた翌年、黙想会がありまして、その時に多大の恩寵を受けました。私は説教を聴かされる黙想会は辛くありましたが、今度はいつもと反対でありました。この時の黙想会も大いに苦しみに遭うと思いましてその前、9日間熱心に祈禱をして、この黙想会の予備を致しておりました。この黙想会の時に説教のために選ばれた司祭は、修道生活をする霊魂を完徳に進ませるというよりも、疑いもなく罪人を改心させるに妙を得ているという噂の高い御方でありました。私はこの司祭の説教によって大いに慰めを与えられたのでありますから私は大いなる罪人であったに相違ありません。
 私はその時に申し述べることの出来ないほどにいろいろと心の憂い苦しみに遭っておりましたところが、不思議にもこの司祭は私の霊魂の内をよく悟り、思うつぼを指すようにして、私の霊魂を完全に開かれました。この司祭は信頼と愛が最早私の心を強く惹いているにも関わらず、私はそれにあえて進まないところの信頼と愛の波の上に帆を充分に張り上げて走らせるようにせられました。
 この司祭は私に「そなたの過失が天主様を悲しませない」と申され、なお「私がただいまそなたに対して天主様の代理者である、それで天主様はそなたの霊魂について大いにご満足しておられるという事を主に代わって断言する」……と言い添えられました。