最早、私の霊魂は今日までいろいろと内外の苦しみ艱みに遭って強く鍛錬されて居りますから、過ぎ去った事を追憶する為に、まことに適当な時期であります。ただいまちょうど暴風に遭った跡の花のように、私はおのずと頭をもたげようとして聖書の言葉は、私の身の上に成就するのを見ます。すなわち、詩編(二十二)に「主は私の案内者であるから、私は何にも足らぬ所がありません、主は私を緑の楽園に休ませ、清く穏やかな渚に憩わせて下さいます、また私の疲れぬよう主の聖名を以って、正しき道に導かれ、いつも側に居って下さいますから、よし私は恐ろしい死の谷陰を歩みましても、害に罹る恐れはありません」とあります。
ああ、主はいつも私に対して、いかに慈しみ深くいかに大いなる慰めを与えられましたか、私の罪科を罰する為にいかに寛大でありましたか、母様!私は今この言うに言われぬ厚き恩寵を打ち明け、これを書き綴ってあなたの前で謳歌するというのは、真にこの上もない喜ばしい事で、また何という幸福な事でありましょうか、慈しみ深き聖主に摘み取られた此の「小さき花」なる私が今あなただけの前でその経歴を歌い述べるのでありますから、文章についても順序についても心配せず、ありのまま、ただ心の想うまま、筆の運ぶままに託せましょう。世間の母親は明瞭と物言えない様な乳児の心情をも悟る事が出来るのですから、あなたが、つまり私の心を養成してイエズス様に捧げられた所のあなたは、必ず私の此の拙き筆の跡をよく察して頂ける事と思います。
或る小さき草花が語る事が出来るならば、謙遜にかこつけて我が花は不体裁であるとか、香りがないとか、太陽が私のツヤを醒まし、嵐が葉を枯らしたとか言う事を申しませず天主様から受けた惠を洩れなく正直に言い表すでしょう、それ故、この小さき花も、少しも飾らず偽らず、喜んでありのままを申し上げましょう。
私の履歴を語らんとする「小さき花」は、別に自分が美しいとか、優れた善業の為に多大の恩寵を受けたというのではなく、全く前に申した如く、天主様の好み給える者となって、その憐れみに由ったのであります。私は現世なる試みの地に芽生えする以前は、八つの百合の花(兄弟)が白く清く咲きました。そして後、私は花弁を開くようになると、慈しみ深き聖主によって此の世間の悪しき風に当たって汚さぬよう、試みの地から「カルメル山」(修道院)即ち聖母マリアに選ばれた清き花壇の中に移植されたのであります。
母様!これが此の「小さき花」の大体の履歴であります、が、これから小さいつぼみの間のお話しに移りましょう、斯様な時代のお話しは他の者にとっては五月蠅い事であるかもしれませんが、母親の心持として或る一層の興味があろうと思いまして……。そして私が今書き記そうして思い出しますことに就いては、あなたの思い出もある事と存じます、それは私が幼年時代、あなたの側に共に暮らした。二人は同じ親を持っていた、その親たちが、私たち二人を同じ愛を以って育てて下さったことも思い出さずにいられないでしょう。
ああ、その親たちは今天国にて自分の子である此の小さき花を祝して、私がイエズス様の慈しみ深き事を十分語る事が出来る様に、天主様のご援助を祈って下さる事を願います。
それで私は此の「カルメル会」に入るまでの間を三つに区別して、第一の時代、即ち私が物心ついた時から、愛する生みの親が天国へ出発なさった時……満四年八ケ月の時までのお話しから始めましょう。
此の第一の時代は真に短い間でしたが、しかしその割合に種々に多くの感想が遺って居ります、天主様は早くから私の智恵を開かれ、又この時代の事柄を深く記憶する惠みをお与え下されましたので、この時代の事はまだ昨日のように明らかに記憶しております、これは正しく聖主が私に与えて下さった母親の事を識(し)らせたり、又この母の価値を訓えて下さるという、深き聖慮であったのでしょう、天主様は愛の御手を以って私の一生涯を守って下さいました。この時代には父や母や姉達側に居る者が、皆私に対して親切、丁寧、自愛を以って迎えてくれました。私の小さい心の中にも愛という美しい感情が養われました。それ故、私は此の時いかほど深く父母を愛し慕っていたか、この愛を表す為にいかなる方法を用いたか、恐らく誰も思い及ぶことが出来ますまい、殊に私は至ってよく心を打ち明ける性質でありましたから、なおさら、いろいろと愛を表そうとしたのですが、今日でもその方法を想起し、独りで微笑する事が折々あります。(続く)
読んでくださってありがとうございます。yui
いろいろな事情で更新がなかなか出来ませんが、終わりまで、書き続けます。
ああ、主はいつも私に対して、いかに慈しみ深くいかに大いなる慰めを与えられましたか、私の罪科を罰する為にいかに寛大でありましたか、母様!私は今この言うに言われぬ厚き恩寵を打ち明け、これを書き綴ってあなたの前で謳歌するというのは、真にこの上もない喜ばしい事で、また何という幸福な事でありましょうか、慈しみ深き聖主に摘み取られた此の「小さき花」なる私が今あなただけの前でその経歴を歌い述べるのでありますから、文章についても順序についても心配せず、ありのまま、ただ心の想うまま、筆の運ぶままに託せましょう。世間の母親は明瞭と物言えない様な乳児の心情をも悟る事が出来るのですから、あなたが、つまり私の心を養成してイエズス様に捧げられた所のあなたは、必ず私の此の拙き筆の跡をよく察して頂ける事と思います。
或る小さき草花が語る事が出来るならば、謙遜にかこつけて我が花は不体裁であるとか、香りがないとか、太陽が私のツヤを醒まし、嵐が葉を枯らしたとか言う事を申しませず天主様から受けた惠を洩れなく正直に言い表すでしょう、それ故、この小さき花も、少しも飾らず偽らず、喜んでありのままを申し上げましょう。
私の履歴を語らんとする「小さき花」は、別に自分が美しいとか、優れた善業の為に多大の恩寵を受けたというのではなく、全く前に申した如く、天主様の好み給える者となって、その憐れみに由ったのであります。私は現世なる試みの地に芽生えする以前は、八つの百合の花(兄弟)が白く清く咲きました。そして後、私は花弁を開くようになると、慈しみ深き聖主によって此の世間の悪しき風に当たって汚さぬよう、試みの地から「カルメル山」(修道院)即ち聖母マリアに選ばれた清き花壇の中に移植されたのであります。
母様!これが此の「小さき花」の大体の履歴であります、が、これから小さいつぼみの間のお話しに移りましょう、斯様な時代のお話しは他の者にとっては五月蠅い事であるかもしれませんが、母親の心持として或る一層の興味があろうと思いまして……。そして私が今書き記そうして思い出しますことに就いては、あなたの思い出もある事と存じます、それは私が幼年時代、あなたの側に共に暮らした。二人は同じ親を持っていた、その親たちが、私たち二人を同じ愛を以って育てて下さったことも思い出さずにいられないでしょう。
ああ、その親たちは今天国にて自分の子である此の小さき花を祝して、私がイエズス様の慈しみ深き事を十分語る事が出来る様に、天主様のご援助を祈って下さる事を願います。
それで私は此の「カルメル会」に入るまでの間を三つに区別して、第一の時代、即ち私が物心ついた時から、愛する生みの親が天国へ出発なさった時……満四年八ケ月の時までのお話しから始めましょう。
此の第一の時代は真に短い間でしたが、しかしその割合に種々に多くの感想が遺って居ります、天主様は早くから私の智恵を開かれ、又この時代の事柄を深く記憶する惠みをお与え下されましたので、この時代の事はまだ昨日のように明らかに記憶しております、これは正しく聖主が私に与えて下さった母親の事を識(し)らせたり、又この母の価値を訓えて下さるという、深き聖慮であったのでしょう、天主様は愛の御手を以って私の一生涯を守って下さいました。この時代には父や母や姉達側に居る者が、皆私に対して親切、丁寧、自愛を以って迎えてくれました。私の小さい心の中にも愛という美しい感情が養われました。それ故、私は此の時いかほど深く父母を愛し慕っていたか、この愛を表す為にいかなる方法を用いたか、恐らく誰も思い及ぶことが出来ますまい、殊に私は至ってよく心を打ち明ける性質でありましたから、なおさら、いろいろと愛を表そうとしたのですが、今日でもその方法を想起し、独りで微笑する事が折々あります。(続く)
読んでくださってありがとうございます。yui
いろいろな事情で更新がなかなか出来ませんが、終わりまで、書き続けます。