これは真にもっともな事であります。然るこの打ち明けにくいという事は、私の霊魂が淡泊なためであったにしても全く一つの試しであった今日はなお一層淡泊になったにもかかわらずすべての思想をも至って容易に打ち明ける事が出来たのであります。
先にイエズスは私の教導者であったという事を申し上げましたピシヨン神父は私の霊魂の教導に任せられると間もなくイギリス領カナダの方に遣わされましたので、私はわずかに毎年一度しかお手紙を受けておりませんでした。このカルメル会に移植させられた「小さき花」は教導者ともいうべき聖主イエズス様を仰ぐようになりました、そしてうるわす露としてイエズス様の御涙と御血を受け、輝く太陽としてイエズス様の尊き面影を受けて十字架の陰で花を咲かせておりました。
私は今までこの尊き面影の中に、隠れた宝の深さを十分に知ることが出来ませんでしたが、私の姉イエズスのアグネスに教えてもらいました。この姉は三人の姉妹中一番先にカルメル会に入りましたのと同じく、一番先に、天配なるイエズズ様の尊き面影の中に隠れている愛の神秘の深さを量っておりましたので、私にこれを示してくれました。私は真の光栄はどこにあるかという事を今までよりもよく了解するようになりました。また『我が国はこの世のものにあらず(ヨハネ18の36)』と仰せられた御方が私に『人に知られずして生活しまたないがしろにせられんことを望み(キリストの模範1,2,3)自己を軽んずる事を喜びとするのが唯一の王位である』とこういう事を示して下さいました。ああ実に私の顔も、イエズス様の尊き面影の如くに全ての人々に隠れ、この地上に於いて誰にも知られないようになりたかったのであります。私は苦しみに遭い、全ての人々に忘れられ、ないがしろにされることを非常に望み非常に望み乾いておりました。
聖主がいつも私を歩ませてくださった道は、如何にも御憐れみの深い事が顕れております。私に或る一事を望むように計らってくださった、その都度いつもその望みを遂げさせてくださいました。それゆえ私はいかに苦い杯を飲まされましてもこれを至って甘く味わいました。
1898年の5月の末頃、長姉マリアの誓願の人に……霊的の婚礼の祝日というべき日に於いて、ベレザメン(末っ子)なるテレジアが特に選ばれて、彼女に薔薇の冠を被らせました。この美しい祝日の後、家族は再び試しに遭いました。父は初めて中風に罹ってから後は、ちょっとしたことにでもすぐに疲労を覚えるようになておりました。ローマに旅行した時も、父に顔に度々疲労と苦痛の色が顕れておりましたので、私は常にこれを心配しておりました。私は父について最も感動したことは、非常に早く完徳の道に進んだ事であります。父は生まれつき短気な性質でありましたが、平素によくこれを抑えて全く打ち克つようになっておりました。そして世間の事の為には精神を乱さず、ちょうど心に触れないように見ておりました。
私は唯今述べたようなことばかりではなくこの修院に入るや否やなおこれよりも苦い試しが、しばしば手を広げて私を迎えましたが、私はその都度愛を以ってこれを歓び迎えました、私は誓願を立てる前に公に知らせた如く、私が此の修院に入りましたのは霊魂を救うため、また殊に司祭方のために祈る目的でありました、目的を達する為にはこれを達する方法を採らねばなりません。イエズスは十字架を以って霊魂を救う恩寵を与えるという事を諭してくださったのでありますから、私は種々の十字架にある度毎に、倍々苦しみを愛するという心が強くなったのであります。そして私は五年間の間この十字架の道を歩みましたがしかしこの苦しい道を歩んでいるという事を隠して誰も知りませんでした。
ちょうど私がイエズス様に捧げたいと望むところの隠れたる花は、このように人に知られずしえt唯天国のほうのみ、香りを放つところの花であります。
ピシヨン(1919年11月15日77歳にて死去イエズス会の神父)と申す司祭は、私が修院に入ってから二か月の後私の霊魂の中に天主様の御働きを見て驚き、私の熱心は全く子供らしくまた私の歩んでいる道は至って平坦であると思っておられました。私は何事もこの司祭に打ち明けたならば大いなる慰めを得られたに相違ないが、心を打ち明けるのは非常に辛かったが、彼に総告白をいたしました、司祭はこれを聞かれて後、「私は貴女が一つの題材をも犯さなかったという事を天主様聖母マリア諸天使諸聖人の前で証明致します、そしてあなたの方からは何の功績もないのに聖主が与えてくださった恩恵を篤く主に感謝を捧げなさい」と申されました。
私の方から、何の功績もなく、ああごもっともであります。難なく私はこれを信じております。私はどれほど弱き者、どれほど欠点の多い者であるという事を、良く知っておりましたので感謝の念だけ我が心に満ちてあります。私は洗礼の時の白い服を罪悪を以って汚したという恐れがあったのであります、聖女テレジアの望みをしているような教導者、即ち徳に学識を添える所の教導者の口から出た、この如き証明の御言葉は、ちょうど天主が御自ら直接証明してくださったかのように感じました。なおこの親切な司祭は私に「我が子に願わくは御主がいつもあなたの目上と修練院長たらん事を」と言い添えなされました。
聖主は実際そうでありました、その上にまた私の教導者でありました、しかしこう申せば私は霊魂上の目上の人々に対して心を打ち明けないという意味ではありません。却って私は霊魂上、目上の方々にはいつも私の傾向を隠さず、ちょうど彼らにとって披いた書物のように勤めました。
私等を導いておられた修練長は本当に聖女でありまして、カルメル会修道女の手本と為すべき御方でありました。彼女は私に働くことを教えて下さいましたが、私は片時もこの御方の傍を離れません。彼女の私に対する親切でありまして、私も深く彼女を愛し敬い重んじておりました。しかしどういうものか私の心が開かれます教導ごとに私の霊魂のありさまが私の心の裏にあることを言い表す為、言葉に困り、その都度非常に辛くありました。
老人の某修道女がある日私の心の中にある事を悟ったと見えて、休憩の時間に「我が小さき女児よ、あなたは目上の人は告白するようなことが余りあるまいと思われる」と申しましたので、私は「どうしてその様な事を思いなさるのですか」と反問しますと、「あなたの霊魂は至って淡泊である、しかし尚完徳に達すると、一層淡泊なるものとなる、どうしても天主様に近づくに従って益々淡泊となるか?……」と申されました。
これは真にもっともな事であります。しかるにこの打ち明けにくいという事は果たして私の霊魂が淡泊なためであったにしても全く一つの試しであった今日はなお一層淡泊になったにも関わらずすべての思想をも至って容易に打ち明ける事が出来たのであります。
1888年4月9日月曜日は、私が「カルメル会修院」に入るために決められた日でありまして、この日はちょうど四旬節の為に延期された。聖母のお付けの祝日でありました、その前日訣別の為にみな自宅に集まりましたが、これは家族らの最後の集会で有りました、こういうような訣別は如何にも胸が張り裂け利用なものであります、出来るだけ人々が自分に気をつけないようにと望んでいるのに、却って人々が一層の親切を以って愛を表されるので、なおさら訣別の悲しみが増してきます。翌朝幼年の時から愉快な月日を送っていたこの家の最後の見納めとして振り返り振り返りつつ「カルメル会修院」に向かって進みました。
前日の如く親族一同と共にミサ聖祭に与りました聖体拝領の後、即ちイエズスは彼ら親族の心の中に降臨せられてから、彼らは皆涙にむせびました、私はその時泣きませんでしたが修院の門を潜る時には胸の動悸は烈しくなり、今にも死にはせんかと案じられるほどでありました。ああこの時……ああこの悲しみ……、こういう別れに遭遇した人でなければ到底その苦しみ悲しみを察する事が出来ません。
私は家族にすがって別れを告げ、父の掩祝を受けるためその前に跪きますと、父も又跪いて涙ながらに私に掩祝せられました、この時天使たちはこの老人が、人生の春なる我が子を潔く天主様に捧げている光景を見て必ず喜ばれたに相違ありません。私はこうして後一同に別れ、修院の内に入って親愛なる母様の手に抱かれました、ここには私の新しい家族の団欒の中に入りました、此の家族らの献身的親切愛情は、とても世の人々の夢にも想い知る事が出来ないほどであります。
私は今ようやくにして目的を達することが出来ました私の霊魂は言葉や筆を以って言い表すことが出来ないほどの深く柔らかな平和に満たされました、そしてこの深く親密な平和は私がカルメル会に入ってから今日まで、八年余りの間片時も離れたことがありません、一番辛い悲しい試みの時でも決してこの平和を失いませんでした。
修院内では何事も気に入り、砂漠の中に入ったような心持ちが致しまして私の小さき部屋も特に気に入りました、私の幸福は至って平和で穏やかであって、ちょうど私の小さき船が進んで行く海はまことに、穏やかで静かに少しの風も波もなく、また青空には一つの雲も翳りもありません、今までに遭ったすべての苦難や試練に対して大いなる酬いを受けておりました、ああその時私はいかなる深い喜び愉快を以って私は死ぬまでここにいるという言葉を幾度も繰り返しました。
幸福 ! 一時儚き幸福ではなく、初めの日の空想と共になくなるはずではありません、ああ空想! 幸いにも慈愛深き天主様はいつも私に空想を抱かせないようにして下さいました、修道生活は私のいつも思った通りであって不審に思う犠牲は一つもありません、しかし母様、あなたはよく知って居られる通り、私は最初に薔薇の花(楽しみ)よりも茨の刺(悲しみ)に会ったのであります。
まず天主様は私の霊魂に日用の糧として、苦しみと無感覚とを与え、その上聖主は私を至って厳しく取り扱うように計らい下さいいました、私はあなたに会うごとに、いつも戒められておりました、ある時も私が掃除した後、蜘蛛の巣が残っているのをご覧になって、修道者の集まっている面前で、私に向かって「15歳になる女児がこの修院の掃除をしているという事がよく分かる、実に情けない早くこの蜘蛛の巣を取り払いなさい、そうして今後よく注意しなさい」と仰せられました。
私は霊魂上の教導のために、あなたの許に参ります、1時間はいつも叱られておりました、そうして、一番辛いと思っておりましたのは、私が自分の欠点、種々の勤めの中に、不熱心とか愚図愚図とするとか献身的の精神がたらぬ等という事、即ちあなたが、私に対する親切心配りを尽くして私に注意してくださった欠点であります。
私は自由時間中、たいていはいつも祈禱を捧げていましたが、1日「この自由時間を仕事に用いるならばあなたがお慶びなさるであろうと」思いまして脇目をなさずに針仕事を致しました、これは自分の任務を完全に果たすという考えとイエズスの目の前だけにしたいという目的とでした事でありましたから、誰もこの心を知らなかったのです。
私は午後になると修練長から庭園の草を取りに遣わされますので誠に辛くありました、その時大抵いつも途中で出会います、ある時「どうもこの娘はなんにも為ない、毎日散歩に遣らねばならぬような修練女があるのは妙である……」と申しておられた事がありますが、私に対しての為され方は何事についても斯様にきびしくありました。
親愛なる母様、あなたから私はこのように甘やかされずして、厳しく価値ある育て方を受けましたのは、如何にも深く感謝致します。充分に悟ることの出来ないほどの大恩恵であります。もし私は世の人々の思っていた通り、総ての修道女たちに玩具のように、可愛がられたならば、その結果はどうでありましょう?恐らく私は、この修道女達に対して聖主の代理者であるという方面を見ず、ただ肉眼に立つ人間のみを見たでありましょう、私が世に居った時に正しく守っていた私の心は、却ってこの修院内に於いて天主様を見るよりは人為的の方面だけを見てこれを愛着するようになったかもしれません……、しかし私は、幸いにも母様の懇篤なる教訓によって、この不幸な危険から逃れる事が出来たのであります。
リジューに帰ってから後、一番先にカルメル会修道院を訪問しました。この時の訪問はどういう事であったか、母様あなたはまだ覚えておられるでありましょう、私は最早すべての工夫を尽くした後で有りましたから、万事あなたの思し召しにまかせました、その時あなたは私に、「司教様に、あなたが約束したことを思い出させるため、今一度手紙を出しなさい」と仰せられましたので私は直ぐにその通りにしました。そして手紙を郵便に出して後は、すぐにも修道院の方に飛んでゆく事が出来ると思って、毎日首を長くしてその返事を待ちかけておりましたが、一向に返事がなくそのうちに遂にご誕生の喜ばしい祝日が過ぎたのであります。御主はまだ眠って居られ、ご自分の手毬の事を気に懸けられずそのままに地に置かれています。
その時の試し!苦しみ!は実に辛い事でありました、しかしいつも心は醒めている所のいる所の御方(イエズズ様)は私に次のような事を諭してくださいました。芥子(からし)の種子のごとく小さく弱いような信仰でもありさえすれば、その霊魂に対しては時としてその小さく弱い信仰を固める目的を持って奇蹟を行って下さるが、特に愛してくださる所の信仰の厚い人のためには……例えば彼の聖母マリアの如き御方には、その人の信仰を試す前に奇蹟を行いになりませんでした。かのマルタとマリアは御主のもとに使いをやって「兄弟ラザロが病気であるから……」と知らせましても、わざと死ぬのを待って後に赴かれ、またカナの婚姻の式に聖母は御主に向かって「家の主人を助けよ」と仰せられましても『まだ時期が来ない』とお答えになりました。ああ、しかしこの試しの後にいかなる報いがあったのでしょうか?ラザロは蘇生り、水はぶどう酒になりました。親愛なる御者はその小さきテレジアに対して、こういうやり方をなされたのであります。即ち私を長く試して後、私の全ての望みを果たせてくださいました。1888年の正月のお年玉としてまたもご自分の十字架を私に与えてくださいました。尊敬すべき母様、あなたはこの時「12月28日罪なき幼児の祝日から司教様の返事がお手元に来ている又「此の手紙には直ぐに入会する事を許されている、しかしあなたには四旬節が済んでから後、入るほうが良いと思う」と仰せられました。まだこの上に三ケ月も待たねばならないかと思って涙を流しました。この試しは私にとって特に苦しく、一方世間のほうに繋いでいる所の縁が切れたことを見ると同時にまた一方から「聖き方舟」に(カルメル会)この可哀想な小さき鳩をすぐに入れるのを断っている、ああその時に私の心!……。
この三ケ月間は種々の苦しみに満たされましたが、なおこの苦しみに優る多大の恩寵を受けました。まず最初には最早この期間には以前の時のように厳しい生活をしないでもよろしいという心が起こりましたが、天主様はこの三ケ月は特に大切である、価値があるという事を諭してくださったので、以前よりも一層真面目と苦業の生活を送るように努めました。
この苦業という言葉はかの多くの聖人方がなさったような苦業ではなく、幼年の時からいろいろの難行苦行を行いました。大聖人達に似た者でなく私の苦業というのはただ我儘な意思を破り捨て、口答えの言葉を抑える事、ひそかに私の側にいる人々に細かき事まで世話を為し、よく気をつけることであります、私はこういう子細な犠牲を以ってイエズズ様の許嫁となる準備をしておりました。そして私は待ち遠しきこの三ケ月の間に、いかほど深く天主様の摂理に任せる心を起こしましたがいかほど多く謙遜と他の善徳に進んだかは、言い表す事が出来ないほどであります。
6章終わり、次回以降7章へ
かく憂い悲しみに沈んでおりましても、参りました聖き所については多大の興味を覚えております、幸いにもフロランスに於いて、カルメル会修道女等に取り巻かれているバジーの聖女マグダレナの遺物を見ることが出来ました。参拝者は各々のコンタツをこの遺物に触れようとしましたが、この格子の中に手を入れることが出来るのは、ただ私の小さい手だけでありましたので私は人々に頼まれてコンタツをこの遺物に触れる役をしました、これが長く続きましたが私は喜んでその務めを尽くしました。
私はこういう特別の取り扱いを得たのは今度初めてではありません、ローマに於いても、エルサレムの聖十字架の天主堂の中に聖き十字架の木片や、茨の冠の二つの茨や、御血の染まった一つの釘がありましたので、私は緩々とこれを拝見するために一番後まで残っておりました、その時この聖き御物を守護しておられる司祭は、以前の祭壇の上に納めようとせられましたので、私はこれに触ってもよろしいかと尋ねました、ところが司祭は「差し支えありません」と申されました。これはとにもこの細き鉄格子の中に手を入れる事が出来ないと思って申された様子でありましたから私は直ぐに小さき指を入れますと、御主の御血に染まった聖き釘に触ることが出来たのであります、かくの如く御主に対しての私の所業はちょうど自分には何事も許されていると思う子供のように、また父の宝をも自分の宝のように見做す子供のようなやり方でありました。
ピーズとゼヌを通り、立派な景色の或る所を過ぎてフランスに帰りました、途中汽車がときどき海岸に沿って走りますが、大暴雨のために海が荒れて波の飛沫が列車の窓を打つようなこともありました。それかと思うとまた広野に出て蜜柑の樹、橄欖の樹、美しい棕櫚の樹などの間を縫って走ります、また夕暮れとなって蒼空に二つ三つ星が輝き始めると、海岸にあるところどころの港の灯火が点いて得も言われぬ美しい景色となります。わたしはこの霊妙な光景を見ながら通り過ぎても、これよりもなお立派にして霊妙不思議な事の方に心を奪われておりましたので、別に名残惜しいようには思いませんでした。
父は私になおエルサレムまで旅行をさせるつもりでありましたが私は聖主の御在世中、生活なさった聖地を見たい自然の傾きがあるにも拘わらず、もはやこの地上のものを見るのはこれで十分でありますから、この上を望みません、それよりもただ天上の美しい事ばかりを望み、この天国の福楽を多くの人々に得させるために、自分は一日も早く「カルメル会修院」に入って囚虜のようになりたいと望んでおりました。
ああ私は望んでいる所の「カルメル会修道院」の門が開かれるのを見るまで、なお多くの戦いや苦しみに遭わねばならぬということを悟っておりました。それが為に天主様に対する信頼心が少しも減りません、そしてこの12月25日の御降誕日には望みを達する事が出来ると思っておりました。