ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮、同人誌の話他

朝ドラ「まれ」感想。家族の資格とは何か

2015年04月23日 | ドラマ映画アニメ音楽(エンタメ)
NHK朝の連続ドラマ、「マッサン」り後番組
開始早々は、地道に生きるとかケーキ職人の夢がどうの、
父親が夢ばかり追ってるクズ、みたいな描き方をしていたので
これって、
「80年代のように夢を追って生きる人ってやはり愚の骨頂、
成功した人以外は全員この父親のように全くのダメ人間なので、さっさと夢なんか捨てて
この主人公のように真面目な地道に生きなさいよこのクズども」なのかと…(;^ω^)びっくりしたわ。
NHKの番宣は「花燃ゆ」もそうだけど、ちょっとズレてるので無視します。
今のところ、ケーキ職人の夢というよりは家族や移住の話になってますね。

そんなふうに思ってしまったのは、やっぱり「マッサン」の後番組って事が大きかったでしょうかね。
あれで夢を追う男と支える妻をやってしまったのですが
そもそも「マッサン」は実在の成功者をモデルにしてるわけだから、成功して当たり前なのですよね。わはは。

ようやくドラマのキャラ説明も一段落、というかんじです。

ドラマの中で市役所の怖い部長さんが稀に「公私混同するな」と言ってました。
大事です。しかし、このブログは市役所のサービス業務ではないので、
公私混同しつつ、ドラマから感じたものを書いていく事を身勝手と呼ばず、どうかひとつ「表現の自由」においてお許し下さい。

先週、私の母が心臓病で倒れました。
私を産んだ母、実母はもう私が中学の頃に脳水腫で他界してますので、継母の方です。
実はあまり接した事が無いので、非常に複雑でした。いや、当然「人」としてはとても心配しています。
実母の方は超なんでもこなす兼業主婦。頭もいいし家事も完璧だし、仕事もパーフェクト、
だけど継母の方は、なんというか常に「ぼんやり」してるかんじで、家事もそこそこ…
そんなわけで、祖母が生きていた時は、格好のイジメの餌食だった事を覚えています。
私としては、祖母のイジメ対象が私でなくそっちに移ったので、少なくともこっちには暴言が飛ばないなとか
とにかく、なんかヤバそうな空気は読んで、あまり母親と思わず、お客様がいらしてるんだ程度で
スルーし続けた…というかんじでした。

いざ、危篤という状態になって、心から人として「生きてほしい」という気持とは反面
継母は「私の事はもういい、死んでもいいので」となかなか病院に行こうとしなかった
という話を聞かされて「人の存在意義って何なんだ」と思ってしまいました。

役立たずは出て行けばよろしい
…そうであれば、もし自分も何の役にも立たなくなった場合そうだよな?と考えつつ。

「まれ」のドラマの中で、稀の家族が寄居している文さんの家に
東京でリストラにあった息子の家族が帰ってきました。
両親が守って来た塩田をつぶして、カフェを経営したいという。
稀の一家はもう8年も、家族ではないのに同居してきた。
そこに本来なら同居すべき息子の家族がやって来るのだけど、土地狙いらしい。
稀の父の徹に「詐欺」呼ばわりされ、文さんの息子も黙っちゃいない。
「あんたにそんな資格あるのか」
血のつながりが無いのに同居して偉そうに、というところでしょう。
では関係無いから出て行くか、となったらなった互いに寂しいという割り切れなさ。
いやはや、家族とは面白いものです。

うちの継母の方の病状は安定したらしく、父は電話で「脳ではないので意識ははっきりしてる」
というのを嬉しそうにしてました。
なんだか、その時「ああ~」と心の中で、わかった事がありました。
それはうちのダンナとの関係にも言えるのだと思いますが、
「世の中で言う存在価値と、その人における存在価値は違う」とでもいうか
くだけていうと「よくもまあ、こんなヤツを好きでいるもんだな」
と、いうものです。
継母の方が「私のことなんかかまわんでいいのに」と言いつつも、看病に来ないと寂しかったようで。
どんなツンデレだよ。

継母の存在価値云々ではなくて、私もしかして父に対して「ロクな男じゃないな」と思ってたんだろうなと。
それを言うと日々、ダンナ見ながらふと「なんでこんなのと結婚してしまったのか…」と
思う事はあります。しかし、多分それはお互い様だと思います。

家族としての「資格」って何だろうなと思ったのです。

社会的には何らか、役立つか立たないのかですぐに「生きる資格」を問われがちですが
かつて、日本の社会が「血縁」を重んじたのは、DNAもさることながら
「たとえ社会的に見捨てられる事はあっても、血縁関係があるなら見捨てられない」という基盤になっていたからなのかもしれません。
親だから、子供だから、血がつながってるんだから見捨ててはいけないというのが1つのモラルであり常識だった。

しかし今や、もう「村」なつながりは失われ、各自自立して経済社会の枠に入らねばならないとされる。
それが上手くいく時はいいけれど、今度はそれをフォローする社会保障があるかというとロクに機能しない。
中途半端なわけです。

血縁関係のみが大事という考え方は、それはそれで融通がききません。
子供のいない夫婦は家族になれない事になる。ディンクス否定はそこらからくるんでしょうね。
当然、同性愛カップルも意義を成さない。
「まれ」の家族のように、よそから来た者は血縁関係は無いのだから家族ではない事に。


私の場合。
血縁関係もなく、さして取り柄もなさそうな高齢の心臓の悪い継母に対してどう思ったらいいのかなと。
でも、そんなこと言ったら、夫婦だって同じ親から生まれてないし。
自立してサービスを提供し合わなくては家族ではない、のであれば
赤ちゃんって何のサービスを提供すんの。「かわいい」? 寝たきりの老人は?やっぱうば捨て山がベストなの?

存在価値なんてものは、何かやって見返りを求める限り、底なしに要求されるものなのでは。
サービス産業のようなものではないはずの世界があったのでしょう。
ところが、世の中はサービスと自立の色で塗り替えられていったので、そこで「絆」を重んじれば今度はそれに縛られる。



血がつながってない場合もそれなりに
血がつながっていらそれはそれで
さして「家族」はこうでなくてはいけない、こういうものが家族の理想であり資格であるとか
そういうもの無い方が上手くやれる場合があるのかもしれません。


そういえば、平清盛と影清。影清は血はつながってないけれど
清盛は自分の一字を与えて家族として迎え入れたとか。
幕末の剣客、食客なんてただの居候だったんだけどな。
血のつながりについての確執は韓国ドラマにもやたらありますね。
儒教の国だからか、「血族」でしか会社を継げないのに、みたいな。


哲学的なものは無関係なところに、大きな政府の話や、リオタールの「大きな物語」を持ち出す気はないです。
全てが効率やら合理性やら、存在価値やらで斬られていってしまう中で
「ただ」側にいるというものがあるとしたら
そんなのは「詩」ですかね。実際はなかなか、親子や夫婦でも相手に何かを求めてしまう、
理想の形があれば、理想に届かないものが残念になるんだろうけど
別に「残念」と思わなくてもいいのでは…

最近、新書あたりで家族について書いてる本も出ていて、
自立した者同士の共同体であるのが望ましいみたいなのもありますが
実際は、そんな本を読んで理想がどうの、なんてのとはほど遠い者らがなんとなく寄り添っているのだ…というか。

それでも、それを家族と呼んでよくないか、いやそういう言葉もそれほど気にしなくていいんでは…というあたりで、私は生きることにします。


けっこう手厳しいなというやりとりのシナリオが、「あまちゃん」よりは数倍甘くはなく
暗くほろ苦いテイストで語られていってるのですが
そんなやり取りの中ですら「言わない」人物らを見つつ
「人としての関係性は理屈ではないんだなあ」
と、ドラマを見ながら、そう思った次第でありました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« お知らせ | トップ | コミスタ終了の激震マグニチ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ドラマ映画アニメ音楽(エンタメ)」カテゴリの最新記事