梅雨になる前に訪れたいと思っていた真田丸(NHKに誘惑)にまつわる史跡巡りを自転車でしてきました。
時は平成28年6月の6日の明四ツ(10時)に出陣。
今回は一人なので国道2号線で大阪城へ走りました。
国道43号線と比べてダンプが非常に少ないですが、駐停車の車が多かったのは否めません。
東灘区から走ること野田阪神過ぎの土佐堀で休憩、ゆっくりでも1時間ちょいで到達し便利なR2ですね。
靭本町から時折アプリ地図を確認(方向音痴なので)。
割と分かり易かった(当たり前)です♪
案内板によると現在地は大手門前になっています(ふむふむ)。
さっそく大阪城と分かる写真から収めようと・・千貫櫓(左)と多聞櫓の外濠。(なか々いい感じ)
自転車で大手門から忍び込むのは初めてでござる。
自転車は正反対の青屋口からお忍びが通でござる。
大手門に入ったらデカイ枡形巨石が3つあります。
正面(中央)の枡形巨石が城内4番目に大きな『大手見付石』5.1×11.0mです。
左の『大手二番石』が5番目に大きく
右の『大手三番手石』が8番目に大きいそうで、いずれも小豆島から採石されたと書かれています。
エルボ形の多聞櫓を潜り・・
多聞櫓の巨石と自転車を比較してみました。
人が少ない時にはゆっくり自転車に乗って進みます。
内濠と本丸への桜門。
桜門の両脇の枡形巨石は『龍虎石』と呼ばれているそうです。
桜門の正面に見えてきた枡形巨石が城内チャンピョン(1位)の『蛸石』です。
36畳敷き(59.43㎡)の約108t 勿論推定です。名前がイマイチ(左下の染みが由来)。
左には『振袖石』と洒落た名の城内3番目に大きい枡形巨石がありましたが、後で分かりました。
天守閣近くには大きな看板。
豊臣大坂城を土塁で埋め尽くす当りは徳川の因縁が窺がえます。
全く興味が無いのか、隣国の人々は天守閣だけが目的みたいですね。
でも同じアジア人、自分も天守閣を一枚♪。
天守閣の真下には『残念石』。腰かけにするには高すぎます。
天守閣北側の石塁(切り込みハギ)。城壁の石が大きかったので天守閣石塁がみすぼらしい印象です。
大坂城刻印石の種類が分かるようになっています。
山里丸の広場にはたくさん転がっていましたが、もう刻印石は飽きてしまいました(性格)♪
本丸の北側に位置する山里丸の東には、豊臣秀頼と淀殿(茶々)ら自刃の地碑がありました。
極楽橋から内濠を渡り・・
京橋口へ走ります。
そこには枡形巨石の『肥後石』城内2番目と右には『京橋二番石』城内7番目の巨石があります。
自転車を置かないとオリジナリティになりませんね。
京橋口で城とはお別れです。
次なるは大阪城の真南に位置する法円坂の『越中井』、一方通行の道路中央にあります。
細川越中守忠興の(正室は細川ガラシャ)屋敷があった場所で、越中井は細川屋敷の台所にあった井戸と伝えられています。
越中井から南へ200mほどの所には、聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)があり、大聖堂の入口の横には『細川ガラシャの像』(右下)が建っています。
構内(駐車場)にはガラシャ顕彰碑もありました。
聖マリア大聖堂から東に走ると『玉造稲荷神社』。
位置は大阪城の南東にあり、大坂城三ノ丸に当たる神社です。
【玉造稲荷神社より参考資料】
大坂冬の陣(1614年)における当神社(中央)付近の布陣図
社殿。
境内に豊臣秀頼公像。
豊臣秀頼公奉納鳥居。
慶長8年(1603年)に秀頼公より奉納され、玉造稲荷神社が豊臣時代に大坂城の鎮守神として祀られ、特に居城された秀頼と淀殿らの崇敬が篤かったようです。
(大震災により倒壊)
玉造稲荷神社から更に南へ走ると三光神社があります。
階段を更に上ると拝殿。
三光神社は大坂城の出城である『真田丸』があった場所とされる丘(真田山)にあります。
幸村像の左には大坂城まで掘ったとされる抜け穴があります。
抜け穴は六文銭の扉で閉じられていました。
抜け穴は社務所(白壁)の真下です。
三光神社から少し西へ走ると『どろどろ大師』(善福寺)があり、そこから南へ坂道を上ります。
上った直ぐの左手に『心眼寺』。
真田幸村出丸城跡の碑。(三光神社の真田山西側に位置)。
ここも六文銭の扉が出迎えてくれます。
真田信繁之墓。
心眼寺の反対側(明星学園のテニスコート)歩道脇に『真田丸顕彰碑』があります。ここを中心に真田出丸があったんですね。
ここから長めに走ること天王寺公園の横にある『茶臼山古墳』へ。
この階段を担いで登りましたが、右の方にはスロープがありました。
小高い山頂には何にもありませんでした。
茶臼山古墳の後円墳を活用して大塚城があったとされます。
ここを徳川家康が大坂冬の陣の本陣としたのですね。
丘から下りて南側には大坂夏の陣(この時は幸村が茶臼山に陣を置く)の看板がありました。今から行こうとする一心寺と安居神社も描かれています。
茶臼山から直ぐ北側の所に『一心寺』。
一心寺の周辺地域で激しい戦いが繰り広げられ、放置された遺骸を境内で供養したと言われています。
ここには徳川家臣の本多忠勝の次男『本多忠朝の墓』があり、酒封じの言い伝えがあり『断酒祈願』ができます。
薄紫色に花が咲いてる木はジャカランダ(南米原産)と言うそうです。パッと見が桐に似てると思ったら和名がキリモドキと言うそうです(納得)。
一心寺の更に北側(道路を挟む)に『安居神社』。
『元和元年五月七日 真田幸村戦死之地』と刻まれた石碑。
真田幸村公之像と真田幸村戦死跡之碑。
安居神社もここの境内で戦死されて良かったのでしょうか・・あやかれて様々ですね。
像の後ろにある『さなだ松』の下で戦死したと言われているそうです。
安居神社拝殿。
安居神社の北側(大阪城方面)を見ると急な石段で高台にある事が分かります。
午後3時を過ぎたので帰宅。
にほんブログ村
自転車 ブログランキングへ
最新の画像[もっと見る]
- 本当に弓弦羽神社は金メダル効果で平日でも賑わっているのか今日の昼間に検証してみました。 7年前
- 本当に弓弦羽神社は金メダル効果で平日でも賑わっているのか今日の昼間に検証してみました。 7年前
- 本当に弓弦羽神社は金メダル効果で平日でも賑わっているのか今日の昼間に検証してみました。 7年前
- 本当に弓弦羽神社は金メダル効果で平日でも賑わっているのか今日の昼間に検証してみました。 7年前
- 本当に弓弦羽神社は金メダル効果で平日でも賑わっているのか今日の昼間に検証してみました。 7年前
- 本当に弓弦羽神社は金メダル効果で平日でも賑わっているのか今日の昼間に検証してみました。 7年前
- 本当に弓弦羽神社は金メダル効果で平日でも賑わっているのか今日の昼間に検証してみました。 7年前
- 本当に弓弦羽神社は金メダル効果で平日でも賑わっているのか今日の昼間に検証してみました。 7年前
- 本当に弓弦羽神社は金メダル効果で平日でも賑わっているのか今日の昼間に検証してみました。 7年前
- 寒さが堪える日の上り下りは禁物 7年前
確かに地元の人はいつでも行ける(見れる)ので他府県の人の方が詳しかったりします。
私も死ぬまでUSJなんか行くことは無いと思っていましたが、去年行きました。
万博以来の行列待ち時間で2度と行く事は無いですね♪
大阪に住んでても、大阪城には、久しく行っていないどころか、USJに限っては一度も行ったことがないですね(^_^;)最近では、市内にも足を運ぶ用があまりないので・・・ブログの写真がとても新鮮に感じました(笑)