書棚にあった神戸西国街道まわり道(在りし日の街道風景をたどる)と言う冊子を読んだら(見たら)内容がなかなか興味深い。
発行されたのが平成13年(2001年)4月で15年前の冊子である。
ウォークラリーの参加のしおりまで付いています。勿論当時は参加はしませんでした。
神戸市(深江から舞子)のルートマップ(12面と主な見どころが掲載されています)。
西国街道は現在の東灘区(正確には芦屋市打出)から中央区(生田神社前)にかけて本街道と浜街道に分かれていたそうです。
そこで阪神深江駅から阪神岩屋駅間を自転車で走って、歴史的石碑や神社それに道路元標を巡って探してみようかと思います。
探し出す自信が無いのでアドバイザーには相方さんに一緒に走ってもらいました♪
先ずは深江駅から魚崎の五百(いお)池公園までマップ1にやや近いかたちで走りました。
ここが阪神深江駅。
現在芦屋駅から魚崎駅までの区間が平成18年から高架化が進められています。
去年平成27年の12月に下り線だけ開通したばかりで新深江駅舎も改札口は下り線のみです。(上り線は平成31年度予定)
直ぐ近くに神戸深江生活文化史料館があります。
土曜日・日曜日(祝は休館)の10時~17時まで開館(無料)なので初めて入館しました。
暖房がないので少し寒かったですが、大正期は本庄村(西青木、青木、深江)の財産史料や生活用品の資料が展示してありました。
生活文化史料館の横には大日霊女(おおひるめ)神社があります。
境内に魚屋道(ととやみち)の碑があります。マップには線路より北の銀行前となってますが今は銀行共々無くなって境内にあります。
魚屋道は知らない人はいないほど有名で、六甲山を越えて有馬温泉へ海産物運んだ最短の道だったんです。
同じく境内には旧西国浜街道の石碑。
ここの道より南が浜辺だったのですね。
旧西国浜街道を西へ走ると直ぐに深江橋があります。
深江橋の脇に踊り松地蔵があります。(昔、村の開拓によって一帯に散在していた石仏等を集めて祀った場所)
少し道筋を変えて一方通行の入口には踊り松の碑。
踊り松の一帯は芦屋浦踊松と言われていたそうです。こんな碑があるのは知りませんでした。
この地は森稲荷神社の御旅所だった所です。
一方通行を走ると本庄小学校があります。
小学校の南東の角隅にひときわ大きななごり松が植わっています。
運動場の南側には小ぶりですが沢山の松並が続いています。これがなごり松の由縁です。
本庄小学校はまことにお洒落な校舎ですね。
隣の中学校と同じ校舎で震災の被害を受けて平成10年に再建されたそうです。
その小学校の南側向かいにピンク色の本庄保育所があります。
保育所の隣に旧本庄村役場があった場所です。今はグランドです。
更に走って国道43号線へ。
延命地蔵です。宇佐美石油の東側の僅かな三角地にこんな地蔵さんがあるとは気が付きませんでした。
古くから青木の東の地蔵尊と慕われていました。
直ぐ近くに八坂神社。保久良神社の祭神が青亀に乗って上陸した浜がここだそうです。青亀(あうぎ)が青木(おおぎ)の言われとか。
左奥に火の見櫓がある事は知っていましたよ♪
しかし境内南西隅に本庄村道路元標と刻まれた石碑がある事には気付きませんでした。
本庄村道路元標は大正に建てられた道標です。(兵庫県は大正9年4月1日に道路元標を告示し位置を定めた)。
コースを少し変えてここは阪神青木駅。地元の人でないとおおぎとは呼べないでしょう。
青木駅も深江駅同様に新駅舎は下り線のみ。
竹本交差点を南下してここはサンシャインワーフ神戸の道筋に面する場所。
現在地を見るとまだ2km弱しか走っていません。
看板で目を引いたのがこの写真。地元人は青木フェリーと言いました。
目の前が昔の東神戸フェリーセンター(KFC)がいまだに健在。
2度大分までカーフェリーを利用した記憶があります。奥には5号湾岸線の東神戸大橋が見えます。
天上川河口(南天上橋より)。
次はR43覚浄寺交差点の南に位置する魚崎八幡宮の裏鳥居。
魚崎八幡宮は五百(いお)八幡神社と呼ばれていたそうです。表の鳥居は梅花がお上品ですね。
八幡宮の横に五百池公園。小じんまりした公園には横綱大木戸の碑があります。菟原(うない)郡魚崎村出身 今の魚崎南。
同じ五百池公園には西国浜街道の道標。大震災後ここに移設されたもので中々風格があります。
それに魚崎町道路元標も大正に建てられた道標です。魚崎の名前も五百崎(いおざき)からの由来なのです。
覚浄寺交差点には魚崎郷の市民協定の看板があります。
覚浄寺はもとより殆どの酒蔵が阪神大震災で無くなり面影が全くありません。
休憩
ここからは次のマップ2で西国浜街道関連の宝探しに走ります。
呉田(ごでん)会館。
これも古い道標です。嘉永4年(1852年)と記されているのですが大坂が大阪なので明治にかけて再建されたようです。
住吉神社の御旅所だった事が分かる道標も横にあります。
ここから南へ200mの所に御旅公園があり名の通り御旅所の鳥居があります。
平成に建て替えられた鳥居の右には当時を思わせる古い鳥居の柱だけあります。
御旅所と刻まれています。
左には寛政九年(1797年)と刻まれたかなり古い石塔。(鳥居だったのかな?)
鳥居の左にもう一つの灯籠。
これも寛政十二年と刻まれています。
鳥居の左隅には玉垣に囲まれた石物があります。
左から読むと吉田廻船中と刻まれています。
裏には長峡(ながお)の松の記念植樹がありました。
長峡の松は神功皇后船つなぎの松とも呼ばれたそうです。
ここは菊正宗酒造で嘉納家が酒造を始めた本社事務所。 大正14年の建物でどっしりした石造り。
一旦住吉川まで引き返してここは六甲ライナーの魚崎駅。
これは村界の碑。これより北側が住吉村。
これより南側が魚崎村。これも古い石碑ですね。
これは最近とって付け足した村界線石。
住吉川も芦屋川同様に国道2号線まで松並が続きます。
反高橋過ぎには
倚松庵が建っています。谷崎潤一郎の旧宅で土・日曜のみ無料公開されているんですが、たまたま臨時定休日でした。
一度だけ見学させて頂きましたが相当古い建屋です。
椅松庵からもう一度R43へ引き返し、ここは神戸市の環境局(資源循環東灘事業所)がある所。
そんな出入り口横に雀松原古跡の碑があります。時々六甲アイランドへ走るルートなのに気付きませんでした
マックスバリュー北側の魚崎西会館の公園に雀の松原の碑があります。そこには大きな一本松。
二つの石碑があります。
背丈より大きい方には「竹ならぬかげも雀のやどりとは、いつなりにけん松原の後、中納言公尹卿」と刻まれています。
小さい石碑には「雀松原遺址、杖とめて千代の古塚とへよかし是や昔の雀松原、平安山田寿房」。
海岸はかって雀の松原として古くから知られた景勝地だったんですね。
雀合戦とは昔ここ雀松原には沢山の雀が住んでいて三年に一度ほど山奥の丹波から雀の大群が押し寄せて、ここの雀と数十日も続く大合戦をしたという。倒れた雀で焼き鳥をする雀茶屋も名物となり雀宿と言う宿屋もできたそうです。
近くには求女塚東公園があります。
この公園中央に東求女塚古墳があります。
4世紀後半の古墳があった場所が子供の遊び場所ですね。
北西むきの前方後円墳で全長80m前方部は幅42m長さ42m、後円部は直径47m。
次は旧西国浜街道から外れて本街道に近い阪神御影駅へ。
御影駅南側には御影標柱があります。大正二年の建てられた御影町道路元標です。
かなり傷んでいますが大震災の影響でしょうか。
各地への距離が刻まれています。
北側には沢の井の碑。今も清水が湧いています。
高架下に沢の井池の碑があります。
御影公園北側の御影中学校の門前には西国街道(本街道)の松のクロマツがあります。
参勤交代の大名行列が通った街道の面影をわずかに残す松だそうです。
そこには新しく作られた旧西国街道の道標がありました。
更に本街道を西へ走ると一里塚橋があります。東西に旅路の距離を測るため一里塚が設けられたのです。
更に本街道を西へと行くと御影公会堂。
御影公会堂の石屋川を少し南に行くと徳川道起点の案内板があります。
徳川道の迂回路も相当険しい山道だったのでしょうね。
更に南へ行くと石屋川に掛る西国橋があります。本街道筋にあたっているためにその名が付けられたそうです。
ちょくちょく通るのに橋名を全く知りませんでした。
ここから御影の弓場線まで引き返して南下すると兵庫予防医学協会があります。その裏手に旧御影町役場跡があります。
参考までに少し南にある井戸珈琲。最近窓枠が白く塗られていて駐車場も場所が移動されたのでしょうか?。
ここから更に東へ戻りここはR43沿いの東御影交差点北側。
ここに西国浜街道の道標。
すぐ兵庫道とすぐ大坂道と刻まれています。 (参考)「すぐ」とは行先がすぐ近くではなく 真直ぐに進む行先を教えています。
そこの西側には灘の宮水。ここで宮水が汲めるんです。昔何度か利用したことがあります。
昔は心遣い程度の金額で良かったのですが、今は100円となっています(良心的な量が汲めると思います)。
次はニトリ店がある筋に道標。
従是住吉ステーション迄九丁四十五間と刻まれています。明治14年に建てられたそうでなかなかハイカラな呼び方をしていたようですね。
明治7年に鉄道が建設された大阪神戸間の住吉駅へ分かるように建てられたのです。
ここは西方寺。境内には「御影の松」を読んだ歌碑と松があるそうです。
この松は3代目だそうです。
御影の松古跡と歌碑。二首詠まれています。
次は菅公船繋(かんこうふなつなぎ)の松がある小さな綱式天神の御旅所。分からずに一度通り過ぎましたが相方さんから助言。
境内へ入り白玉龍大神の石の祠の後ろにある松ですね。
まことに頼りない細い松ですこれも3代目かな。右大臣菅原道真が大宰府へ左遷される船路の途中、船を繋いだのがこの松とか。
次は皆さんが43を車で走ってると良く見える金色の鳥居は東明八幡宮。
43(よんさん)で思い出しましたが若かしき頃は二国(にこく)「第二阪神国道」と言ってましたがすっかり言う人が無くなりました。
境内に大きな楠があります。
向うは阪神高速3号神戸線。
武内松(たけのうちまつ)は幹周り5メートルの松と書かれているのでこの松でありません。明治の初めに枯れたのでこれも2代目の松なんです。
次は処女塚古墳。東側には田辺福麻呂の歌碑と小山田高家の碑があります。
処女塚には田辺福麻呂が万葉集で歌った菟原処女の伝説があります。
西側は表の処女塚古墳。砂堆状地上の三段築成です。
階段を上ると南むきの全長70m前方後方墳です。前方部は高さ4m幅32m。
前方部から更に階段を上ると
一段高くなった所が後方部(四角)で高さ7m幅37m。
ここから北へ阪神電鉄を越えたセブンイレブンの南筋に処塚古墳道標があります。
菟原遠とめ塚と正面に刻まれています。ここは本街道にあたり東に走ると先ほどの石屋川は西国橋に繋がっています。
御影塚町一帯は昔の東明村で徳井あたりから見て、遠くに見えるため遠目の浜と呼んだことが東明の語源だとか。
休憩
次はマップ3で走ります。
ここで旧西国浜街道へと43を南下します。
ここは神戸酒心館です。
入り口の左方に道標があります。 西宮 大坂 伊勢 道 と刻まれていますね。
更に西へと走り新在家のサザンモール六甲の南側。ここは大震災復興で新しい。
新在家公園筋道。
若宮通りの古い酒造と若宮八幡宮と書かれています。八幡宮は奥の木がある所でしょうか。
少し南下してここは若宮八幡宮(昔は波打ち際であった所)。
コースに戻りここは妙善寺。
心温まるお言葉がうれしい。
境内には樹齢170年経つソテツ(市指定文化財)があります。
下がり藤の瓦紋。
古い塀にが一部残っています。
新旧の下がり藤瓦。
昭和20年代の新在家南町西部(灘浜上空より)と書かれています。左が都賀川ですね。
これが現在の都賀川。奥に都賀川大橋河口とハーバーハイウェイの赤い灘浜大橋。
ここは西郷橋で端に大きな石碑。
その石碑が今回一番大きい。なんと2.1mの高さです。
ここから少し寄り道。
ここは西郷(灘五郷)の沢の鶴資料館。
隣接する住吉神社。
敏馬神社御旅所として鎮座。
西郷橋に戻り更に西へ。大石南町の公園 今時の石職人は簡単に彫れますね。
ここはR43味泥交差点の南方に位置したホンダドリーム神戸灘の南側筋。
これから味泥を北へ スシロー灘店の北側に位置する求女塚西公園にある西求女塚古墳へ。
東求女塚古墳から処女塚古墳を挟んで2km離れた西求女塚古墳です。
日曜日ですが求女塚西公園も静かな所でした。
東南の出口には地蔵や祠が祀ってありました。
更に岩屋公園を西へ走ると敏馬神社(みぬめじんじゃ)。万葉ゆかりの神社で有名。
鳥居の両脇に灯篭が並んでいて歴史を感じさせられます。
左手前の灯篭は昭和2年と刻まれていますが
二つ目の灯篭の方が古いのです。
天保六年(1835年)と刻まれていました。
しかしそれより鳥居の直ぐ両脇にある常夜灯と刻まれた灯篭が寛政6年(1794年)の物なんです。
表からは階段なので西側から境内へ。
拝殿の右側に田辺福麻呂の歌碑があります。
読めませんが・・
かな入りで説明してあります♪
拝殿下の境内には后の宮。
神功皇后祠
なんと后の宮にある石灯籠は寛文十三(1673)年 奉納の銘があり当社に現在する最古の石灯籠である と書かれています。
更に酒造の守り神である松尾神社。
敏馬の泊りや敏馬浦の変遷のことが詳しく書かれています。
境内の西側には古絵図や写真が掲載されています。
敏馬浦は神戸で最初に出来た港で、兵庫の大和田の泊りより敏馬の泊りが先だったんですね。
手前左下が敏馬神社で上が摩耶山、中央が隣に位置する龍泉寺で右上の小さな松林の所が神社から500m東にある西求女塚なんです。
詳細な敏馬神社の絵図もあります。
大正期の写真(敏馬神社より東寄りの浜)。 自転車が目をひきます。
同じく敏馬神社より西寄りの浜の写真。遠くには須磨浦の鉢伏山らしき風景です。
距離的には10kmも走ったでしょうか?
もうここでお終いです。
マップの残りは9面ありますが参考にされる方はチャレンジして下さい。
感想・・浜街道だけあって松にかかわる秘話が多く残っていました。
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発行されたのが平成13年(2001年)4月で15年前の冊子である。
ウォークラリーの参加のしおりまで付いています。勿論当時は参加はしませんでした。
神戸市(深江から舞子)のルートマップ(12面と主な見どころが掲載されています)。
西国街道は現在の東灘区(正確には芦屋市打出)から中央区(生田神社前)にかけて本街道と浜街道に分かれていたそうです。
そこで阪神深江駅から阪神岩屋駅間を自転車で走って、歴史的石碑や神社それに道路元標を巡って探してみようかと思います。
探し出す自信が無いのでアドバイザーには相方さんに一緒に走ってもらいました♪
先ずは深江駅から魚崎の五百(いお)池公園までマップ1にやや近いかたちで走りました。
ここが阪神深江駅。
現在芦屋駅から魚崎駅までの区間が平成18年から高架化が進められています。
去年平成27年の12月に下り線だけ開通したばかりで新深江駅舎も改札口は下り線のみです。(上り線は平成31年度予定)
直ぐ近くに神戸深江生活文化史料館があります。
土曜日・日曜日(祝は休館)の10時~17時まで開館(無料)なので初めて入館しました。
暖房がないので少し寒かったですが、大正期は本庄村(西青木、青木、深江)の財産史料や生活用品の資料が展示してありました。
生活文化史料館の横には大日霊女(おおひるめ)神社があります。
境内に魚屋道(ととやみち)の碑があります。マップには線路より北の銀行前となってますが今は銀行共々無くなって境内にあります。
魚屋道は知らない人はいないほど有名で、六甲山を越えて有馬温泉へ海産物運んだ最短の道だったんです。
同じく境内には旧西国浜街道の石碑。
ここの道より南が浜辺だったのですね。
旧西国浜街道を西へ走ると直ぐに深江橋があります。
深江橋の脇に踊り松地蔵があります。(昔、村の開拓によって一帯に散在していた石仏等を集めて祀った場所)
少し道筋を変えて一方通行の入口には踊り松の碑。
踊り松の一帯は芦屋浦踊松と言われていたそうです。こんな碑があるのは知りませんでした。
この地は森稲荷神社の御旅所だった所です。
一方通行を走ると本庄小学校があります。
小学校の南東の角隅にひときわ大きななごり松が植わっています。
運動場の南側には小ぶりですが沢山の松並が続いています。これがなごり松の由縁です。
本庄小学校はまことにお洒落な校舎ですね。
隣の中学校と同じ校舎で震災の被害を受けて平成10年に再建されたそうです。
その小学校の南側向かいにピンク色の本庄保育所があります。
保育所の隣に旧本庄村役場があった場所です。今はグランドです。
更に走って国道43号線へ。
延命地蔵です。宇佐美石油の東側の僅かな三角地にこんな地蔵さんがあるとは気が付きませんでした。
古くから青木の東の地蔵尊と慕われていました。
直ぐ近くに八坂神社。保久良神社の祭神が青亀に乗って上陸した浜がここだそうです。青亀(あうぎ)が青木(おおぎ)の言われとか。
左奥に火の見櫓がある事は知っていましたよ♪
しかし境内南西隅に本庄村道路元標と刻まれた石碑がある事には気付きませんでした。
本庄村道路元標は大正に建てられた道標です。(兵庫県は大正9年4月1日に道路元標を告示し位置を定めた)。
コースを少し変えてここは阪神青木駅。地元の人でないとおおぎとは呼べないでしょう。
青木駅も深江駅同様に新駅舎は下り線のみ。
竹本交差点を南下してここはサンシャインワーフ神戸の道筋に面する場所。
現在地を見るとまだ2km弱しか走っていません。
看板で目を引いたのがこの写真。地元人は青木フェリーと言いました。
目の前が昔の東神戸フェリーセンター(KFC)がいまだに健在。
2度大分までカーフェリーを利用した記憶があります。奥には5号湾岸線の東神戸大橋が見えます。
天上川河口(南天上橋より)。
次はR43覚浄寺交差点の南に位置する魚崎八幡宮の裏鳥居。
魚崎八幡宮は五百(いお)八幡神社と呼ばれていたそうです。表の鳥居は梅花がお上品ですね。
八幡宮の横に五百池公園。小じんまりした公園には横綱大木戸の碑があります。菟原(うない)郡魚崎村出身 今の魚崎南。
同じ五百池公園には西国浜街道の道標。大震災後ここに移設されたもので中々風格があります。
それに魚崎町道路元標も大正に建てられた道標です。魚崎の名前も五百崎(いおざき)からの由来なのです。
覚浄寺交差点には魚崎郷の市民協定の看板があります。
覚浄寺はもとより殆どの酒蔵が阪神大震災で無くなり面影が全くありません。
休憩
ここからは次のマップ2で西国浜街道関連の宝探しに走ります。
呉田(ごでん)会館。
これも古い道標です。嘉永4年(1852年)と記されているのですが大坂が大阪なので明治にかけて再建されたようです。
住吉神社の御旅所だった事が分かる道標も横にあります。
ここから南へ200mの所に御旅公園があり名の通り御旅所の鳥居があります。
平成に建て替えられた鳥居の右には当時を思わせる古い鳥居の柱だけあります。
御旅所と刻まれています。
左には寛政九年(1797年)と刻まれたかなり古い石塔。(鳥居だったのかな?)
鳥居の左にもう一つの灯籠。
これも寛政十二年と刻まれています。
鳥居の左隅には玉垣に囲まれた石物があります。
左から読むと吉田廻船中と刻まれています。
裏には長峡(ながお)の松の記念植樹がありました。
長峡の松は神功皇后船つなぎの松とも呼ばれたそうです。
ここは菊正宗酒造で嘉納家が酒造を始めた本社事務所。 大正14年の建物でどっしりした石造り。
一旦住吉川まで引き返してここは六甲ライナーの魚崎駅。
これは村界の碑。これより北側が住吉村。
これより南側が魚崎村。これも古い石碑ですね。
これは最近とって付け足した村界線石。
住吉川も芦屋川同様に国道2号線まで松並が続きます。
反高橋過ぎには
倚松庵が建っています。谷崎潤一郎の旧宅で土・日曜のみ無料公開されているんですが、たまたま臨時定休日でした。
一度だけ見学させて頂きましたが相当古い建屋です。
椅松庵からもう一度R43へ引き返し、ここは神戸市の環境局(資源循環東灘事業所)がある所。
そんな出入り口横に雀松原古跡の碑があります。時々六甲アイランドへ走るルートなのに気付きませんでした
マックスバリュー北側の魚崎西会館の公園に雀の松原の碑があります。そこには大きな一本松。
二つの石碑があります。
背丈より大きい方には「竹ならぬかげも雀のやどりとは、いつなりにけん松原の後、中納言公尹卿」と刻まれています。
小さい石碑には「雀松原遺址、杖とめて千代の古塚とへよかし是や昔の雀松原、平安山田寿房」。
海岸はかって雀の松原として古くから知られた景勝地だったんですね。
雀合戦とは昔ここ雀松原には沢山の雀が住んでいて三年に一度ほど山奥の丹波から雀の大群が押し寄せて、ここの雀と数十日も続く大合戦をしたという。倒れた雀で焼き鳥をする雀茶屋も名物となり雀宿と言う宿屋もできたそうです。
近くには求女塚東公園があります。
この公園中央に東求女塚古墳があります。
4世紀後半の古墳があった場所が子供の遊び場所ですね。
北西むきの前方後円墳で全長80m前方部は幅42m長さ42m、後円部は直径47m。
次は旧西国浜街道から外れて本街道に近い阪神御影駅へ。
御影駅南側には御影標柱があります。大正二年の建てられた御影町道路元標です。
かなり傷んでいますが大震災の影響でしょうか。
各地への距離が刻まれています。
北側には沢の井の碑。今も清水が湧いています。
高架下に沢の井池の碑があります。
御影公園北側の御影中学校の門前には西国街道(本街道)の松のクロマツがあります。
参勤交代の大名行列が通った街道の面影をわずかに残す松だそうです。
そこには新しく作られた旧西国街道の道標がありました。
更に本街道を西へ走ると一里塚橋があります。東西に旅路の距離を測るため一里塚が設けられたのです。
更に本街道を西へと行くと御影公会堂。
御影公会堂の石屋川を少し南に行くと徳川道起点の案内板があります。
徳川道の迂回路も相当険しい山道だったのでしょうね。
更に南へ行くと石屋川に掛る西国橋があります。本街道筋にあたっているためにその名が付けられたそうです。
ちょくちょく通るのに橋名を全く知りませんでした。
ここから御影の弓場線まで引き返して南下すると兵庫予防医学協会があります。その裏手に旧御影町役場跡があります。
参考までに少し南にある井戸珈琲。最近窓枠が白く塗られていて駐車場も場所が移動されたのでしょうか?。
ここから更に東へ戻りここはR43沿いの東御影交差点北側。
ここに西国浜街道の道標。
すぐ兵庫道とすぐ大坂道と刻まれています。 (参考)「すぐ」とは行先がすぐ近くではなく 真直ぐに進む行先を教えています。
そこの西側には灘の宮水。ここで宮水が汲めるんです。昔何度か利用したことがあります。
昔は心遣い程度の金額で良かったのですが、今は100円となっています(良心的な量が汲めると思います)。
次はニトリ店がある筋に道標。
従是住吉ステーション迄九丁四十五間と刻まれています。明治14年に建てられたそうでなかなかハイカラな呼び方をしていたようですね。
明治7年に鉄道が建設された大阪神戸間の住吉駅へ分かるように建てられたのです。
ここは西方寺。境内には「御影の松」を読んだ歌碑と松があるそうです。
この松は3代目だそうです。
御影の松古跡と歌碑。二首詠まれています。
次は菅公船繋(かんこうふなつなぎ)の松がある小さな綱式天神の御旅所。分からずに一度通り過ぎましたが相方さんから助言。
境内へ入り白玉龍大神の石の祠の後ろにある松ですね。
まことに頼りない細い松ですこれも3代目かな。右大臣菅原道真が大宰府へ左遷される船路の途中、船を繋いだのがこの松とか。
次は皆さんが43を車で走ってると良く見える金色の鳥居は東明八幡宮。
43(よんさん)で思い出しましたが若かしき頃は二国(にこく)「第二阪神国道」と言ってましたがすっかり言う人が無くなりました。
境内に大きな楠があります。
向うは阪神高速3号神戸線。
武内松(たけのうちまつ)は幹周り5メートルの松と書かれているのでこの松でありません。明治の初めに枯れたのでこれも2代目の松なんです。
次は処女塚古墳。東側には田辺福麻呂の歌碑と小山田高家の碑があります。
処女塚には田辺福麻呂が万葉集で歌った菟原処女の伝説があります。
西側は表の処女塚古墳。砂堆状地上の三段築成です。
階段を上ると南むきの全長70m前方後方墳です。前方部は高さ4m幅32m。
前方部から更に階段を上ると
一段高くなった所が後方部(四角)で高さ7m幅37m。
ここから北へ阪神電鉄を越えたセブンイレブンの南筋に処塚古墳道標があります。
菟原遠とめ塚と正面に刻まれています。ここは本街道にあたり東に走ると先ほどの石屋川は西国橋に繋がっています。
御影塚町一帯は昔の東明村で徳井あたりから見て、遠くに見えるため遠目の浜と呼んだことが東明の語源だとか。
休憩
次はマップ3で走ります。
ここで旧西国浜街道へと43を南下します。
ここは神戸酒心館です。
入り口の左方に道標があります。 西宮 大坂 伊勢 道 と刻まれていますね。
更に西へと走り新在家のサザンモール六甲の南側。ここは大震災復興で新しい。
新在家公園筋道。
若宮通りの古い酒造と若宮八幡宮と書かれています。八幡宮は奥の木がある所でしょうか。
少し南下してここは若宮八幡宮(昔は波打ち際であった所)。
コースに戻りここは妙善寺。
心温まるお言葉がうれしい。
境内には樹齢170年経つソテツ(市指定文化財)があります。
下がり藤の瓦紋。
古い塀にが一部残っています。
新旧の下がり藤瓦。
昭和20年代の新在家南町西部(灘浜上空より)と書かれています。左が都賀川ですね。
これが現在の都賀川。奥に都賀川大橋河口とハーバーハイウェイの赤い灘浜大橋。
ここは西郷橋で端に大きな石碑。
その石碑が今回一番大きい。なんと2.1mの高さです。
ここから少し寄り道。
ここは西郷(灘五郷)の沢の鶴資料館。
隣接する住吉神社。
敏馬神社御旅所として鎮座。
西郷橋に戻り更に西へ。大石南町の公園 今時の石職人は簡単に彫れますね。
ここはR43味泥交差点の南方に位置したホンダドリーム神戸灘の南側筋。
これから味泥を北へ スシロー灘店の北側に位置する求女塚西公園にある西求女塚古墳へ。
東求女塚古墳から処女塚古墳を挟んで2km離れた西求女塚古墳です。
日曜日ですが求女塚西公園も静かな所でした。
東南の出口には地蔵や祠が祀ってありました。
更に岩屋公園を西へ走ると敏馬神社(みぬめじんじゃ)。万葉ゆかりの神社で有名。
鳥居の両脇に灯篭が並んでいて歴史を感じさせられます。
左手前の灯篭は昭和2年と刻まれていますが
二つ目の灯篭の方が古いのです。
天保六年(1835年)と刻まれていました。
しかしそれより鳥居の直ぐ両脇にある常夜灯と刻まれた灯篭が寛政6年(1794年)の物なんです。
表からは階段なので西側から境内へ。
拝殿の右側に田辺福麻呂の歌碑があります。
読めませんが・・
かな入りで説明してあります♪
拝殿下の境内には后の宮。
神功皇后祠
なんと后の宮にある石灯籠は寛文十三(1673)年 奉納の銘があり当社に現在する最古の石灯籠である と書かれています。
更に酒造の守り神である松尾神社。
敏馬の泊りや敏馬浦の変遷のことが詳しく書かれています。
境内の西側には古絵図や写真が掲載されています。
敏馬浦は神戸で最初に出来た港で、兵庫の大和田の泊りより敏馬の泊りが先だったんですね。
手前左下が敏馬神社で上が摩耶山、中央が隣に位置する龍泉寺で右上の小さな松林の所が神社から500m東にある西求女塚なんです。
詳細な敏馬神社の絵図もあります。
大正期の写真(敏馬神社より東寄りの浜)。 自転車が目をひきます。
同じく敏馬神社より西寄りの浜の写真。遠くには須磨浦の鉢伏山らしき風景です。
距離的には10kmも走ったでしょうか?
もうここでお終いです。
マップの残りは9面ありますが参考にされる方はチャレンジして下さい。
感想・・浜街道だけあって松にかかわる秘話が多く残っていました。
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