前回からの続きです。
自宅から鳴尾御影線(夙川で一旦途切れる)を走って行くと与古道町公園前の交差点にたどり着きます。
今日は中国街道を忠実(寄り道が多い)に神崎川の神崎の渡しがあった所まで走ってみました。
先ずは正念寺南筋の旧国道が中国街道の始まりです。
東川に架かる宝橋と本町橋を斜交いに走っていきます。
阪神今津駅横から新川橋をへて鳴尾北の幼稚園から鳴尾神社へ寄り道。
阪神電鉄の八幡前踏切は車は通れず参道の為に通された踏切の様ですね。
踏切から続く参道は200m近くあり明治の頃は老松が昼も暗いほど茂っていたそうです。
村の安全を祈った灯籠が並びひっそりとしています。鳴尾は成尾と古絵図に書かれていて平坦な州の「なるやかな土地」から付いた名だったようです。
明治に入ってからイチゴ栽培が主流になり「鳴尾イチゴ」は全国でも有数の産地だったのはおばあちゃん世代しか知らないようですよ。
俳句塚がありました。
中国街道(旧国道)へ戻ってここはおかしの宮「式内社岡太神社」の標柱です。
岡太神社の境内東側に道票があります。「従是西尼崎領 他領入組」「従是東尼崎領」と刻まれています。
岡太神社から武庫川は直ぐです。武庫川橋の中央から尼崎市になります。
当時は小松村から舟で大庄村へ渡っていたんですね「西新田の渡し(小松の渡し)」
西新田(にししんでん)は尼崎側の大庄地区の大字、小松は西宮側の小松地区。
武庫川を渡り切った左(北側)の坂道が雉が坂です。
伝説があるようです。
当時の坂は反対の北側の方へ坂道があったのです。
雉が坂から道なりに走ると大庄公民館の向いに大庄小学校があります。
陸橋下の西門から校内に見える植え込みの所に道標があります。
「大庄村道路元標」と刻まれています。校内に入れないのでズームで捉えました。
大庄小学校筋の中国街道(旧国道)反対車線側に中国街道の事が紹介されていました。
中国街道は西街道とも尼崎道とも呼ばれていたようです。
現在は「琴浦通り」として親しまれています。
他にも現代版の道標もたくさん道路脇に立てられていて随分と町の雰囲気が良くなっています。
ここは琴浦神社です。
昔は他所より海岸の景色が優れているので「異浦(こううら)」と呼ばれたと書かれています。
琴浦神社からは昔をほうふつさせる曲りくねった道になります。
蓬川(よもがわ)から竹谷交番前も直進し細くなった路地の4叉路辻に道標があります。
自転車屋の真向えに「右 大坂道」「左 西ノ宮兵庫」と刻まれています。
右の大阪(南)の方へ走りますが何で南へ九十度方向を変えたのでしょうか。
それは尼崎城の城下町がつくられた時に曲げられたと言われています。
南へ下っていくとR43号線側に貴布祢神社があります。ここは裏の鳥居。
貴布祢神社の表の鳥居です。
トイレを借りようとしたら隣の公園にありますと案内書きでしたが、なんと歩こう会の集まりでしょうか数百人の方がお弁当の時間とトイレ休憩で長蛇の列ができていて諦めました。
中国街道は五合橋から中在家町へ進むのですが、寄り道して明城小学校のグランド南側へ。その一角に尼崎城址の碑がありました。ここに四角堀と伏見門があったそうです。
尼崎城は琴浦城と親しまれていたそうで、現在も北城内や南城内と地名が残っています。
更に寄り道をしてここは中央図書館の南側にある櫻井神社です。
見事な松の枝に注連縄です。尼崎藩主櫻井松平家の代々城主を祀ってあります。
左右に2個、尼崎城天守閣の棟瓦が保存されています。
棟瓦も凄いですが桜の紋もたくさんあります。
櫻井神社の屋根瓦も桜の紋一色でピンクに染められていました。
全て桜尽くし。境内にも桜の木がたくさんありました。花見時は綺麗でしょうね。
ここでやっと中在家町から築地本町通りです。
すっかり近代化していますがここを大名行列が通った道です。
蔵屋敷を思わせるような建物になっていますね。
自転車と人しか渡れない橋を下ると「大黒橋」があった事が分かる記念碑がありました。
東町緑地から大物へ北へ走ります。大物橋跡です。
ただの公園の一角にありました。
大物神社。大物にまつわる話ですが、尼崎城一帯の大物町は芦刈島とも大物浜とも呼ばれていて海岸近くは葦がぼうぼうと茂っていたそうです。幕府の命により新しく尼崎城を築き四十数年のちには葦原を開拓して築地町をつくり街道を移したそうです。
ここは阪神大物駅の北西にある大物くづれ戦跡。
ここは大物公園の北東にある残念さんの墓です。
長州藩兵 山本文之助の墓があります。
大物公園から長洲中通2‐12にある長洲連合福祉会館前の公園。
道標には「右 尼崎大坂」 「右大阪京 左 伊丹有馬道」と刻まれています。
こちらの面には「左 尼崎西宮」 「文化五年戌辰三月吉日」
尼崎工業高の脇を走ってJR高架下の常光寺1丁目から最終目的地の神崎橋です。
ここで数ヶ所の見ておきたい場所を探しに走ります。
最初は神崎川一心地蔵尊です。
この一帯で足利尊氏と楠木正成が戦った「神崎一心の戦」の舞台だそうです。
次に神崎金毘羅の石灯篭。金毘羅大権現
この灯篭は渡しのために灯台の役目を果たしていて「金毘羅さんの灯篭」として親しまれていたそうです。
ここは神崎遊女塚です。
神崎は港町として繁栄し遊女たちが集う天下一の楽地だったようで、「遊女発祥の地」とも言われています。
遊女5名が身投げするなんて、法然上人は説教をしたのに死を食い止められなかったのが残念に思えます。
金毘羅さんの灯篭と渡し場のパネル発見。跡があるか確認しにもう一度金毘羅さんの灯篭へ走ります。
その途中に粋な道標がありました。
神崎から有馬への道があった事が分かります。「左久々知 有馬道 右神崎の渡し」
葭島(よしじま)公園には神崎の渡し場跡は全くありませんでした。加島側にもなさそうですね。
同じ道へ戻ると先ほど分からなかった地蔵道標を発見。祠は正面から見ないと気づきにくいようです。
「右伊丹中山 左尼崎西宮」側面には「南無阿弥陀仏 隆光」 「左大坂 施主堺 神南邊」
ここは西川八幡神社。
裏手に尼崎藩領界碑があります。
「従是東尼崎領」 「従是北他領」
「従是西他領」と刻まれていました。
これで中国街道の自転車旅は終わりにします。
中国街道はこの先、大阪府となり加島を進み十三の渡し(淀川)を経て中津、茶屋町、中之島から高麗橋の起点で終わりになります。
『追記』
帰り久々に寺町通りを走っていると・・
如来院の門前に「神崎五人遊女遺髪の碑」がありました。
調べると 《当院には遊女物語が語り継がれて、鎌倉時代に法然上人が神崎に立ち寄られた時、お説教を聞いた5人の遊女達は、頭の黒髪を切り取り出家者となって、お念仏を称えながら入水往生しまた》 と書いてありました。 以上。
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自宅から鳴尾御影線(夙川で一旦途切れる)を走って行くと与古道町公園前の交差点にたどり着きます。
今日は中国街道を忠実(寄り道が多い)に神崎川の神崎の渡しがあった所まで走ってみました。
先ずは正念寺南筋の旧国道が中国街道の始まりです。
東川に架かる宝橋と本町橋を斜交いに走っていきます。
阪神今津駅横から新川橋をへて鳴尾北の幼稚園から鳴尾神社へ寄り道。
阪神電鉄の八幡前踏切は車は通れず参道の為に通された踏切の様ですね。
踏切から続く参道は200m近くあり明治の頃は老松が昼も暗いほど茂っていたそうです。
村の安全を祈った灯籠が並びひっそりとしています。鳴尾は成尾と古絵図に書かれていて平坦な州の「なるやかな土地」から付いた名だったようです。
明治に入ってからイチゴ栽培が主流になり「鳴尾イチゴ」は全国でも有数の産地だったのはおばあちゃん世代しか知らないようですよ。
俳句塚がありました。
中国街道(旧国道)へ戻ってここはおかしの宮「式内社岡太神社」の標柱です。
岡太神社の境内東側に道票があります。「従是西尼崎領 他領入組」「従是東尼崎領」と刻まれています。
岡太神社から武庫川は直ぐです。武庫川橋の中央から尼崎市になります。
当時は小松村から舟で大庄村へ渡っていたんですね「西新田の渡し(小松の渡し)」
西新田(にししんでん)は尼崎側の大庄地区の大字、小松は西宮側の小松地区。
武庫川を渡り切った左(北側)の坂道が雉が坂です。
伝説があるようです。
当時の坂は反対の北側の方へ坂道があったのです。
雉が坂から道なりに走ると大庄公民館の向いに大庄小学校があります。
陸橋下の西門から校内に見える植え込みの所に道標があります。
「大庄村道路元標」と刻まれています。校内に入れないのでズームで捉えました。
大庄小学校筋の中国街道(旧国道)反対車線側に中国街道の事が紹介されていました。
中国街道は西街道とも尼崎道とも呼ばれていたようです。
現在は「琴浦通り」として親しまれています。
他にも現代版の道標もたくさん道路脇に立てられていて随分と町の雰囲気が良くなっています。
ここは琴浦神社です。
昔は他所より海岸の景色が優れているので「異浦(こううら)」と呼ばれたと書かれています。
琴浦神社からは昔をほうふつさせる曲りくねった道になります。
蓬川(よもがわ)から竹谷交番前も直進し細くなった路地の4叉路辻に道標があります。
自転車屋の真向えに「右 大坂道」「左 西ノ宮兵庫」と刻まれています。
右の大阪(南)の方へ走りますが何で南へ九十度方向を変えたのでしょうか。
それは尼崎城の城下町がつくられた時に曲げられたと言われています。
南へ下っていくとR43号線側に貴布祢神社があります。ここは裏の鳥居。
貴布祢神社の表の鳥居です。
トイレを借りようとしたら隣の公園にありますと案内書きでしたが、なんと歩こう会の集まりでしょうか数百人の方がお弁当の時間とトイレ休憩で長蛇の列ができていて諦めました。
中国街道は五合橋から中在家町へ進むのですが、寄り道して明城小学校のグランド南側へ。その一角に尼崎城址の碑がありました。ここに四角堀と伏見門があったそうです。
尼崎城は琴浦城と親しまれていたそうで、現在も北城内や南城内と地名が残っています。
更に寄り道をしてここは中央図書館の南側にある櫻井神社です。
見事な松の枝に注連縄です。尼崎藩主櫻井松平家の代々城主を祀ってあります。
左右に2個、尼崎城天守閣の棟瓦が保存されています。
棟瓦も凄いですが桜の紋もたくさんあります。
櫻井神社の屋根瓦も桜の紋一色でピンクに染められていました。
全て桜尽くし。境内にも桜の木がたくさんありました。花見時は綺麗でしょうね。
ここでやっと中在家町から築地本町通りです。
すっかり近代化していますがここを大名行列が通った道です。
蔵屋敷を思わせるような建物になっていますね。
自転車と人しか渡れない橋を下ると「大黒橋」があった事が分かる記念碑がありました。
東町緑地から大物へ北へ走ります。大物橋跡です。
ただの公園の一角にありました。
大物神社。大物にまつわる話ですが、尼崎城一帯の大物町は芦刈島とも大物浜とも呼ばれていて海岸近くは葦がぼうぼうと茂っていたそうです。幕府の命により新しく尼崎城を築き四十数年のちには葦原を開拓して築地町をつくり街道を移したそうです。
ここは阪神大物駅の北西にある大物くづれ戦跡。
ここは大物公園の北東にある残念さんの墓です。
長州藩兵 山本文之助の墓があります。
大物公園から長洲中通2‐12にある長洲連合福祉会館前の公園。
道標には「右 尼崎大坂」 「右大阪京 左 伊丹有馬道」と刻まれています。
こちらの面には「左 尼崎西宮」 「文化五年戌辰三月吉日」
尼崎工業高の脇を走ってJR高架下の常光寺1丁目から最終目的地の神崎橋です。
ここで数ヶ所の見ておきたい場所を探しに走ります。
最初は神崎川一心地蔵尊です。
この一帯で足利尊氏と楠木正成が戦った「神崎一心の戦」の舞台だそうです。
次に神崎金毘羅の石灯篭。金毘羅大権現
この灯篭は渡しのために灯台の役目を果たしていて「金毘羅さんの灯篭」として親しまれていたそうです。
ここは神崎遊女塚です。
神崎は港町として繁栄し遊女たちが集う天下一の楽地だったようで、「遊女発祥の地」とも言われています。
遊女5名が身投げするなんて、法然上人は説教をしたのに死を食い止められなかったのが残念に思えます。
金毘羅さんの灯篭と渡し場のパネル発見。跡があるか確認しにもう一度金毘羅さんの灯篭へ走ります。
その途中に粋な道標がありました。
神崎から有馬への道があった事が分かります。「左久々知 有馬道 右神崎の渡し」
葭島(よしじま)公園には神崎の渡し場跡は全くありませんでした。加島側にもなさそうですね。
同じ道へ戻ると先ほど分からなかった地蔵道標を発見。祠は正面から見ないと気づきにくいようです。
「右伊丹中山 左尼崎西宮」側面には「南無阿弥陀仏 隆光」 「左大坂 施主堺 神南邊」
ここは西川八幡神社。
裏手に尼崎藩領界碑があります。
「従是東尼崎領」 「従是北他領」
「従是西他領」と刻まれていました。
これで中国街道の自転車旅は終わりにします。
中国街道はこの先、大阪府となり加島を進み十三の渡し(淀川)を経て中津、茶屋町、中之島から高麗橋の起点で終わりになります。
『追記』
帰り久々に寺町通りを走っていると・・
如来院の門前に「神崎五人遊女遺髪の碑」がありました。
調べると 《当院には遊女物語が語り継がれて、鎌倉時代に法然上人が神崎に立ち寄られた時、お説教を聞いた5人の遊女達は、頭の黒髪を切り取り出家者となって、お念仏を称えながら入水往生しまた》 と書いてありました。 以上。
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