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因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

第十六回みつわ会公演 久保田万太郎作品其の二十三

2013-03-13 | 舞台

*大場正昭演出 六行会ホール 13日で終了(1,2
【雨空】大正9年発表、同11年4月新派俳優の花柳章太郎が若手研究会「新劇座」で初演した作者初期の代表戯曲。
 浅草の指物職人幸三(菅野菜保之)と、同じ町に住む美しい(たぶん)姉妹。姉むすめ(大原真理子)と好き合っていたのに、父親を亡くした事情もあって他家へ嫁いでしまった。ひそかに幸三を思っていた妹むすめのお末の優しさにほだされて、幸三もお末を大事に思い始めていたが、やはりよそで縁談がまとまる。あさっては結納だという日、元気のないお末と、留守居を頼まれた旅役者の長三(田口守)のところを姉が訪ねている。姉と長三がうちを出たところへ、酒に酔った幸三が裏口から入ってきた。上方へ旅立つというのだ。
【三の酉】昭和31年発表され、読売文学賞を受賞した短編小説を舞台化したもの。どなたの手による脚色かは明記されていない。
 赤坂の芸者おさわ(浅利香津代)と、知性も教養も、またおそらくそれなりの財力もあるらしいなじみの男(中野誠也)が東京の公園でかわすやりとり。男は昼間おさわが「顔より大きなマスクをした男」とお酉さまに来ていたことをはんぶん悋気めかしてからかう。おさわはそのわけを話す。

【雨空】
 これは以前に一度みたことがある。
 2004年3月、文学座有志による自主企画公演「久保田万太郎の世界」での『雨空』だ(演出は黒木仁。ブログをはじめる前に観劇したので当ブログには記事なし)。
 終幕で、去ろうとする幸三(鈴木弘秋)の背中にお末(清水馨)が堪えきれず絞りだすような声で「幸さん」と呼ぶ。振り向いた幸三が「何だい、お末ちゃん」と答えるやりとりが与える余韻の悲しみ。その印象が一気に蘇った。
 鈴木弘秋という俳優さんは、昭和やそれ以前の男の風情というものを表情やしぐさに漂わせ、その声にはいまはあまり聞くことのできないしめり気や温かみがあって、あの最後の台詞は忘れられない。呼ばれて振り向いたところで、男は何を言ってくれるのか。どうなるわけでもないのである。しかし女は呼ばずにはいられず、男は聞こえないふりをして立ち去ることはできなかった。
 舞台のふたりはぎりぎりのところで懸命に堪える。なぜそこまで我慢するのだ。好きな者どうし、いっしょになればいいじゃないか。はがゆくてならないが、ここでふたりが手に手を取って駆け落ちなどしないことを観客は知っている。

 筆者の久保田万太郎歴はほんのわずかであり、その印象で述べることをお許しいただければ、この『雨空』はぜんたいがいささか湿っぽいメロドラマ風で、うっかりすると浄瑠璃が聞こえそうな愁嘆場になりかねない。じっさいお末を演じた磯西真喜は泣きのお芝居が少々強すぎるように思えた。

 演劇評論家の江森盛夫さんのブログにおいて、本作で幸三を演じた菅野菜保之がすばらしく、「若づくりではあるが、それが芝居味になっている」という評価を興味深く読んだ。ただ失礼ながら率直に言って、やはり幸三役には少々お年がいっていらっしゃる。昨年上演の『不幸』で、親戚のむすめの成長をよろこびながら杯を重ねる伯父役のみごとな造形に、それこそにじみでるような「芝居味」があっただけになおさら。

 【三の酉】
 おさわは吉原の(たしか)お茶屋育ちである。女学校にまで行かせてもらったが、関東大震災で親をなくして芸者になり、もうじき五十の坂が近づいてきたというのにいまだひとり身である。むかし雇いのお酌だった女友だち(小山典子)は立派な画家(世古陽丸)と結婚し、鎌倉に家を構える。そこに招かれて夫婦とおでんの鍋を囲んだとき、「これなんだ」と、自分にないものに改めて気づかされる。帰りの電車でとくに親しくもない知り会いの男に出会い、つい「いっしょにお酉さまへ行きましょうよ」と誘ってしまう。男はあっさり乗ってきたが、食事の勘定はこれまたあっさりと女にもたせる。

  顔より大きなマスク、おでん、酉の市など、具体的な「もの」のイメージがあざやかに浮かんでくる。しかし小説の舞台化という点で、まだまだ創作の余地がみえる。歌舞伎『熊谷陣屋』における海上の一騎討ちの場面がまさかの作りでほんとうに舞台に出てくるのには驚いた。それこそ「芝居味」なのかもしれないが、とってつけたような印象は否めない。こうしないといけなかったのだろうか。
 画家夫婦の食卓の場面において、誰も座っていない座布団に明かりをあてる。幸せそうな夫婦との食事を楽しみながら、寂寥の思いがいよいよ募るおさわの心持ちが察せられるのだが、その場のおさわの台詞がマイクを通して流れたこと、その音質に違和感をもった。たとえばおさわ役の浅利さんが離れたところから、客席を向いて「たいしたお味だわ」とか台詞を言ってはあざといのだろうか。

 おさわは「自分には心の住み処(すみか)がない」と言う。このあたりの台詞はなかなか痛い。一昨年の同公演『舵』で、浅利香津代は「心の舵がとれない」と言われる女を演じたことを思い出す。明るく鉄火肌にみえて実は心さびしく、迷いの多い女。『三の酉』も、「おさわはこの年に亡くなった」と男の語りで終わる。

 つねづね六行会ホールは久保田万太郎作品を上演するには少し大き過ぎるのでは?と感じていた。またほとんど満席の熱気を経験したことがなく(笑)さびしい思いがあったのだが、今回は2本とも芝居と客席の空気感や距離感がうまいぐあいにしっくりと溶けあった。サイスタジオや文学座のアトリエとは違うサイズのつくりが求められるのかもしれない。

 久保田万太郎の劇世界は、舞台で語られることの何倍も深く熱く悲しい気持ちが人々の心のおくそこにある。見えないもの、聞こえないものまで嫌みでなく描くには、あんがいある程度の広さをもつ劇場が必要なのでは?いよいよ魅力を増す久保田万太郎。それも理解できるようになったからではなく、わからなくなるところにいっそう味わいがあるのである。

 

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