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今回の新作は、吉祥寺シアターの提案により、「古代インド哲学を、中村蓉振付のダンスで楽しい舞台に」を目指して創り上げたとのこと。中村蓉(公式サイト)はコンテンポラリーダンスだけでなく、二期会オペラの演出や振付、新劇系劇団の公演での振付など、その活動は多岐にわたる。自分が観劇したのは、演劇集団円公演『ペリクリーズ』(中屋敷法仁演出/2023年3月)のみであろうか。改めてblog記事を読み返すと、前半はダンスというよりムーヴ、時には組み体操的な動きに困惑しつつも、後半は物語の進行とともに、俳優の動きを楽しんでいる。にも関わらず、自分が中村蓉を明確に認識していなかったのは(blogにも記載していない)、演劇と舞踊、振付は「別もの」という意識があったからではないだろうか。
家庭にも学校にも居場所のない少女マーヤ(酒井美来)は、自分に良く似た猫(鉾久奈緒美)に出会い、猫を追って不思議な世界に迷い込む。そこでさまざまな人や場所に導かれ、インドを追って姿を消した父とも再会する。公演の案内状に、「演劇とダンスの橋渡しになるような多岐な表現活動」とあるように、舞踊、振付にとどまらない中村の創作と、それを自らの戯曲に招き入れた川村の大胆な作劇、俳優の健闘を味わう舞台となった。
総勢18名の出演者のほとんどが複数役を演じる。10代から60代までの俳優とダンサー、所属は新劇劇団、舞踊カンパニー、小劇場等々と多種多彩である。いや、もう「この人は俳優、あの人はダンサー」といった捉え方は遠くに消え去り、全員が台詞、歌、身体表現によって描き出す物語である。
この日は川村と中村によるアフタートークがあり、本作の理解にとどまらず、演劇、舞踊の創造者の特質などを知る良い機会となった。記憶を頼りに書き出してみよう。
①本作のキーワードは「何でもあり」(中村)。
②身体表現はことばをないがしろにすることではない。からだとことばを行き来する(中村)。
③踊りのできる人は台詞、間合いが巧い(川村、中村)。
④川村演出は、ダンスとの親和性がある(中村)。
⑤作家が正解を出してはつまらない。演出家の自分とはできるだけ分離させたい。なので全体像のデッサンは早めに決めて、色は俳優に出してもらう。その色が見たい(川村)。
②③④には非常に新鮮な驚きと気づきをもたらされた。たとえばTriglav公演『ハツカネズミと人間』(2020年1月)、オフィスコットーネプロデュース『墓場なき死者』(2021年2月)での陰影に富む知的な造形が心に残る阿岐之将一は、マーヤに関わる重要な役を演じるが、これほど動く俳優とは知らず、それも台詞を乱すことなく自然で柔軟であった。
⑤については、演出家とは舞台の総てを統べる存在ではなく、俳優を自由に解き放ち、内面を引き出す役割を担うこと、しかしそれを可能にするには互いの信頼や勇気が必要であると想像する。さらに、その舞台の最後の色は何かを求められているのは、もしかすると観客ではないのかとも思う。
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