*ベルトルト・ブレヒト作 千田是也翻訳 森新太郎演出 公式サイトはこちら シアタートラム 15日まで 円公演、モナカ興業ふくめ森新太郎演出の舞台アーカイブはこちら→1,1',2,3,3',4,5,5',6,7,8,9,10,11,12,13,14
*数字に'(ダッシュ)がついているのは、ブログ記事に加えてえびす組劇場見聞録やwonderlandにやや長文の劇評を掲載したもの。
*14はえびす組劇場見聞録39号の「演出家特集」。
・・・という具合に、演出家森新太郎は自分の演劇歴に大きな位置を占めていることがわかる。
シアタートラムの奥行きを大胆につかい、ステージはガリレイの工房やフィレンツェの宮廷、法王庁、最後はイタリア国境近くの村まで自在に変化する。出演俳優は数人をのぞいて複数の役柄を演じるが混乱はしない。
ガリレイを演じた吉見一豊がすばらしい。声が渋いために、若いころはからだや役柄とのバランスがいまひとつむずかしいところがあったが、肉体とキャリア、そしておそらく内面ともに充実した円熟に近い域に達しようとしているのではないか。
昨年の東日本大震災と原発事故以来、多くの劇作家はじめ演劇人は、みずからの創作のありかたについて非常に思い悩んだことと察する。国難といわれるこの時期に、演劇が何の意味を持つのか、自分たちに何ができるのか、何が求められているのか。
そして震災や原発事故を題材にしたさまざまな新作が生み出されて大いに話題を集めた。
新しいもの、311を反映した生々しい作品を求める気持ちが、みるがわにも湧きあがっていたことは確かである。しかし忘れてはならないのは、すでに書かれた作品のなかに、現代を読み解くことばや鍵を探り、問いかける姿勢であろう。
ガリレイやブレヒトが21世紀の311を予測はしていなかっただろうが、今回の舞台は311をめぐって混乱し、先の見えない未来に立ちすくんでいる自分たちに対して、力強いメッセージを発するものであった。
幸福な演劇体験を与えられたことを喜びながら、いっぽうで「もし311がなかったら、自分は今日の舞台から何かを感じとることはできただろうか?という疑問もわく。
思いかえしてみると、『ガリレイの生涯』は80年代後半に東京演劇アンサンブルの公演、1999年に松本修演出、柄本明主演の公演をみているのだが、いずれも長大、難解であり、かろうじて柄本明の芸達者ぶりが断片的に記憶に残るのみである。
311によって、『ガリレイの生涯』はこれまでとは違った意味合いをもつ作品に変容してしまったのだ。同時にみる側も変わらざるを得ない状況に追い込まれているといっていい。天災も人災も起こらずに平穏であることが望ましいが、どちらも起こってしまった。なかったことにはできない。そこから模索し、歩き出すしかないのである。311は不運であり、不幸であるが、そこに何かの意味を見い出し読みとろうとするとき、絶望ではなく希望がほしいのである。
本作の最終場はカットされることが多いとのこと。師匠ガリレイがひそかに記した『新科学対話』のもったアンドレイがイタリアの国境を越えるとき、ひとりの子どもが「人間は空を飛べるようになるの?」と問いかける。アンドレイは客席通路を歩いてすでに姿が見えなくなっており、声だけが聞こえる。いまはできないが、いつかできるようになる。人間にはまだ知らないことがたくさんあるのだと。子どもは3人いて、そのなかのジュゼッペ?は馬鹿だとからかわれている。2人の子どもはその場を去り、ジュゼッペひとりが舞台に立ち尽くしてアンドレイの声を聴く。まさにこれはアンドレイを通してガリレイが、ブレヒトが、いまを生きる自分たちに手渡したメッセージではないか。
自分の知識、教養がないこと、怠けものの不勉強はあいかわらずであり、3度めになる本作もじゅうぶんに理解したとはとうてい言えないが、 手ごたえはより確かにあった。しかしそれはみずからが努力したからではなく、まったく予期しない311によって「そうならざるを得なかった」ことを深く受けとめるべきであろう。
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