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因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

ミナモザ第16回公演 『みえない雲』

2014-12-19 | 舞台

*グードルン・パウゼヴァング原作 高田ゆみ子翻訳 瀬戸山美咲上演台本・演出 公式サイトはこちら シアタートラム 16日で終了(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21
 
 1986年チェルノブイリで原発事故が起こった。本作はその翌年、ドイツで執筆された架空の原発事故の物語である。
 主人公のヤンナ・ベルタは、平和でのどかなドイツの町で両親とまだ幼いふたりの弟と暮らす14歳の少女である。ある日、授業中に聞いたことのない警報が鳴り響いた。校長先生は校内放送で「生徒は即刻帰宅するように」と叫ぶ。遠い町の原子力発電所で事故が起こり、放射能が流れ出したというのである。両親はあいにく泊まりがけで出かけており、ヤンナ・ベルタは8歳の弟ウリとともに自転車で町を脱出しようとする。町は大混乱に陥り、人々はパニック状態だ。弟を亡くし、友だちともはぐれ、見知らぬ町の病院に収容されたヤンナ・ベルタの過酷な日々が容赦なく描かれる。
 ドイツの町の名前を「フクシマ」に置き換えれば、そのまま2011年3月11日からの福島第一原発事故に重なる物語であり、舞台をみながら背筋が寒くなるのを覚えた。

 舞台は「私」という女性が子どものころ、図書館で原作を手に取る場面にはじまる。出演俳優が図書館に並べられた本のように立ち、「私」はたくさんの本のあいだから『みえない雲』を選びとる。この導入部の照明や、俳優が本に扮する演出がすばらしく、一気に劇世界に引き込まれる。
 が、なぜか自分は舞台の「私」が「瀬戸山美咲」ということがすぐに理解できず、現代に生きるひとりの女性としての「私」だと捉えていた。なので、「茨城県の東海村で放射能の臨界事故が起こり」という「私」の台詞に、「なぜ“日本の”と入れないのかな」と不思議に思ったのである。つづいて、「臨界事故をモチーフにした作品を書いた」という台詞を聞いて、ああこれは2003年上演のミナモザ第3回公演『まちのあかりがきえるとき』だとわかって、ようやくこの舞台の構造が把握できたのであった。

 瀬戸山美咲は、原作の小説に2014年の今の視点のみならず、今時点に至るまでのみずからの歩みを盛り込んだということなのだ。
 それは非常に演劇的でおもしろいつくりなのだが、「私」が瀬戸山美咲と名のりこそしないものの、『ホットパーティクル』の構造がここにも出てしまっているようで、自分としては疑問を禁じ得なかった。

 ヤンナ・ベルタの物語だけで、じゅうぶんな重みと深さがある。そこに「私」、つまり瀬戸山自身が原作者のパウゼヴァングさんをドイツに訪ねたおりのエピソードが決して短くはない時間で描かれる。通訳の女性が重要な役割を果たしていることもあり、原作者がどのような女性であるか、どんな話をしたのかも大変興味深い。しかし対話というよりも「私」の語りの文体になりがちなこともあり、そこまでの劇の感興を削がれる。
 終盤ちかく、「私」が原発事故や、それを容認してきた政府や関係者、自分自身にまで及ぶ激しい怒りを爆発させる長いモノローグがあって、ここは賛否や好みが分かれる箇所であろう。演じる俳優の身体の動きや台詞は、おそらく演出家とともに試行錯誤を経て練り上げられたものと想像する。しかし劇作家自身の思いをここまでベタに舞台で発するのはいかがなものであろうか。彼女の台詞が男言葉になってしまうところも、それだけ感情が激していることの表れであり、ある種の効果はあるだろうが、舞台の品位を下げてはいないか。
 自分の主張を「いかに言うか」だけでなく、「いかに言わないか」も大切ではないだろうか。

 疑問に思ったところをまず書いてしまったのだが、自分は今回の舞台からいろいろなことを感じとった。困難に襲われたとき、何が人を助けられるのか。物質的、人為的、経済的な支援など、具体的で目に見えて手で触れるものがまず必要だ。しかしそこから先、文学や音楽、そして演劇などの創造物の果たす役割がぜったいに必要だ。さらに、優しく柔らかく人の心を癒すものも大切だが、厳しいもの、重苦しいものが人を救うこともありうることを忘れてはならない。

 原作の小説、今回の舞台ともに、チェルノブイリ原発事故と東日本大震災と福島第一原発事故がなければ生れなかったものだ。原発事故は起きてはならなかったことであり、痛恨の極みである。しかしそこからこの小説が書かれたこと、さらに30年近い年月を経てこの舞台が生まれ、それを2014年の現代の観客が出会えたことは、ひとつの希望ではないかと思うのである。

 終幕で、ヤンナ・ベルタは祖父母の家にたどりつく。放射能によって髪の毛が抜けてしまった彼女は帽子をかぶったままだ。祖父は事情がわかっていて敢えて言うのか、単に食事の席での無作法が許せないのか、「帽子を取れ!」と孫を叱責する。襲われた不幸を共有できない現実。ヤンナ・ベルタは自分に起きたことを話そうと決意し、「あのね」と言って帽子を脱ごうとする。
 ここからヤンナ・ベルタの新しい物語、新しい闘いがはじまるのだ。

 今年の現代劇の観劇はおそらく本作が最後になる。年の瀬にたしかな手ごたえを得て、嬉しく幸せな一日になった。瀬戸山美咲は小学生のとき、『みえない雲』に出会った。それが今回の舞台に結実したことを、客席から喜び祝福したい。
 

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