当ブログでは、たびたび、ブッダの実像の肖像画を紹介しているので、
どこからどう見ても、アーリア系のインド人 (白人系) だとわかる。(正確にはネパール人か・・・)
2500年前、釈迦国で画師によって墨で描かれた、生身の釈迦如来肖像画。
学者の間では、昔から、モンゴロイドの期待もあったみたいだが、
それは、無い。
今のインド人でも、アーリア系の人はたまにテレビで見かけるが、
だいたい、背が高く、手足が長い。そして、色が白い。
こういう条件でないと、ブッダのように、49日間も結跏趺坐 (けっかふざ) して禅定し続けることはできないと思われる。
モンゴロイドだと、足腰の痛みに耐えられないだろう。
知り合いの曹洞宗の方丈 (住職) が、臘八大接心 (ろうはちだいせっしん) と言う、禅宗の坊さんが、12月に七日間?ぶっ続けで坐禅する行をやった後、もう一日やってみたところ、「足が痛くて・・・」と言っていた。
お釈迦様のように、49日間も結跏趺坐したまま、瞑想し続けることができる肉体的条件は、背が高く、手足が長く、体がものすごく柔軟であることが最低条件ではないかと思う。
そういう意味で、見た目だけでなく、やはり、アーリア系の白人が正解と思う。
その曹洞宗・方丈、上に貼り付けた、2500年前に描かれたお釈迦様の肖像画は、「知ってますよ。何度も見たことありますよ」と言っていたが、
この、本当のお釈迦様の肖像画と「そっくり」な「白人禅坊主」が後輩にいるとも言っていた。
確か、ドイツ人の坊さんじゃなかったかな。
ゲルマン人は、アーリア人とは区別すると聞いたが、
とにかく「そっくり」と言っていた。
方丈曰く、「本当のお釈迦様の肖像画と、私の後輩のドイツ人の坊さんは、そっくりですよ。若いころは、お釈迦さまに似て、本当に男前でした」と。
で、写真見せてもらったら、「ずいぶん元気がない顔してた」ので、「似てないじゃないですか」と言うと、「これは、この男 (ドイツ人禅坊主) が、肝炎患って闘病している頃の写真なので元気がない顔してますが、若いころは、本当にお釈迦様に似て男前でしたよ」と。
「じゃ、若い時の写真見せてください」と言うと、「写真これしかないんです」と。。。
本当に似ているなら、ドイツが昔、ドイツ国民こそ純粋なアーリア人と言っていたのも、あながちウソではないのかも知れない。
生身の釈迦肖像画・身長が180.5センチ、少し青い目と文献で見た記憶がある。画師を真っすぐ見つめる瞳は、悟りを開いた「ゆるぎない自信に満ちている」王の顔立ち。
サラスヴァティー (ヒンドゥーの女神。ウィキより)
ドゥルガー (ヒンドゥーの女神。ウィキより)
ヒンドゥーの神々は、お釈迦様と見た目がよく似ている。二重で大きな瞳、鼻筋が通り、ホリが深い顔立ち。ただ、お釈迦様は、「一日一食しか食べなかったので」、「ふくよかなヒンドゥーの神々」より、「細い」。
奈良市・真言律宗総本山・西大寺本堂のご本尊、釈迦如来立像は、珍しく、本当のお釈迦様に似ていて男前で細い仏像。
たいてい、釈迦如来像はどの宗派でも、奈良の大仏さまよろしく、「でっぷり」した仏像が多い中、西大寺のお釈迦さまは、細くて「きりりっ」とした表情。
以前、西大寺の管長が朝のお勤めに一人で向かう中、挨拶して後ろをついて本堂に入った。
遠慮して後ろから拝んでいると、「どうぞどうぞ中へ入って拝んでください」と言われ、それでも管長の前に行くのはためらわれたので、横から拝んでいると、「どうぞ、真正面から拝んでください」と言われ、ビビリながら、管長の前、お釈迦様を真ん前から拝ませてもらった。
仏像で、これだけ「きりりっ」としたお顔立ちの仏像は珍しい。
文献では、お釈迦様の特長は、「背が高い」(立派な体格)、「少し青い瞳」「美男子」「色が白い」と、出ていたと記憶している。
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昔、アマゾンで買った本です。
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ」。原始仏典のうち、ブッダが神々と対話した記録集。無作為に選んで記していきます。読みやすいよう、多少アレンジしています。
ブッダ曰く、
「人のいない地域 (=荒野) に清冷な水があっても、それを飲まぬならば、涸れて消え失せるように、愚劣な人が富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、また為すべきことを為す。
牡牛のような人である彼は、親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所におもむく」。
・・・
また、コーサラ国王パセーナディは、お釈迦さまに「ある、子がいない資産家が亡くなった」ことを告げ、色々と質問します。その資産家は、大富豪であるにもかかわらず、ものすごくケチで、財産をほとんど手つかずで残していました。そのため、手つかずの財産は全て王宮が没収した。
ブッダの説明によると、「その資産家は遠い過去世で、タガラシッキと言う独覚 (独りで悟りを開いた聖者) に食物を与えた功徳により、七度、天の世界に生まれた。ただ、独覚に布施したあと、後悔し、なおかつ、財産を得るために、兄弟のただ一人の子を殺してしまった。その報いで、ものすごく長い時を、地獄で苦しめられた。その悪業の報いの残りよって、ここ (娑婆) に七度生まれても、子が無く、死んだ後、財産は王宮の倉庫に入った。その資産家の、(過去世で独覚を布施した功徳は) 尽き果てて、死んだのち、大叫喚地獄で煮られているのです」と。
ブッダ曰く、
「穀物も財も、銀も金も、またいかなる所有物があっても、奴僕も、傭人も、使い走りの者も、また彼に従属して生活する者どもでも、どれも全て連れて行くことはできない。
全てを捨てて行くのである。(※ 来世に)
人が身体で為し、また言葉や心で為すところのもの (=業=カルマ) 、それこそ、彼自身のものである。人はそれを取って受けて、行くのである。
それは、彼自身に従うものである。影が人に従って行くように。
それ故に、善いことをして、来世のために功徳を積め。功徳は、あの世で人々の拠り所となる」
・・・善因善果・悪因悪果、自業自得を仏教は説きますが、
自業自得とは、悪業だけが自分に返ってくるのではなく、善業 (善徳) もまた、自分に返ってくるものです。
では、プーチンやトランプ、はたまた、真昼間から強盗働く者、それを裏で指示する者、霊感の「れの字」も無いクセに聖者ぶったり霊能者ぶったりして、人々を騙して儲ける悪逆な人間はどうして栄えることがあるのかと言うと、
業と言うものは、「機が熟する」まではわからないもので、機が熟したら、善業・悪業問わず、自分に返ってくるものです。
中には、死ぬまで人々を騙し続け、死んだのち、その悪業が返ってくる者もいます。
サンユッタ・ニカーヤ ブッダ神々との対話終わります。
次回から、
サンユッタ・ニカーヤ ブッダ悪魔との対話に進みます。
余談ですが、私はどうも、キリスト教の忌み数に御縁があるみたいです。
色々と・・・。
13・666・・・また666。
ただ、キリスト教徒以外の人間には、13も666も関係ない。
13は仏教では、十三仏。
666は知らないが、6は六波羅蜜。大乗仏教の6つの徳目。
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以前書いたかも知れないが再度・・・
昔、漫画で「孔雀王」と言う密教漫画が流行った。
密教とオカルトと超能力とケンシロウが混ざったような漫画で面白かった。
実写版映画にもなり、三上博史が孔雀役で主演をした。
臨兵闘者皆陣列在前 (りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・ちん・れつ・ざい・ぜん) と、印を組み熱線を発すると魔物が消滅する。
漫画の方の孔雀は確か、「オン・インドラヤ・ソワカ」と帝釈天真言を唱え、雷?を発していたと記憶している。(定かではない)
私はその頃既に、高野山の参与会員だったので、送られてくる高野山教報を読んでいると、
「高野山でお坊さんになりたいです」と、一般人の入門希望者が後を絶たなかったのだとか。
理由を聞くと、
「密教を学んで超能力を身につけ、孔雀王のようになりたい」と言うのが大半だったとか。
受付対応の役僧は、(またか・・・) といつも思っていたそうである。
密教を学んでも、超能力は身につかない。密教の作法は身につく。護身法は習うそうなので、「障りから身を守る」作法は身につく。九字護身法も習うと菩提寺さんが言っていた。
それらは超能力ではなく、密教の修法をする際、例えば、護摩作法をする時でも、さまざまな諸仏・諸尊・諸天を勧請 (かんじょう=お招きすること) するので、失礼のないように、行者自身の身心を浄める作法と言ってもいいと思う。(私は真言宗の檀家であるが素人なので言葉が適切かはわからないが、概ね、そういう意味)
何度か書いたが、素人が真言を唱えても、なんの霊験も無い。
霊験がある風に言っているのは、新興宗教団体や怪しげな寺だけである。
超能力や神通力など、願ったところで得られるものではないのに、そういうものを求めて、密教や、または、神社・仏閣を参ると、「魔に魅入られる」。
私も真言宗の檀家なので、日々、自宅でお勤めはしている。
小さい仏壇ではあるが、本尊・両脇侍、それに成田山大阪別院ほか不動護摩札もお祀りしている。
お勤め・・・勤行とは、御利益を願うものではなく、仏さまに対して礼拝供養するためのものである。
ご真言も、十三仏や光明真言ほか、基本的な真言は普通に唱えられる。
こんなもの、四国遍路すれば誰でも「そらで」唱えられるようになる。
菩提寺での回向では、諸観音の真言もいくつか唱えているので、一緒に唱えるうちに、十一面・千手・馬頭・じゅんてい・白衣・如意輪ほか観音真言も自然に覚えた。
が・・・そんなことは、真言宗の檀家なら唱えられて当たり前。
愛染明王真言も真言宗ではよく唱えるが、小呪・大呪も覚えた。(奈良・西大寺の愛染明王御守に、オーン マーカーラギャー・・・と真言が印刷してあり、唱えましょうと書いてあるので大呪を覚え、小呪は高野山の坊さんから教わった)
今はなんでもインスタント時代。コンビニの「レンジらーめん」も、レンジでチンするだけで、ラーメン屋のラーメン並の味が味わえる。
が・・・神仏いずれも、インスタントには何も成就できない。
神仏いずれも、われわれ人間のことは、よく見ておられる。
「霊感のれの字」も無い行者もどきや、坊主もどきや、霊能者きどりの芸能人がよくいるが・・・はっきり言って、詐欺師そのものである。
「ぜんぜん見たことないやろ」と言うような輩ばかりである。
私は霊感はある方だが、職業的に、そういうのがある人たちは、私の今までの経験から言うと、「看護師」さん・・・「患者の死を看取る看護師」さんが、霊感強い人が多いと思う。同じ看護師でも、眼科や歯科の看護師や皮膚科の看護師は・・・ないと思う。
世の中には、詐欺師まがいの連中がよくいるが、私はそういう人間は見ればすぐわかる。
中には、「他人の体験談」を、さも「自分の霊験談」として語る輩も多々いるので要注意。
「綺麗ごとばかり言う者」、逆に「脅しばかり言う者」「さも神仏が見えるかのように言う者」「自身が霊能力に優れているように吹聴する者」・・・こういうのは偽物が圧倒的に多い。結果的に、「金」につながる所が一点でもあれば、近づかない方が無難。
密教とは、「身の悪業」「口の悪業」「心の悪業」を、「身密」「口密」「意密」・・・三密へと転化することに重きを置く仏教で、顕教とは違った趣。
ただ、顕教・・・特に修行をする坊さんと言えば、禅宗が有名だが、禅宗の坊さんと、密教の坊さんと、どちら人間的に優れているかと言えば、それは、人それぞれ。顕教・密教両方あるのは、天台宗。ただ、天台宗の坊さんが禅宗の坊さんほど坐禅をするかと言えば、それは、禅宗の方が坐禅のエキスパートである。
しかし、天台宗には止観 (禅) 、密教両方ある。回峰行のように、修験の源流のような行もある。
密教に魅力を感じるなら、高野山の専修学院で学べばいい。ただ、キツい・・・と菩提寺さんは言っていた。インスタントには密教は覚えられるものではない。
「ものすごく」覚えることが多い。奈良・大安寺の副住職が、本で如実に書いているので、気になれば参照まで。
『大安寺の365日』(副住職 河野裕韶著)アマゾンでも買える。
話変わって・・・
孔雀王の作者、荻野真さん (故人) が以前夢に出た。
会ったこともない人だが、ある日の夢で、
荻野さんと私が合流して、出雲大社のスサノオノミコトに会いに行くと言う。
出雲大社にある二階建ての建物の二階に案内され、荻野さんと待っていると、
「どっかどっかどっか」と雄々しい足音と共に、若かかりし日のスサノオノミコトが現れ、
「よく来たな~」と、私と荻野さんを「しげしげ」見つめ、
怖いから私と荻野さんが、縮こまっていたところで・・・
目が覚めた。
(スサノオノミコトは、大柄でした・・・)
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昔、アマゾンで買った本です。
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ」。原始仏典のうち、ブッダが神々と対話した記録集。無作為に選んで記していきます。読みやすいよう、多少アレンジしています。
種々なる異学・・・
そこで悪魔は、〈神の子〉ヴェータンバリに憑りついて、お釈迦さまのもとで次の詩をとなえた。
「苦行と厭い離れることに専念し、ひとり遠ざかって暮らす生活を守り、物質的なかたちに執著し、神々の世界を喜び、それらの人々は、来世のために正しく教え諭す」と。
そこでブッダは、「これは悪魔である」と見抜いて、悪魔に詩を以て答えた。
「この世又はかの世におけるいかなるかたちでも、空中に現れる光り輝きや彩色でも、これらは全て悪魔ナムチの褒めたたえるところである。魚を殺す (=魚を釣る) ために餌が投げ込まれたのである」と。
そこで神の子マーナヴァ・ガーミヤは、ブッダについて、ブッダのもとでこれらの詩をとなえた。
「王舎城の山々のうちでは、ヴィプラ山が最も優れている。諸々の雪山のうちでは、セータ山 (白山) が最も優れ、空行くものどもの内では、太陽が最も優れ、水の堆積しているところの内では、海が最も優れ、諸の星の内では月が最も優れ、神々と共にある世界にとっては、ブッダ (お釈迦さま) が最も優れている、と説かれている」
神の子・ウッタラ・・・
神の子ウッタラは、お釈迦さまのもとで、この詩を唱えた。
「生は〈死に〉導かれる。命は短い。老いに連れ去られた人には、救いのよるべが存在しない。死にはこの恐怖のあることを観察して、安楽をもたらす功徳を積め」
ブッダ曰く、
「生は〈死に〉導かれる。命は短い。老いに連れ去られた人には、救いのよるべが存在しない。死にはこの恐怖のあることを観察して、世の中の誘惑のもとを捨てて、静かな安らぎを願え」
神の子・スシーマ・・・
お釈迦さまと、尊者アーナンダが、尊者サーリプッタのことを称賛している時に、神の子・スシーマが現れ、お釈迦さまに挨拶して、次のように言った。
「・・・(前略) ・・・サーリプッタは、大いなる智慧があります。少欲です。満足しています。・・・教え諭す人です。他人の忠告をよく聞く人です。他人を諫める人です。サーリプッタは、悪を非難する人です。・・・中略・・・神の子の集会でサーリプッタの称賛が語られていた時に、・・・種々の光彩を示しました。・・・たとえば、夜が明けた時に、明星が照らし、輝くように、神の子スシーマに従う神の子たちの集会は、尊者サーリプッタの称賛が語られていた時に、種々の光彩を示しました。・・・尊者サーリプッタは、聡明な人であると、遍く認められている。彼は怒ることがない。求めること少なく、柔和で、自ら制し、師の誉れになる仙人である」
ブッダは、スシーマに詩をもって答えた。
「サーリプッタは、聡明な人であると、遍く認められている。彼は怒ることがない。求めること少なく、柔和で、自ら制し、よく修養していて、傭人が賃金を支払われる時を待つように、死の時を待っている」と。
お釈迦さまがアーナンダ尊者に、「サーリプッタをどう思うかと尋ね、アーナンダ尊者と共にサーリプッタ尊者のことを称えている話」ですが、
似たようなことが、ほぼ同時代?の中国でありました。
孔子が高弟の子貢に「顔回をどう思うか?」と聞き、高弟の子貢が顔回を称賛すると、「お前 (子貢) と比べたらどうか?」と問い、子貢が「私など問題になりません。顔回は一を聞いて十を知る秀才、私などは、一を聞いて二、三を知る程度です」と謙遜すると、孔子も「私も顔回には及ばないよ」と答えたエピソードがあります。
ブッダと孔子・・・共に優秀な十人の弟子がいて、二人の高弟が師より先に亡くなります。孔子も詩が巧みでしたが、お釈迦さまの詩も流麗。
その頃が、人々にとって一番良い時期だったのかも知れませんね。
・・・昨日は、オレンジ色が入った綺麗なカゲロウさんと、極小さいアマガエルたちに会いました。
今日は、うちにたくさん来ている、8ミリくらいの甲虫がひっくり返っていたので、助け起こしました。・・・アズキみたいなのが落ちているので、じーっと見ていると、じたばた動く。つかまらせて助け起こしました。
その甲虫と同種類の甲虫が、よちよち歩いていくと、その先にダンゴムシ (私は、マルと呼んでいます) がいて、どうするかと思っていたら、目の前で鉢合わせた後、方向転換していきました。
・・・環境保護活動家のグレタさん、苦戦しているみたいです。
私が彼女に言いたいのは、彼女が2017年だったか、トランプから提示され、彼女自身がけった「一兆本の植樹」、こっちに鞍替えした方がいいのでは・・・と言いたいです。
CO2削減削減と言っても、もう「待ったなしを超え」、臨界点に達しつつあるので、植樹の方から始める方がいいと思います。
大手スーパー・イオンの、イオン環境財団は、累計1255万本植樹しています。
公益財団法人イオン環境財団
言葉より行動を。私は別の二団体に植樹寄付し続けています。
電線に小鳥が留まっている時、「ぱっ」と見た目だけではすぐ区別がつかない時があります。
「モズ」・・・「なんか大きいスズメだな」と思っていると、モズは察するのか、やや横向きになる。で、尾羽を「く~るくる」と回すのでモズだとわかります。
「ツバメ」・・・「スズメ?少し細長いような・・・」と思っていると、ツバメちゃんは察するのか、「きゅい」と鳴きながら、片方の翼を広げる・・・それでツバメとわかります。
「メジロ」・・・「スズメ?少し小さいかな」と思っていると、メジロちゃんは察するのか、体を左右に小さく揺さぶりながら、メジロの鳴き声で鳴くので、メジロだとわかります。
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