「息子は公務員になって、田舎にもどってこないかもしれない」
と夏休みに帰省した小生を見て、小生の親は思ったようだ。
予定通り、全国の友人宅を旅し、九月中旬に東京に戻った小生に、故郷から、いくつかの資料が送られてきた。
郵政関連のものが、多い。
親父は田舎の郵便局長だった。
徴兵され中国へ、終戦後、帰還すると、田舎で学校の先生になったが、公職追放で空きになった田舎の郵便局長になった。
もともと、一族の土地で明治以降運営していた郵便局であり、兄が公職追放になったが、弟の父が収まった形だ。
学校の先生には未練があった様だが、実家の命令なので、逆らえなかったようだ。
その様なこともあり、親父にとって紹介できる資料が郵政関係だった。息子の為に出来るだけ集めたのだろう。
親の心子知らずで、小生は全く感謝しなかった。正直、鬱陶しく思えた。
郵便、郵政に関しては、子供心にも拒絶反応があった。
この拒絶反応には理由があるが、長くなるし本題とあまり関係がないので、ここでは書かない。
ちなみに、昭和51年の正月、年賀状の遅配がおこり社会問題となったが、この事件は小生が田舎に帰って仕事をしない決定打となった。
資料の中には、面白い進路や就職先も存在した。
例えば、松下政経塾、政治家秘書、大学の研究助手、NHKなどだ。
政治関係は親戚に政治家が何人かいたことによるものだった。
研究助手はこれも、親戚に教授がいて、この大学で、研究者として働くことを勧めた内容だった。
知らなかったが、NHKは郵政省の管轄下だったようだ。
親戚が関わっている紹介先にはアポイントをとって、話を聞きに行った。
当家を代表して親戚に不義理を詫びることも兼ねていたが、社会人になることの不安もあった。
そのため、親戚に話を聞いて勉強したい気持ちも正直あった。
初対面の人もいたが、どの人も小生の実家に敬意を持ってくれており、私に対しても真摯に接してくれた。
そして、小生の親戚はどの人も正しいアドバイスをくれた。
すなわち
「興味を持って打ち込めるものを仕事にしなさい」
と一様に言った。
残念ながら、親戚の紹介先の仕事には、もう一つ興味が湧かなかった。
また、自分の適性を見極められない状況で、親戚に迷惑をかけ、さらに実家に恥をかかせる可能性を恐れた。
結果、皆さんに丁重にお礼を申しあげ、退散した。
以上の理由で小生の第一希望は遊技機の開発、第二希望はケイシュウニュースのトラックマンとなった。
しかし、自分なりに努力はしたものの、これらの希望は叶うことはなかった。
これら二つの話は、実に面白すぎるので、又の機会に書きたい。
しかして、親父が資料を送ってくれた中で、小生が本格的に応募したのはNHKだけだった。
第一希望、第二希望も含め学校に求人のある民間会社のいくつかを、応募することにした。
しかし、東芝の先輩のアドバイス通り、研究室に募集のあったコンピューター関連は教授がどうしても応募してくれと言った2社のみ応募した。
こうして、否応なく9月の中旬、私の青春は終わってしまった。
そして、就職戦線に突入したのだった。
10月1日から10日間くらい、各社の試験を受けに行く。
複数に応募したので、スケジュール管理は、むずかしかった。
結果的から先にいうと、行きたいと思った会社以外からは、全て内定をもらった。
つまり、関心のあった会社はすべて、不採用だった。
関心のあった会社とは、遊技機メーカー、競馬新聞、そしてNHKだった。
研究室推薦の2社は不幸にも内定がきた。不幸とは、教授が受けるだけで良い、と言ったから応募したのに、内定を辞退したら少し揉めた。いや、一社は大いに揉めた。
この大いに揉めた方の会社は今でもよく覚えているので、本題とは関係ないが少し余談として紹介する。
朝一番から試験を受けに行った。
教室が3つあって、試験の途中で面接を入れるという。試験の時間に制約はなく、面接が終わってからも、答案を書いても良いシステムだった。
小生がいた教室は20人くらいの応募者だった。試験は簡単で30分くらいで書いてしまった。
回りの人は、一通り面接に呼ばれたように思ったが、小生は中々呼ばれない。
2時間くらいが、経過した。
他の教室もあるし、小生の場合は「研究室枠」扱いかもしれず、最後の方かも。と思いながらも、とっくに試験問題は書いてしまって暇だ。試験会場に会社の人がいれば、聞いてみたいのだが、だれもいない。
少し心配になってきたのは、この日は昼から大手町の会社での面接が入っているので、もし午前中に終わらないと困る。
面接から戻って試験問題を書いていた人が、一人去り二人去り、誰もいなくなったときには、12時が迫っていた。大手町に1時半に行くには・・・と焦って、会社の1階にある受け付けに、思い切って行って、たずねた。
受付のお姉さんはびっくりして、どこかに内線で連絡し、すぐに面接会場に連れていってくれた。
そこでは、既に会社の人が20人くらい集って検討がおこなわれていた。
そして、なぜか20対1の面接がはじまった。
私を案内したお姉さんが常務と呼んだ人が、真ん中に座って主に小生に質問した。
他の19人は何かニヤケていた。理由はすぐに分かった。
「君は今まで、何をしていたのかね」
つまり、とっくに面接は終了しており、なんで君は遅いのか?との質問だった。
19人の中にはクスクス笑っている人もいた。
修羅場になると、時々フル回転する小生の頭だが、この時は「まともな答えをする連中ではない」との指示が出た。
「呼ばれなかったと、思うのですが・・・」と謙虚に答えたが、案の定、会社のミスを棚に上げた。
「遅いのが変だ。と、思わなかったのかね」と常務。
ほとんど恫喝調だった。
そして、さらに上から、たたみかけて言った。
「君は行動力がないのでは、ないのかね!」
小生は少し考えて、答えた。
「恐らく、あなたより、忍耐力があります」
クスクスとした小さな笑い声が消え、場が静まりかえった。
19人の中の一人が、小生のこの発言に、「君は不採用だ」と言ってくれたので、若干の気まずさはあったが、「失礼します」と言い残し、この会社をあとにした。
おかげで、午後からの大手町の面接に間に合った。
ところが数日後、この会社から何度も電話をもらった。さらに重役面接に来いという連絡だった。
スケジュールの都合もあったので、断っていたが、学校にまで電話があったようで、教授までも「あんなに、熱心に言ってくれるのだから、面接に行ってくれないか」と言い出す始末。
「前回、不採用になったはずですし、他の会社の試験もありますので、結構です」
と担当の方に言っても、「とにかく、面接に来てくれ」の一点張りだ。
「常務さんも、私の行動力の無さを問題にしたじゃないですか」
と言うと、困った担当者が
「その常務が、君を是非にも採用したいと言ってるんです」
少し気持ちが動いたが、小生にもプライドがあった。
ちなみに小生は、この会社のあと、午後から面接に行った中堅商社に就職した。
本題に戻る。
親が推薦したNHKの試験日が近づいていた。
10月中旬すでに内々定をもらっていた小生は気軽にNHKの試験を受けに行った。
試験会場は代々木だ。
試験の内容は一般教養と書いてある。
自信があった。
自慢になるが、1年生の時、押坂忍の「テレビクイズQ&Q」に出場した。
浜岡君が冗談のつもりで、小生の名前を書いて応募したのが、当った。
浜岡君と江藤君の2人だけが、TBSに応援についてきた。
最初の問題から20点を賭けて、3問目チャンスタイムで、また20点を賭けて、100点に達し、ミリオンステージに挑戦するという快挙に、浜岡君と江藤君は喜んでくれた。
又、テレビで見たクラスの連中が、小生を単なる不良学生ではないと、見直すことなった事件だった。
ちなみに、ミリオンステージは故あって惨敗した。
一般教養まかせなさい!
ところが、試験会場に到着すると皆が朝日新聞を読んでいる。
受験番号の近い人達と話をすると、一般教養の試験は政治、経済それもここ数年の新聞に取り上げたものらしい。
私の自信は、あまりにも呆気なく崩れた。
この4年間、新聞はスポーツ新聞と、寮にあった赤旗のテレビ欄と、競馬新聞しか読んでいない。
「これは、まずいことになった」と思ったが、しかし、試験自体はマークシートの四択だ。四分の一の確率で当たる。
「偶然4分の一が全て正解すると100点だな・・・」と、この場に及んでも、お気楽に考えることができる小生の能力は計り知れない。
教室に入ると、たまたま先程、雑談した時、自信があると言っていた慶応の学生が隣に座った。
「ラッキー!」
試験問題が配られた。
次のABCDの中に正しい記述が一つだけあります。正しい記号にチェックしなさい。
問題を読んだ。
どの問題もABCD正しいような、正しくないような・・・?
何とか判断つくものは、自分の考えで、まったく判断のつかない問題は、たまたま見えた隣の慶応ボーイを参考にして印をつけた。
しかし、自分で判断のつく問題は1割もなかったので、偶然だが慶応ボーイと、ほとんど同じ答となった。
元々、NHKの募集のほとんどが文科系であり、理系の募集人員は30人程度であった。そこに頭良さそうな学生が何百人も受けにきたのだ。
「こんなもん、受かるわけがない」
帰路、代々木から小金井までの電車の中では、
「一般紙も読まないとダメだな」
と反省した。
が、30分後、武蔵小金井のパチンコ屋にたどり着き、仲間とパティオでコーヒーを飲みながら、スポニチを睨みつけ、菊花賞の予想に熱中していた。
つづく
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