NHKのことは忘れていた。
11月2週目の学園祭に向けて、寮の大部屋を借りて合宿に入っていた。
卓球部のイベントは10年以上の歴史がある多摩地区の卓球大会の運営だった。
明治の元勲、大久保利通公創設の当校の学園祭は、朝市で安い新鮮な野菜が買えることや、自家製カルピスが配られたりして、地元では人気がある。
参加する100チームほどの卓球の選手達も安い参加費で学園際を楽しみながらの大会だった。
家族で試合を応援に来て、試合の合間に買い物も出来るし、負けてしまったチームも学園祭を楽しんで帰る。
数年前、存続の危機があったが、私たちの年代で確立した大会に仕上げていかなければならない。
準備も佳境で、忙しかった。
ちょうど明日に迫った大会の運営に関する打ち合わせを、下級生幹部としていたとき、小生に「お電話」のアナウンスがあった。
前にも書いたが、「電話」は男で、「お電話」は女の人からの電話だ。
合宿所の皆が「ヒューヒュー」いう中で、小生は「ちょっと、待っててな」と、寮の廊下にある内線を取った。
確かに女性の声だった。
「私、オサダ事務所の者ですが」
女性は私の名前を再確認すると、意外なことをいった。
「NHKの試験を受けましたよね?」
オサダという名前は一人知っていた。
こちらは知っていたが、先方は小生を知らない。
「長田裕二?」
小生が高校生のとき、参議院選挙があった。
全国区の選挙ポスターを貼って来てくれと、親父に頼まれた。
そのポスターの候補者が長田裕二という名前だった。
選挙にまったく興味のない小生は言われるまま、言われた数箇所の場所にポスターを貼った。
今、考えてみると、全国郵便局長会が推薦していた候補者だったのだろう。典型的な郵政族議員だ。
夏休み帰省時、親父が、なにかの大臣になったと言っていたことを思い出した。
その大臣事務所の人が何故、NHKを受けたと知っているのだろうか?
電話なので表情までは、わからないが、何だか上から目線の質問に感じた。
「はい受けましたが」と、素直に答えると、女性は意外なことを言った。
「少し、点が足りないんですよ」
何を言っているのか、分からなかった。
答えようがないので、少し考えていた。
女性は少し、優しい口調になって、再度繰り返した。
「少しだけ、合格点に足りないようなんです」
小生はやっと頭が回り始めた。
つまり、大臣ともなると、国営放送の採用者の合否なども知ることが出来るのかもしれない。もしかすると、選挙で応援したことなど考えあわせると、田舎の親父が頼んだのかもしれない。
でも、点が足りないと言う。
商社の内定はもらったが、もちろんNHKなら喜んで就職したいと思う。が、点数が足りないとの連絡だ。
合格通知なら歓迎だが、不合格の通知を、よりによって、議員事務所が教えてくれたのだ。
なぜか、隣の席で試験を受けた慶応の学生のことを思い出していた。
「あの野郎、口ほどにもない奴だ・・・」と、心の中でつぶやいた。
少し複雑な心境だったが、そもそも期待していなかったので、冷静を装い「わざわざ、お知らせありがとうございました」とお礼を言った。
ところが、又も女性の口調が上からに変わった。
「それで、いいんですか?」
小生「点が足りないんですよね?」
女性「はい、足りません」
「じゃぁ、しょうがないですよね」「ありがとうございました」と言って電話を切ろうとすると、
「本当に、それでいいのですか?」
忙しかった小生は「落ちた人にまで、お気遣いありがとうございます」と言って電話を切った。
しばらく、この出来事も忘れていた。
自分の学校での開催にも関わらず、多摩地区の強いチームが出てくるこの大会で小生の学校のチームは、ベスト8にも入ったことがない。
1チーム4人で運営されるこの大会は、2人が絶対的に強いと勝ち進む。ダブルスが1試合シングルスが4試合の合計5試合、3試合先取で勝敗が決まる。
強い2人がシングルスで勝って、ダブルスも組んで勝てば、あとの2人は弱くていいのだ。
小生と1年生の後半からダブルスを組んだ水沼君が絶好調だった。小生も学生最後の試合との思いが強く、集大成の試合を続けた。
結果は、準々決勝で法政大学(レギュラーチームではなかったが)を破ってベスト4に入ったのだ。
残念ながら準決勝では、優勝した国立のクラブチームに惜敗するも、これは快挙だった。
卓球を続けてよかったと、心から思った。
卓球人生の最後にベストゲームができた。
この時もらった3位の盾は我が家の家宝となった。
このような興奮もあって、NHKのことは忘れていた。
つづく
「息子は公務員になって、田舎にもどってこないかもしれない」
と夏休みに帰省した小生を見て、小生の親は思ったようだ。
予定通り、全国の友人宅を旅し、九月中旬に東京に戻った小生に、故郷から、いくつかの資料が送られてきた。
郵政関連のものが、多い。
親父は田舎の郵便局長だった。
徴兵され中国へ、終戦後、帰還すると、田舎で学校の先生になったが、公職追放で空きになった田舎の郵便局長になった。
もともと、一族の土地で明治以降運営していた郵便局であり、兄が公職追放になったが、弟の父が収まった形だ。
学校の先生には未練があった様だが、実家の命令なので、逆らえなかったようだ。
その様なこともあり、親父にとって紹介できる資料が郵政関係だった。息子の為に出来るだけ集めたのだろう。
親の心子知らずで、小生は全く感謝しなかった。正直、鬱陶しく思えた。
郵便、郵政に関しては、子供心にも拒絶反応があった。
この拒絶反応には理由があるが、長くなるし本題とあまり関係がないので、ここでは書かない。
ちなみに、昭和51年の正月、年賀状の遅配がおこり社会問題となったが、この事件は小生が田舎に帰って仕事をしない決定打となった。
資料の中には、面白い進路や就職先も存在した。
例えば、松下政経塾、政治家秘書、大学の研究助手、NHKなどだ。
政治関係は親戚に政治家が何人かいたことによるものだった。
研究助手はこれも、親戚に教授がいて、この大学で、研究者として働くことを勧めた内容だった。
知らなかったが、NHKは郵政省の管轄下だったようだ。
親戚が関わっている紹介先にはアポイントをとって、話を聞きに行った。
当家を代表して親戚に不義理を詫びることも兼ねていたが、社会人になることの不安もあった。
そのため、親戚に話を聞いて勉強したい気持ちも正直あった。
初対面の人もいたが、どの人も小生の実家に敬意を持ってくれており、私に対しても真摯に接してくれた。
そして、小生の親戚はどの人も正しいアドバイスをくれた。
すなわち
「興味を持って打ち込めるものを仕事にしなさい」
と一様に言った。
残念ながら、親戚の紹介先の仕事には、もう一つ興味が湧かなかった。
また、自分の適性を見極められない状況で、親戚に迷惑をかけ、さらに実家に恥をかかせる可能性を恐れた。
結果、皆さんに丁重にお礼を申しあげ、退散した。
以上の理由で小生の第一希望は遊技機の開発、第二希望はケイシュウニュースのトラックマンとなった。
しかし、自分なりに努力はしたものの、これらの希望は叶うことはなかった。
これら二つの話は、実に面白すぎるので、又の機会に書きたい。
しかして、親父が資料を送ってくれた中で、小生が本格的に応募したのはNHKだけだった。
第一希望、第二希望も含め学校に求人のある民間会社のいくつかを、応募することにした。
しかし、東芝の先輩のアドバイス通り、研究室に募集のあったコンピューター関連は教授がどうしても応募してくれと言った2社のみ応募した。
こうして、否応なく9月の中旬、私の青春は終わってしまった。
そして、就職戦線に突入したのだった。
10月1日から10日間くらい、各社の試験を受けに行く。
複数に応募したので、スケジュール管理は、むずかしかった。
結果的から先にいうと、行きたいと思った会社以外からは、全て内定をもらった。
つまり、関心のあった会社はすべて、不採用だった。
関心のあった会社とは、遊技機メーカー、競馬新聞、そしてNHKだった。
研究室推薦の2社は不幸にも内定がきた。不幸とは、教授が受けるだけで良い、と言ったから応募したのに、内定を辞退したら少し揉めた。いや、一社は大いに揉めた。
この大いに揉めた方の会社は今でもよく覚えているので、本題とは関係ないが少し余談として紹介する。
朝一番から試験を受けに行った。
教室が3つあって、試験の途中で面接を入れるという。試験の時間に制約はなく、面接が終わってからも、答案を書いても良いシステムだった。
小生がいた教室は20人くらいの応募者だった。試験は簡単で30分くらいで書いてしまった。
回りの人は、一通り面接に呼ばれたように思ったが、小生は中々呼ばれない。
2時間くらいが、経過した。
他の教室もあるし、小生の場合は「研究室枠」扱いかもしれず、最後の方かも。と思いながらも、とっくに試験問題は書いてしまって暇だ。試験会場に会社の人がいれば、聞いてみたいのだが、だれもいない。
少し心配になってきたのは、この日は昼から大手町の会社での面接が入っているので、もし午前中に終わらないと困る。
面接から戻って試験問題を書いていた人が、一人去り二人去り、誰もいなくなったときには、12時が迫っていた。大手町に1時半に行くには・・・と焦って、会社の1階にある受け付けに、思い切って行って、たずねた。
受付のお姉さんはびっくりして、どこかに内線で連絡し、すぐに面接会場に連れていってくれた。
そこでは、既に会社の人が20人くらい集って検討がおこなわれていた。
そして、なぜか20対1の面接がはじまった。
私を案内したお姉さんが常務と呼んだ人が、真ん中に座って主に小生に質問した。
他の19人は何かニヤケていた。理由はすぐに分かった。
「君は今まで、何をしていたのかね」
つまり、とっくに面接は終了しており、なんで君は遅いのか?との質問だった。
19人の中にはクスクス笑っている人もいた。
修羅場になると、時々フル回転する小生の頭だが、この時は「まともな答えをする連中ではない」との指示が出た。
「呼ばれなかったと、思うのですが・・・」と謙虚に答えたが、案の定、会社のミスを棚に上げた。
「遅いのが変だ。と、思わなかったのかね」と常務。
ほとんど恫喝調だった。
そして、さらに上から、たたみかけて言った。
「君は行動力がないのでは、ないのかね!」
小生は少し考えて、答えた。
「恐らく、あなたより、忍耐力があります」
クスクスとした小さな笑い声が消え、場が静まりかえった。
19人の中の一人が、小生のこの発言に、「君は不採用だ」と言ってくれたので、若干の気まずさはあったが、「失礼します」と言い残し、この会社をあとにした。
おかげで、午後からの大手町の面接に間に合った。
ところが数日後、この会社から何度も電話をもらった。さらに重役面接に来いという連絡だった。
スケジュールの都合もあったので、断っていたが、学校にまで電話があったようで、教授までも「あんなに、熱心に言ってくれるのだから、面接に行ってくれないか」と言い出す始末。
「前回、不採用になったはずですし、他の会社の試験もありますので、結構です」
と担当の方に言っても、「とにかく、面接に来てくれ」の一点張りだ。
「常務さんも、私の行動力の無さを問題にしたじゃないですか」
と言うと、困った担当者が
「その常務が、君を是非にも採用したいと言ってるんです」
少し気持ちが動いたが、小生にもプライドがあった。
ちなみに小生は、この会社のあと、午後から面接に行った中堅商社に就職した。
本題に戻る。
親が推薦したNHKの試験日が近づいていた。
10月中旬すでに内々定をもらっていた小生は気軽にNHKの試験を受けに行った。
試験会場は代々木だ。
試験の内容は一般教養と書いてある。
自信があった。
自慢になるが、1年生の時、押坂忍の「テレビクイズQ&Q」に出場した。
浜岡君が冗談のつもりで、小生の名前を書いて応募したのが、当った。
浜岡君と江藤君の2人だけが、TBSに応援についてきた。
最初の問題から20点を賭けて、3問目チャンスタイムで、また20点を賭けて、100点に達し、ミリオンステージに挑戦するという快挙に、浜岡君と江藤君は喜んでくれた。
又、テレビで見たクラスの連中が、小生を単なる不良学生ではないと、見直すことなった事件だった。
ちなみに、ミリオンステージは故あって惨敗した。
一般教養まかせなさい!
ところが、試験会場に到着すると皆が朝日新聞を読んでいる。
受験番号の近い人達と話をすると、一般教養の試験は政治、経済それもここ数年の新聞に取り上げたものらしい。
私の自信は、あまりにも呆気なく崩れた。
この4年間、新聞はスポーツ新聞と、寮にあった赤旗のテレビ欄と、競馬新聞しか読んでいない。
「これは、まずいことになった」と思ったが、しかし、試験自体はマークシートの四択だ。四分の一の確率で当たる。
「偶然4分の一が全て正解すると100点だな・・・」と、この場に及んでも、お気楽に考えることができる小生の能力は計り知れない。
教室に入ると、たまたま先程、雑談した時、自信があると言っていた慶応の学生が隣に座った。
「ラッキー!」
試験問題が配られた。
次のABCDの中に正しい記述が一つだけあります。正しい記号にチェックしなさい。
問題を読んだ。
どの問題もABCD正しいような、正しくないような・・・?
何とか判断つくものは、自分の考えで、まったく判断のつかない問題は、たまたま見えた隣の慶応ボーイを参考にして印をつけた。
しかし、自分で判断のつく問題は1割もなかったので、偶然だが慶応ボーイと、ほとんど同じ答となった。
元々、NHKの募集のほとんどが文科系であり、理系の募集人員は30人程度であった。そこに頭良さそうな学生が何百人も受けにきたのだ。
「こんなもん、受かるわけがない」
帰路、代々木から小金井までの電車の中では、
「一般紙も読まないとダメだな」
と反省した。
が、30分後、武蔵小金井のパチンコ屋にたどり着き、仲間とパティオでコーヒーを飲みながら、スポニチを睨みつけ、菊花賞の予想に熱中していた。
つづく
親ってものは、ありがたいものだ。と気付くのは、かなり年をとってからの様だ。
大学4年の、この年は忙しかった。
さかのぼると、辛うじて二年生に進級できた。
しかし、2年次は遊びすぎて、12単位しか取得できず、さすがにあせった。
我慢して学校に行き、実験も皆勤賞、テストはなりふり構わずの三年次は奇跡の108単位を叩き出した。
そして、その結果この年、小生の四年次は卒論だけが残った。
にも関わらず、忙しかったのだ。
三年次には、たくさんの人にお世話になった。
もちろん、小生の4年への進級に協力してくれた人達を指す。が、文字にはできない。
これらの協力者は、小生の人生において珍しく真面目な方々だった。この人達の人生に汚点があることを書いてしまったら、小生は確実に地獄行きであろう。
友人には2種類ある。
少し迷惑かけてもシャレで済ましてくれる人と、絶対に迷惑をかけてはいけない人だ。
三年次のストレスの反動もあってか、はたまた最後の学生生活が残り少なくなっていることの焦りがあったからか、遊べるだけ遊ぼうと決断したものの、あまりにも多くのことをやらなくてはいけない。
特に旅が多くなった。日本各地の友達の家がほとんどの宿泊先だ。
もちろんのことだが、最後の年なので、小生の田舎にも行きたいとの友達のリクエルトが殺到した。
クラブ、クラス、飲み仲間、ギャンブル仲間、それぞれの希望を聞いていると、小生自身が行きたい場所(友達宅にお世話になるのだが)に行けなくなる。小生は五島列島の民宿のニイちゃんではない。
八月初旬から20日までを小生の故郷である五島列島受付日として、帰省。
7月いっぱいと、8月下旬から9月上旬は日本国中の友達宅を巡った。
ほとんどが、学割切符の周遊券で鈍行列車の旅だ。
幸いにも、小生の学校には、いろいろな県の出身者が集っていた。さらに小生が住んだ学生寮の400人の住人は全員、地方の人だった。
この旅の為に、お金も必要だった。稼がなければならない。
そのような理由で、四年次はクラブは少し控えめにするつもりだったが、一年下の3年生の人数が少なかったこともあり、面倒を見なければならなかった。
そして、その忙しい合間にお金を作った。
学校には研究室の卒論の打ち合わせくらいしか行かなかった。
その卒論も、分析手法が似ていた隣りの研究室の野本君がほとんど作ってくれた。つまり資料自体は小生が役所に行ってもらってきたが、資料にあるデータをファコムのコンピューターのパンチカードに穴を明けて出してくれたものが、卒論の厚みの99%であり、その作業はすべて野本君がついでにやってくれたのだ。
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小生自身は、卒論の目的を前文に書き、「コンピュター分析という手法で、過去のデータを基に、未来を予測するのは、いかなる産業でも不可能である」と結語に書いただけだった。
コンピュータが、何に使えるかを模索していたこの時代に、先生方の期待を裏切った結論を、小生ただ一人だけ卒論にした。空気が読めない小生のプレゼンに、卒論発表会は、しらけたムードになってしまった。
小生のキャラクターとしては、「受け狙い」で皆が笑ってくれることを期待しての発表だったが、大久保君や江藤君がクスクスと一部で笑ったが、教授や講師は呆然としていたことが印象的だった。
時代が流れて、今となっては、その結論が正しかったことは証明されたが、大人げなく配慮に欠けたことは反省している。
しかし、野本君が出してくれた分析データはA3版の用紙にギッチリ500枚の大作で、そのボリュームに免じてか、Aがついた。
仕事がら、未だに必要になることのある理科系の学士様の免許皆伝の成績表の中で、数えるほどしかない「優」であった。
脱線したが、この様に学校には、ほとんど行かなくてよい年だった。だが、忙しかったのだ。
この当時、就職活動の解禁日は4年生の10月1日からだった。
従って、この日までに思い残すことのないようにしようと、強く思った。
研究室の関係もあって、小生は3年生の春休みを使って東芝のコンピュータ部門でアルバイトをした。
職場は若い人が大半だったが、ほとんどが名だたる学校を卒業したエリートだった。
当時は珍しい高層ビルにオフィスがあり、皆さん忙しそうだ。
勤務は8時半時から午後5時で、アルバイトの小生は5時になると、主任さんに断って帰る。
せっかくアルバイトしているので、社会人生活や就職活動についてなど親しくなった人に聞いてみたいが、皆さん帰る気配がない。
数日たった昼休み、たまたま定食を奢ってくれた社員の人に「皆さん、何時位まで仕事してるのですか?」と聞くと「今日のうちに帰りたいな」とポツリ。
隣りで、一緒に定食を喰べていた上智の理工学部を卒業の先輩が、小生の学校を聞き「君どこだったっけ?」
そして「会社の名前だけで就職を決めちゃだめだよ」とアドバイスをくれた。
確かに、小生の研究室の先生や先輩は研究室に求人が来るコンピュータのハードウェアの会社に就職することを勧めなかった。
ましてや、それらの会社より規模が劣るソフトウェアの会社は相手にもしなかった。(現実に我々の研究室からソフトウェアの会社に就職したのが3人いたが、成功しているのは、私の卒論を作ってくれた野本君ただ一人だ)
この時代、フォートランという言語がスタンダードだったが、次はコボルになると、ほぼ決定していた。
幕末期、次は英語が必要と分かっているのに、わざわざオランダ語を勉強している福沢諭吉や大村益次郎の心境だ。
上智の先輩は食事の後、東亜珈琲で冷コーをすすりながら、「俺たちは、忙しい中で次の言語を勉強しなければならない。そして、コボルも一過性になるだろうから、三十歳くらいで、使い物にならなくなって、これだよ」と、空手チョップ風に指先を尖らせた右手を自分の首すじに当てた。
「間違っても、こんな会社に就職しちゃダメだよ」
天下の東芝にして、こんなの状況か!
もちろん小生の成績では推薦さえ、してもらえないのだが、世間の厳しさを感じざるを得なかった。
因みに、コンピューター業界の将来は、この先輩が言った通りになった。
データをわざわざ、パンチカードに打ち込む必要などすぐになくなってしまった。
さらに、今では、小学生でもマウスのクリックで使えるパソコンになって、コマンドを打ち込んで動かしている人はいない。
つづく
さて、音楽のことである。
結論としては、小生のギターは活躍した。
4月中旬、軽音楽サークルの部室を訪ね、入部の打診をした。
中旬になってしまったのは、卓球部のスケジュールを見極め、音楽の練習日の目処を立てるのが、スムーズと判断したからだった。
軽音楽の部長と会った。
「あっ、ギター出来るんだ」「じゃぁ、フォークでギターが欲しいグループがあるから、頼むわ」と今日、練習しているというグループを紹介された。
小生が田舎から持ってきたのは、確かにフォークギターだが、将来はロックがやりたかった。
「出来ればビートルズかツェッペリンをやりたいのですが・・・」
と言ったが、どちらもバンドは定員だと言う。
もう少し様子を見てから、個別交渉するしかないか、と思いながら、ギターがいないというフォークグループと面談した。
女性ボーカルが2人、なぜかドラムの男が一人、そしてピアノが弾けると称する男が一人だった。
そのまま、練習に混ぜてもらった。練習曲は「赤い鳥」と「5つの赤い風船」だった。
ハーモニーもなかった。モノラルの2人が歌うのに下手なピアノが伴奏を付けていて、ドラムがうるさかった。
ため息が出たが、成り行き上、しょうがない。
楽譜があって、コードは符ってあったので、チューニングしてギターのコードストロークだけで合わせて、下のパートで適当にコーラスに入る。
このあたりの曲は高校の学園祭などで、女子のコーラスグループの伴奏的にギターでお手伝いした際の曲目だったので、一通りやったことがある。
ドラムがやけに、うるさく「翼をください」や「遠い世界に」のハモリも、ついつい声を張り上げてしまった。
練習が終わると一緒に食事でもするのかな。と思うと、それぞれが帰るらしい。また来週と分かれた。
翌週、小生は寮の隣の部屋の竹山君を、練習に連れていった。
竹山君とは入学早々に友達になった、ギター仲間だった。
小生が、「22歳の別れ」を弾いていたとき、隣の部屋から、「ポスターカラー」の歌声が聞こえてきた。古井戸だ。
部屋を覗いて、YAMAHAのフォークギターを抱えていた男が、竹山君だった。
自己紹介して、早速、空き部屋に2人で入って、かぐや姫の「アビイロードの街」をセッションした。
♪君は雨の中
♪♪ラランララー
♪ちょうど今日みたいな日だった。
いきなり、コーラスも絶妙。歌もギターも、うまかった。
出逢って2日後、新宿厚生年金小ホールであった「古井戸」のコンサートを2人で、見に行った。
当然、仲良くなった。
その竹山君を、このフォークグループに紹介した。
竹山君は案外、このグループが気に入ったらしい。
毎週欠かさず、練習に参加して、このグループの実質リーダーとなっていった。
小生が5月に部内のお披露目会を境にこのグループからフェードアウトしていったのは対照的だった。
結局、ビートルズやツェッペリンのグループに、入ることはできなかった。
案外、卓球部が忙しいことが判明し、その制約の中で、メンバーに入って練習を続けることは、迷惑をかけそうだったのだ。
だが、未練があったのだろうか。同じクラスの笹塚君がツエッペリングループでリードギターをやっていたので、時々遊びにいって勝手にセッションしていたが、ポジションはなかった。
しかし、ボーカルの高音の限界で諦めていたイミングラントソングを笹塚君はどうしても披露したかったようだ。小金井公会堂の定期演奏会の際、この一曲だけボーカル出演した。
記念出演となった一曲は、受けた。一瞬、ちやほやされた。
大学1年のころ、小生は♪ラまでの高音が出た。
余談だが、2年ほど経ったとき、笹塚君から再度ピンチヒッターを頼また。定期演奏会が厚生年金会館であるという。
もちろん、勇んで練習に行った。
ところが何故か、♪ミまでしか出ない。
イミングラントソングは、よーいドンの最初が一番、高音だ。
裏声も、かすれていた。
自分でも愕然としたが、バンドのメンバーは白けた。笹塚君に恥をかかせた。
当然、小生のピンチヒッターはボツになり、バンドのボーカルに合わせてコードを下げて対処した。
思いのほか、卓球部が楽しかった。居心地がよかった。
強い相手に負けても、その時は悔しいが、部全体にさほどの上昇志向がなかったのが丁度良かったのかもしれない。
繰り返すが、中学生の時に佐世保で買ったモーリスのギターは、大活躍した。
どうしても、モーリスが良かった。後々、考えるとバカな話だが、なにせオールナイトニッポンのコマーシャルで流れていた。
佐世保の楽器屋の人は、他のメーカーを勧めたが、その時はモーリスでないと友達に自慢できないと思っていた。
大学に入り、フェンダーのエレキとヤマハの12弦(フォーク)を友人から安く譲ってもらって、寮のイベントぐらいでは活躍したが、モーリスは気楽に、むき出しで旅のお供にも連れて行った。
卓球部は宴会好きだった。
旅が好きだった。
ついでに卓球も好きだった。
長谷さんや富岡さんは、親しい店の2階を借り切るなどして、たびたび宴会が行われた。
その都度、メンバーによってテーマが設定された。
60年代限定曲大会の日、一発ヒット限定大会の日、ビートルズ限定の日、グループサウンズ大会、アイドル大会など、様々だった。
曲の1番は皆良く覚えていた。
2番になると正確に歌える人は少なくなるが、サビの部分は大合唱だ。
カラオケなど、ない時代だ。せいぜい8トラックに演歌が入っていて、歌詞カードで1曲100円で歌わせるスナックが現れた時期だ。
小生は極力、歌本を持参した。中学生から買っていた明星の付録がこんなところで役に立つとは・・・
旅に出る時は富岡さんからギターを持ってくるように要請があった。
旅先の公園や浜辺は簡易のコンサート会場だった。
お客さんが少ない田舎のバスに乗ったときには、後部差席を占領しての大コーラス。
当初、小生は恥ずかしかったが、TPOに合っていたのか一度もクレームはなかった。
それどころか、近くの人が参加してドンちゃん騒ぎになることもしばしばだった。
しかたがないので、小生は明星の歌本の、どれをリクエストされても、一通りコードくらいは弾けるように練習した。
幸い、歌本に載っている昭和35年以降の曲の95%は知っていた。
戦後の歌でも有名どころは口ずさんだ。
ラッキーなことも時々あった。
夏の旅行で浜辺で車座になって、皆で歌っていると、夕涼みに現れたお嬢さんのグループが、よく飛び入り参加してくれた。
ギターを操る小生は当然モテた。
卓球からは足を洗い、音楽をやろうと決めて上京した小生だったが、このような顛末の学生生活となってしまった。
果たして、小村さんを恨むべきか、感謝すべきか・・・
おしまい
結果的には、その翌週から卓球部の練習に参加した。
小生の学校は関東学生リーグの5部(1部から6部まであった)の上位で、もう少し戦力が整うと4部でやっていけるくらいの実力だった。
小生は、理科系単科大学で関東学生リーグ5部の卓球部をなめていた。
ところが、富岡さんと沖田さんは高校の同級生で東京都のダブルスで優勝したことのある選手だった。他にも県大会で上位の人が何人かいた。
試合してみると、勝てない人がいる。
結構、上手い人がいるのに、何で5部なの?と不思議に思った。
理由は入部して1週間もすると理解できた。
練習に来ないのだ。
前キャプテンの小村さんと次に再会したのは、一ヵ月後の春のリーグ戦の会場だった。
ペコリと頭を下げる小生に、小村さんは「おー、お前か。期待してるぞ」と言っただけだった。
春は公式戦が多い。ところが、主力選手が試合に来なかったりして、ベストメンバーが組めないことも多かった。
チームの主力選手が化学実験があるとか必修科目があるとか、時にはバイトがサボれないとかいう理由で試合に来ないのだ。
そのような理由もあって、キャプテンは、必ず試合に来れる人が任命されていた。
少なくとも、関東学生リーグに名前が連ねてあることが最低限かつ重要なことなのだ。
思い返せば、あの人が来てれば、5部優勝、間違いないというリーグ戦が何度もあった。
これも、学業優先だから、しょうがないことだったかもしれない。
小生は入学式前に入部した経緯もあって、4月の公式戦から試合に出してもらった。これにはカラクリがある。
入学式前に主務の清原さんが、「お前、明日ひまだろう。代々木体育館行って、学連本部に書類を届けてきてくれ」と言われた。
「入学式前の私で大丈夫ですか?」と嫌がったが、先輩の命令だし、東京オリンピックの会場である体育館も見てみたかった。
「富岡さんが、お前も登録しとけって言うから、名前載せといたから」「それとリーグ戦の開会式も行ってきてな」と清原さんは言った。
詳細は関東学生連盟からの案内書に書いてあった。
リーグ戦の開会式は10時からとあった。
書類を届ける場所は岸記念体育会館だった。
翌日、中央線で新宿に出て、山の手線に乗り換えた。
原宿で降りて、駅員に体育館の場所を聞いて、明治神宮の入り口を右に見ながら渋谷方向の横断歩道橋を渡る。
まず、岸記念体育会館に書類提出。関東卓球学生リーグの受付で、「はい、ご苦労さま」と書類も見ずに受け取ってもらった。
入学前の小生の名前が一番下に書いてあって、ドキドキして損した。と思いながら、代々木第2体育館に向う。
入り口で学校の名前を言うと、「何部(ナンブ)?」と受付の人。
「5部ですが・・・」と小生が答えると、
「ああっ・・・観客席で見て参加してください」
この日は開会式に引き続き、専修大学対明治大学の開幕戦があると書いてあったので、この1部リーグの試合が、どんなものか見ておきたい。
開会式が始まった。1部の6チームと2部の12チームが入場した。
日本大学の高野を探したが・・・「いれば、でかいから分かるけどなぁ」日大の中には、それらしき選手はいなかった。
偉い人の挨拶などが済んだあと、コートに卓球台が一台あらわれ、試合が始まった。
そこで、初めて気がつく、観客席の半分以上の人が専修大学か明治大学の応援をしに来ていたのだった。
観客席前方は両校の応援部員で埋まっていたので、小生の席は卓球の観戦には遠すぎた。
「どうしよう。遠くて見えないな」と思いながら、とりあえずトイレに行こうと階段を上った。
代々木第2体育館はすり鉢状になっていて、トイレとか売店が観客席の後ろ側の通路にあった。
その通路に、ジャージ姿の学生が横一列に整列していた。
「何だろう」と30人ほどの列の前を横切ってトイレへ向う。
ジャージには慶応と印刷されていた。
先シーズンの秋まで1部であった慶応大学は入れ替え戦で大正大学に負けて、この春、2部に落ちていた。ということを、関東学連の冊子を中央線の中で読んで、つい先ほど知ったばかりだった。
「慶応って、2部なのか」と思いつつトイレへ。
トイレから戻ろうとした小生は、同じルートで観客席に戻れなかった。
小生が歩いてきたルートには、慶応の先輩と思われる5名ほどが、直立不動の学生と向かい合わせになって通路をふさいでいた。
困った小生は、少し離れた場所から観察した。
OBと思われる貫禄のある人がしゃべり始めた。
一語一句を覚えている訳ではないが、主旨はこうだ。
「長い慶応の歴史に君たちは泥を塗った。先輩たちに申し訳ない。これも君達の気合と根性が足りないからだ。死ぬ気で練習して、絶対に秋には1部に昇格し早稲田に勝たなければならない」
話は延々と続いた。
選手の前に立ったOBが順番に訓示した。2人目が同じ様なことを言って、3人目も似たような話と判明したころ、観客席への入り口を反対方向に見つけて、自分の席に戻った。
「良かった・・・ 慶応に行かなくて・・・」
間違えても、慶応の卓球部にいる訳もないが、つぶやいた。
私の知っている限りでは、この後、慶応が1部に昇格することはなかった。
2週間後、当校も春のリーグ戦が始まった。
初戦の相手は成蹊大学だった。対戦校5校の中で一番強いという前評判で、いきなり事実上の優勝決定戦だった。
この日のベストメンバーと思われる3年性、4年生のチーム編成で試合に出場した。
ところが、接戦だったが、負けてしまった。
7戦までもつれ込んだが、選手の粒が揃っていた成蹊は、7番目の選手もレベルが落ちなかった。
「昇格が早々になくなった」と判断した先輩たちが、応援に来ていたOBたちと昼間から宴会に行ってしまったので、小生たちにも出番が回ってきた。
成蹊大学以外はあまり強くなかった。
試合形式は6単1複(シングルス6人とダブルス1組)だ。
小生も5番手か6番手という気楽な順番に起用してもらい、全勝した。
相手のレベルが低いので当然だが・・・
2日間のリーグ戦の最終成績は4勝1敗だった。
もちろん、5戦全勝の成蹊大学が入れ替え戦に向うこととなった。
全勝した小生は、単純に調子に乗る性格だった。
「成蹊戦の初戦のエースと自分が対戦すれば優勝したはず」だと・・・
その2週間後、東京都国公立戦が学芸大で開催された。一回戦は外語大に快勝し、2回戦で東大と対戦した。この大会はベストに近いメンバー構成で挑んでいた。
東大には、勝ったことがないという。長い歴史、一度も勝った事がないらしい。
ところが、この試合は勝てそうになった。
東大側の有力選手が揃ってないのだ。
7試合があり、4試合先取した時点で勝敗が決まる。
なぜか東大はエースの望月選手が7番目に登録してあるが、準エースクラスのエントリーがなく、通常レギラーでない選手が前半戦に登録している。
こちらの実力をなめて、3回戦以降が行われる午後からレギラーは来るのかもしれない。
試合は拮抗した。3対2で東大がリードしていたが、6番手は小生が相手を圧倒していた。3対3に持ち込めそうだ。
ところが、いやに相手の試合のペースが遅い。
なにかにつけて、東大サイドのベンチに帰り、相談をしている。
「全然、試合進まないんですけど・・・?」小生は自分のベンチに言った。
久保さんが、ニヤニヤしながら言った。
「望月が到着してないんだよ」「東大、慌ててるな」
小生がこの試合に勝つと3対3となる。
次の試合、当校は長谷さんで、東大は望月選手なのだが、望月選手が学芸大学に到着していないようで、小生の相手が試合を引き伸ばしているようなのだ。
つまり、小生がこの試合を勝って、その時点で東大の7番目の選手が出場できないと当校が不戦勝となる。
当校にとっては、又とない快挙だ。
意味を理解した小生は「早くしてください!」
天地がひっくり返っても学業では勝てない東大の選手に卓球台に付くように督促した。
相手は4年生だったが、1ポイントごとにベンチに帰り、タオルで汗を拭く。
小生は入学したばかりの1年坊だが、「何やってるんですか?早く台について!」
文字通り、ここぞとばかりに、上から目線で督促した。
東京大学というタイトルを持つ人が、卑屈に小生に謝る姿を見た、人生で唯一の光景であった。
実に残念なことだが、その後の小生の人生が、この手の人たちに頭を下げ続けることになったのは、皮肉なことである。
試合の終わりが近づいたころ、やっと急に相手がベンチに行かなくなった。
望月選手が到着したのだった。
7番目のファイナルの試合は、あっさりケリがついた。
東大の望月選手は、1部リーグの選手に引けを取らない実力の持ち主だった。
長谷さんは見せ場を見せることが出来ず、あっさり敗退した。
翌日、東京大学と東京教育大学(現筑波大学)の決勝戦を観戦した。
負けはしたものの、東大は教育大に善戦した。
東大は昨日のメンバーとは、がらりとレギラーが入れ替わっていて、私が対戦した4年生など出場する余地もなかった。
個人戦では、望月選手が教育大のエースに競り勝ち、優勝した。
所詮、われわれ規模の学校の運動部が、全国から強い学生を入れて本格的に運営している学校に勝てるはずがない。
ましては、当校は理科系の単科大学であり、絶対的人数も少なく、当然ながら学業優先で、練習はもとより、試合すら来れない人も多かった。
言ってみれば、練習や試合にフルに参加できる人は学業をおろそかにしていた。
しかしなぜか、小生にとっては、この学校の卓球部は居心地が良かった。
そもそも学業優先で大学に来た訳でもなかった。
もちろん落第は、したくないが、成績優秀で卒業する必要など微塵も感じていなかった。
偶然が重なったにせよ、折角、都会に出てきたのだから、学校以外にも、なにかあるのでは、との期待が大きかった。
卓球部の先輩は個性が強いが、頭のいい親切な人ばかりだった。
私の人生の方向は、この4年間の卓球部の中で決まっていった。
つづく