卓球については、高校3年のとき、たまたま大きな大会に出る機会があった。
一回戦は弱い選手だったので、完勝したが、2回戦は第一シードの選手と試合した。(要するにシード下だった)
田舎では敵なしの小生は、うぬぼれだけは強かった。
根拠もなく、本気でやれば自分が一番強いと信じていた。遠征して、もし負けても、敗因を強引に見つけ、あの時こうすれば勝っていたはずと自分の実力不足を認めなかった。
第一シードの選手との試合が始まった。第一シードということは、高校生では一番強い選手だ。相手に不足はない。
柳川高校の高野、後に日本大学に進学し1年生からエースで全日本の上位の常連となる選手だった。
およそ卓球をやる体格ではない。ラグビーのフォワードとか柔道の大きな選手が、シェイクハンドのラケットを握って仁王立ちして、卓球台の向こうで、肩をいからせているかのようだった。
「まるで熊だな」と思ったが、相手との距離がある場合、小生はビビらない。
これが、柔道の試合なら既にチビッていたかも知れないが、なにせ卓球は台を挟んで対峙する。
小生の経験では、卓球はデカイやつほど見掛け倒しが多かった。
体の大きな人は、型が決まれば、強いドライブやスマッシュをきめるが、卓球はその状況を作りあげるまでが勝負なのだ。
県の個人戦では、デカイ選手でフォアハンドドライブが強い各学校のエース級との対戦が多かった。
しかし、彼らのバックに回り込んだ渾身のドライブは、ことごとく小生が繰り出すペンホルダーのショートの餌食となった。
フォアサイドにナチュラルに曲がっていくショートが決まると、決まって相手のドライブの調子はくるった。
第一シードとはいえ、相手はドライブ主戦だ。
小生が今まで、ほとんど負けたことのない戦型なのである。
じゃんけんに勝ったので、サーブを選択した。
相手は「このままでいい」と自分のコートをラケットで軽く叩いた。
小生のサーブで試合が始まった。バックハンドの下切りサーブ、最大の回転を加えた。
小さくコート中央に弾んだボールを相手はフォアハンドではらった。ボールはネットに掛かった。
「よし!」と叫んで、こぶしを握った小生。
「案外、下手かもしれない」と思った。
通常、下回転のボールは、突っつきで返すのが常識だ。試合序盤なのだ。
2本目は小生が得意としている膝つきサーブを出した。相手から見ると、回転の方向が分かりにくい特徴がある。これもコートの中央に小さく弾んだ。わざと無回転にした。
相手は先ほどと同じようにフォアハンドのラケットを振り上げた。回転を意識しすぎたのか、ドライブがかかり過ぎて、ボールはコートをはるかにオーバーしてコートフェンスも越えて隣のコートまで飛んでいった。
「よーし!」
3本目は投げ上げのフォアハンドで、サイドカットを相手のバックに食い込ませた。相手は素早く回りこんで、フォアハンドでドライブを繰り出すも、これも小生のサーブは上回転を加えており、コートをオーバーした。
「よっしゃー!」
3ポイント連取だ。「勝てそうだ」
4本目は同じ投げ上げサーブに下回転を加えて、もっと深い角度に食い込ませた。
相手はこれも回り込んで、ドライブ。小生のフォアサイドに決まった。
小生は手を伸ばしたが、とどかなかった。
相手は軽く、ラケットを振りながら「よし」と言った。
想定内だ。相手は第一シードなのだ。
しかし、5本目に得意の膝つきで、渾身の下回転を加えたサーブを、相手が台上ドライブを見事に決めてから、小生の記憶はあまりない。
「よーっ!」という相手の声だけが、耳に残った。
試合の結果は1セット目が21対6、2セット目が21対3だった。
もちろん、小生が負けた。完敗だった。
こんな負け方は、初めてだった。
しかし不思議と屈辱とは、感じなかった。
あまりにも実力が違いすぎていた。
サバサバした気持ちだった。
高野選手は小生のサーブの回転をほとんど読んでドライブかスマッシュを決めだした。
高野選手のサーブの時は、ほとんどが単純な下回転だったが、小生がツッツキで返すと、豪快なドライブが小生のコートに突き刺さった。ラケットになんとか当てて返しても、次のスマッシュはさらに強烈だった。
試合が終了しコートを挟んで、礼を相手と審判にしながら「熊が卓球すんなよ!」とつぶやいていた。
大会会場から出て、蝉の声がうるさい7月のかげろうに揺れる青い空を見上げて「これで卓球がやめられる・・・」と決心した。
月海で、もずく酢をさかなに、月山の枡酒を飲みながら、小生の高校時代の話を聞いた富岡さんは「お前、高野とやったのか!」と大げさに、驚いてくれた。
高野選手はこの年、前評判どおりインターハイと国体で優勝し、高校生ながら出場した全日本選手権でも、ベスト16まで進出した超高校級の選手となっていたので有名だった。
普段だったら、「もう少しで勝ってたんですけどね」などと見栄を張る小生だが、このときは謙虚に言った。
「全然、勝てる気しませんでした」「高野は日大に行ったようです」
「明治じゃなかったんだ」と富岡さん。
日本大学は関東学連の1部だが、明治、早稲田、専修のほうが強かった。
小生は高野選手との対戦で、卓球は燃え尽きたので、大学では音楽に生きると言った。
「じゃあ、今度、ヘッドパワーに行こう、ギターも歌も結構うまい奴が出てるぜ。フォークだけだけど」「お前も音楽は音楽で、やればいいんだよ」と、富岡さんも、音楽は大好きだと言った。
「でも、卓球もやればいいんだよ」と、いかにも体育会には、あり得ないことも言った。
(ヘッドパワーというのは、新宿にある深夜営業のライブハウスのことだが、この話はいつかの日か・・・)
「えっー!そんなにいい加減でいいんですか?」
つづく
昭和50年の4月上旬、府中キャンパスの体育館の前の階段で満開の桜を見ていた。
木漏れ日が暖かく、時おり吹く風に花びらが舞った。
確かに2時と言われた。と、昨日の夜を思い出していた。
「新入生の○○君、面会人です」と館内放送があった。
入寮したものの、部屋が決まっておらず、寮委員の稲森さんの部屋で2泊した。
やっと部屋を割り当てられて、3棟の304号室で前寮長の北村さん(4年生)のとなりのベッドに西友で買ってきたカーテンを取り付けていた。
「今の君じゃないの?」と北村さんが言って、自分の名前がアナウンスされていることに気がついた。
私が戸惑っていると、「玄関にだれか来てるんだよ」と教えてくれた。
小生がこの学校に行くと決断したのは、つい5日ほど前のことで、親戚や友達に住む場所を知らせていない。
親が東京の親戚に知らせたのかな?などと考えながら、玄関に急ぐ。
夕方の6時くらいだったろうか。
まだ玄関の電気はついておらず、暗く閑散としていた。
だれもいない?・・・いや、ひとりいた。玄関の赤電話の前の椅子に黒い服を着た人が後ろ向きに座っていた。
知らない人だった。戸惑って立ちすくむ小生にその男が振り向きながら立ち上がった。
「お前が○○か・・・?」「4年の小村だ」「大木から聞いたよ。明日、農学部体育館で2時から練習な!」
大男だった。一方的にしゃべり、玄関から出て行った。
威圧感があり、小生は「はぁ・・・」としか答えられなかった。
大木という名前は聞き覚えがあった。
昨日、稲森さんの部屋であった人だ。稲森さんと同級生らしい大木さんは、赤い半そでシャツと短パンの卓球のユニフォーム姿でシェイクハンドのラケットを握って部屋に現れたのだった。
モーリスのギターを抱えて、田舎から上京した新入生に、寮委員の稲森さんは親切だった。
「田舎はどこで、なんという名前の高校なのか」とか、「高校時代は何をしていたのか」とか色々と聞いてくれた。
「卓球やってたんですが、大学ではギターをやるつもりです」「ビートルズやりたいです」と小生はフォークギターのDコードを指で押さえ、Here Comes The Sun のイントロを引いた。
(ちなみに写真は、ジョージハリソン)
「音楽なら軽音楽かな。卓球部なら、同級生がいるよ」と稲森さん。
「卓球は、もういいです。散々やりましたから」と小生が答えたにも関わらず、稲森さんが、わざわざ呼んで、来てくれたのが、大木さんだった。
「いま、そこの工学部の体育館で合宿やってんだ。来る?」部屋に来るなり、大木さんは言った。
小生はびっくりしたが、「いや、卓球部には入るつもりはないんです。それにウエアーも持ってませんし・・・」
「そう・・・」と大木さんは帰っていった。
その次の日の出来事が、小村さんという大男の出現だった。
なんか恐そうな人だった。
普段は虚勢を張っているが、実際のところ小心者の小生は、次の日の1時過ぎに電車とバスを乗り継いで、農学部の体育館にたどり着いたのだった。
体育館は閉まっていた。
「少し、早すぎた・・・」「2時まで待とう・・・」
桜の花びらが、ヒラヒラと落ちている。
2時を過ぎた・・・が、誰も来ない。
「ひょっとして、場所がちがうのかな?」と思い、体育館と並びの生協に行って、「農学部の体育館ってここだけですか?」と確認するも、間違いなくここにしかないという。
「3時の間違いだったのかもしれない・・・」
体育館の前の階段に座って桜を眺めるしかなかった。
2時40分を回った頃だった。
誰かが小走りで走ってきた。サンダル履きだ。
「おうー、悪い悪い、今日練習ないんだ!」
あとで知ったことだったが、このサンダル履きの人は3年生の岡部さんで、卓球部の現キャプテン、そして、昨日現れた小村さんは4年生で、前キャプテンだった。
岡部さんは、生協方向に小生を導き、自動販売機の前で、「オレンジで、いいか?」と100円のジュースを差し出して言った。
「お前、マージャンやる?今から葵でマージャンなんだ」
10分後、小生は府中刑務所の横の小さな商店街にある雀荘「葵」で岡部さんと岡部さんの同級生で、卓を囲っていた。
「富岡さんが遅れてくるから、助かったよ」と、小生が面子に加わって、ちょうど4名になったことを岡部さんは言った。
富岡さんが、到着しないまま半チャン5回くらいやった。
いきなり知らない大学生と卓を囲んだことと、東京では食いタンであがれるという小生が経験したことのない「アリアリ」というルールだったので、緊張した。
富岡さんが到着したときには、すっかり暗くなっていた。
小生は少し負けていたと思うが、「いいよ、いいよ」と雀荘代も払ってもらい、皆で国分寺に、ご飯を食べに行くことになった。
北口の「月海」に入った。
富岡さんの行き着けの店だった。
山形の月山という原酒がおいしいらしい。
小生は、酔っ払って、今回の経緯を説明した。
富岡さんは笑いながら「それは、ひどい目にあったなぁ」「小村さんは、いっつもそうなんだよ」と小生と小村さんの出会いのことを言った。
今日、農学部で練習があると思っていたのは、小村さんだけで、小村さんは前キャプテンにも関わらず、この手の勘違いが多い人だと言う。
少し打ち解けた小生は「なんか、恐そうな人だったので・・・」とつい本音を言って、ついでに「卓球は高校で限界を感じましたので、大学ではギターをやろうかと思ってます」と打ち明けた。
つづく
その後、小生のレコードコレクションは充実していった。
秋葉でオーレックスのカセットデッキ最新モデル(Dolby Surround付き)も買った。これで、いい音をカセットで聞ける。
なぜか、ダイヤモンドの景品コーナーのレコードが充実していた。新譜が早々に並ぶ。アルバムもたくさんあった。
ビートルズもこの際アルバムを揃えた。
フォークもかなり充実した。
歌謡曲も衝動で景品交換した。
放送禁止となっていた「竹田の子守唄」も手に入れた。(ちなみに、このB面に小生が助太刀した女性主体の軽音グループの練習曲「翼をください」があった)
イルカ漁を問題にして、来日コンサートをドタキャンしたオリビア・ニュートンジョン。
はやりだった ジャニスイアン。
実家で揃えられなかった拓郎もほとんど入手。
荒井由美もコバルトアワーまでの3枚のアルバムも早かった。
中島みゆきも早期にそろった。
ABBAは、「木枯らしの少女」のビヨン・アンド・ベニーにそれぞれの嫁を加えてできたグループと聞き、関心なし。
オフコースは軟弱そうで、いらない。
もちろん、イーグルスは揃えた。
・・・・・・・・・・・・
いや、小生のレコードコレクションの話ではなかった。
「青春の坂道」に戻す。
無事、2年に進級した。当時の小生の学校は2年進級時と4年に進級時に関門があった。必修単位と累計単位が足りないと留年する。
しかし、2年から3年には自然にあがった。つまり、2年次に単位が0であっても、3年で2年分取れれば4年になれる。
真面目な貧乏学生の中には、このシステムを利用して、2年に進級した1年をアルバイトに費やして、3年分の学資を稼ぐという涙ぐましい努力した人もいた。
小生はこのシステムを逆利用した。「この1年は思いっきり遊ぼう」
そんな訳で、「一年間、学校には行かない」「雀荘で会おう」と同級生に宣言し(正確にいうと学校内の寮に住んでいるので、毎日夜はいるのだが・・・)アルバイトとクラブと遊びに専念した。
ちなみに、このことにより小生の3年次はひどいことになる。
国立大の理科系はあまくない。3年次のことは時効で実に面白い話だが、教育上よろしくなく、しばらく書くことは出来ない。
恐らく最高に楽しい実話であるが、残念だ。
暫らく、クラブ活動以外の学校生活に別れを告げ、この時期にしか出来ないことをやった。
さすがに、前期のテストシーズンになって、学校へ行った。(テストだけで、単位を付けてくれる先生もいた)
クラスの連中に「おう!久しぶり」
「あれー!?」と小生の姿を見て、皆が驚く。「ちょっと、会ってないだけで、大げさだな」と小生。
「逮捕されたんじゃないのか?」と誰かがいう。
「???何のこと?」だろう・・・
だれかが、説明してくれた。
少し前に、三鷹の岡田奈々さんのマンションに暴漢が押し入り、暴漢のナイフで岡田奈々さんが、大怪我をした。
その犯人が、小生であり、逮捕されたということになっているらしい。
確かに、そのような事件を起こした者が、ニコニコして、「おう、久しぶり」って現れれば、びっくりするのも当然だろう。
「えー!なんなんだよー?」
「だれが、そんなこと言ってたんだ?」との問いかけに、はっきりした返事をする奴はいない。
こんなことを、いい加減に言いそうな連中ひとりひとりに、それぞれ聞いて分析するに、
何ヶ月も前に大久保君と江藤君から、岡田奈々のロケに遭遇したことを聞いたこと。
すぐに、小生がステレオを買ってきて、岡田奈々の「青春の坂道」も持っていたこと。
それから暫らくして、小生が学校に来なくなったこと。
岡田奈々さんが、隣町の三鷹で暴漢に襲われたこと。
どうも、それだけの材料で、小生は暴漢で、逮捕されたことになってしまっていた。
クラスに(理科系には珍しく)4名在籍していた女子も「○○君、最低」という目で小生を見る。視線がグサッと刺さる。
『うわさ』欠席裁判は恐ろしい。
少しづつ誤解であることを訴えて、犯人でもなく、逮捕もされていないと周知されるのに、数ヶ月を要した。
小生自身は岡田奈々さんの事件を、パティオでモーニング食べながら、サンスポで見ていたので、確かに心を痛めた。犯人が憎かった。
しかし、小生がサンスポで見た情報では、岡田奈々さんのマンションの場所は三田(ミタ)であり、決して三鷹(ミタカ)ではない。
この30Kmの距離は大きい。なぜかというと、三鷹なら自転車で行けるので、確かに真実味が増すが、三田は慶応の入学試験のときしか行ったことがない。
しかし、芸能人が三鷹に住むか・・・?
この当時の情報など、このように実にいい加減だった。
以上のような、苦い思い出とともに「青春の坂道」は忘れられない曲だ。
作詞 松本隆 (はっぴいえんど の元メンバー)
作曲 森田公一(トップギャランのリーダー)
編曲 瀬尾一三(拓郎、かぐや姫、中島みゆき等を手がけるプロデューサー)
今になって見ると、たいへんなメンバーだ。
「青春の坂道」
By 岡田奈々
♪淋しくなると訪ねる 坂道の古本屋、
立ち読みをする君に 会える気がして
心がシュンとした日は 昔なら君がいて
おどけては冗談で笑わせてくれた
青春は長い坂を登るようです
誰でも息を切らし一人立ち止まる
そんな時 君の手の優しさに包まれて
気持ちよく泣けたなら幸せでしょうね♪
この時点から、松本隆はすでに天才だった。
いまだに、そらで歌える小生の青春ナンバーである。
完
その日の吉祥寺は小雨まじりだった。
結果的に、本拠地は吉祥寺に移動しなかった。正確にいうと、本拠地は小金井のままであった。 小生の通学定期の都合もあったが、小島さんのアパートは府中新町で、交通の便は圧倒的に国分寺か小金井が便利だった。それより何より、小島さんが小金井のダイヤモンドとの相性が戻った。
その日は、クラスが一緒の大久保君と江藤君が一緒だった。
この面子はパチンコではないので、何をしに行ったのだろうか・・・
寒かった。
近鉄デパートの最上階のレストランブースに讃岐うどんの店があり、うまい。
うどんをすすり、安いジャンパーを買ってサンロードに向かう。
12時前のサンロードは少し活気が出てきている。
「この前はこのあたりを中村雅俊が走ってたんだ」と小生が自慢。
二人は「ふーん」とさほど関心ない。伊勢丹の角を曲がろうとした時、伊勢丹とは反対側に人だかりが・・・
現場はタバコ屋さんの前だった。皆、傘をさしていて、よく分からないが、カメラクルーがいる。「またロケか?中村雅俊なら、少し背が高いなぁ」と思うが、見つからない。
暫く見ていると、通りに止まっていたワゴン車の中から女の人が、赤い傘をさして出てきた。
そして、タバコ屋の赤電話の受話器を持って振り返った。
少し離れていたが、ある事情で最近めがねを新調したばかりの小生の視線の先にはっきり捉えた。「岡田奈々だ!」と声に出したのは、私ではない。
東京の親戚宅の“いとこ(女)“の同級生(堀越高校)に岩崎宏美がいて、最近、その、いとこ宅で、岩崎宏美まじえてトランプをして遊んだ。と自慢した江藤君が小さく叫んだ。
俺たちの旅は、カースケ(中村雅俊)、オメダ(田中健)、グズ六(秋野大作)の3名を中心に展開する青春ドラマだが、オメダの妹役で岡田奈々が出ていた。
この日はオメダ(田中健)に公衆電話から電話をかけるシーンだった。
「お兄ちゃん・・・・」「・・・・・」としか聞こえなかった。
しかし、妹を故郷に2人残して都会の荒波を生きる小生には十分の出来事だった。
しばらくして、監督がOKを出し撮影は終わったようだ。
ロケ慣れしている小生は(前回の一回だけだが)、大久保君と江藤君が“ぼぉー”と見ている前で、近くのスタッフに「これ、いつ放送?」と聞いた。
翌日の小金井北口のダイヤモンドは気合十分だった。
景品コーナーに、岡田奈々の「青春の坂道」があった。
いわゆるシングル盤で、高校生でもレコード屋で小遣いで買えるのだが、それだけの事情ではなかった。
小生はステレオを持っていなかったのである。(見栄をはるが、故郷にはVictorがあった)
そのうち好きなメーカーのコンポを揃える計画であるが、秋葉原に行く度に、欲しいコンポの値段が上がっていく。値上がりするのではなく、欲しいバージョンが変わっていくのである。
スピーカーはダイヤトーンで我慢するか・・・アンプはパイオニアか山水じゃないとな・・・でも、チューナーはトリオかなぁ・・・プレイヤーはテクニクスでいいか・・・などと考えているが、欲しいスピーカーを買う金もない。
正月には帰省も、しなければならない。
帰省を諦めることも考えたが、山陰の本田さんの実家に泊めてもらう約束もある。
さらに、「イカが目当てなら、冬場に来たほうが、美味しくて大量に食えるよ」という小生の言葉を信じて、冬休みに行かせてくれと、小寺君と西口君が小生の実家に来る予約もあった。
小寺君と西口君はこの冬休み、確かに船に乗ってやって来たが、その際、今でも大笑いとなる事件を起こす。しかし、これは本題ではない。
話をもどす。
「青春の坂道」は買えばいいが、かけるステレオがなかった。
この日も快調に午前中に一台止めて、2台目の最初の追加(500個ごとに、玉が台に新たに供給されること)で食事中の札を台に立てかけて、ポークジンジャーランチを食べにいった。小島さんに事情を説明すると、「そもそも、寮にステレオ置けるのか?」などと、まったく相談にならない。
食事が終わり、長崎屋の電気コーナーへ行った。この手の店はメーカーのセットのステレオが置いてある。今のようなミニコンポではないが、その昔の家具調の時代は過ぎており、若干コンパクトだ。
「これでいいじゃん」と7万円くらいのナショナルを小島さんが指す。カセットこそ付いてないが、レコードは聴ける。
「えぇー!ナショナルですか?」
このころ、日本のメーカーはオーディオのブランド名を戦略的に分け始めていた。
三菱はダイヤトーン、松下はテクニクス、東芝はオーレックス、日立はローディーなど、なんか高級感があり、音がよさそうな気がした。
これらを、いいところ取りをしてオーディオを組むことが、カッコいいとされた。小生も少しは自慢できるセットにしたかった。でも、金がない。
いくつか見ていると、ソニーのセットにスピーカーが4個ついている。
「これは・・・4チャンネル」
憧れの4チャンネルだった。
この仕組みは前に左右2つのスピーカーを置き、さらに後ろにも左右2つのスピーカーを置くと、さらに臨場感が増す。という触れ込みで有名であったが、実際見たのはオーディオ喫茶など、専門的にやっているところで、プロ仕様と思われるものであった。
見ると、12万円という値札であった。「でも、全部ソニーじゃなぁ・・・」
この日は練習日でなかったので、恐らく木曜だったのだろう。通常であれば、3時か4時で切り上げ体育館にいくのだが、6時くらいまで、パチンコ屋で粘った。まずまずの戦果だ。
小島さんとマージャンしに行く前にもう一度、長崎屋へ。
電気売り場は閑散としていた。
「青春の坂道」のシングル盤はしっかり景品交換、あとは両替した。
何かの時にと、定期入れに常時入れている3万円も含め9万円が手元にあった。
一応、7万9800円のナショナルをもう一度、念のため(買う気はない)しかし、念のため、もう一度見ておこうということであった。
男の店員が暇そうに接客した。
「これって、安くなる」と小島さんが店員に聞く。
「小島さん、買わないですよ」と小生。
「安くなりますよ」と店員。
1万円くらい値引いてもいいらしい。
へぇー、デパート(スーパーかもしれないが)って、値引きするんだ、と
思わず私も聞いた「あっちのソニーもまけてくれる?」
「いいですよ」と店員。やはり、1万円くらいは出来るという。
「でも、9万しかないんだ」と小生。
店員は意外なことを言った
「いいですよ」
斯くして、ソニーの4チャンネルは小生の部屋に運びこまれた。最初にプレイヤーのテーブルに乗ったのは、「青春の坂道」ではなかった。
こういう、イベント事は学生寮内での情報が早く、知らない人まで、集まってステレオを設置した。
最後に4個のスピーカーの置き場所を確保し、配線が終わると、普段あまり会話もしたことのない物理学科の谷川さんが、「呪われた夜」をテーブルに乗せた。
(谷川さんは現在、某国立大学の教授だ)
あのリンダ・ロンシュタットのバックバンドの「イーグルス」か・・・と、中学一年になるとき、フジヨットの学生服を買うと、万年筆かラジオをもらえるという時に迷わずラジオを選択し、この年からオールナイト日本を聞いた小生は少しバカにした。
「おっ!このLP売れてるらしいね」と同室の北村もと寮長が言う。
小生は以前も“はっぴいえんど”を岡林のバックバンドだ。と発言し、「キャラメルママ」という名前のグループの(のちのティンパンアレー)ファンから叱られ、あげくの果てには、“はっぴいえんど”解散後それぞれのメンバーが大活躍して、はじめて反省するなど、先入観にとらわれやすい性格だ。
EaglesのLPレコードがテーブルの上で回りはじめた。プレイヤーに最初から付いているカートリッジは何故か、パイオニアだった。
のちに名盤となるアルバムが、小生が長崎屋で12万円を9万円にまけてもらったソニーの4チャンネルで響きはじめた。「青春の坂道でなくて良かった」と、思うのに5分もかからなかった。
歌詞カードを見ながら、3人ほどの先輩がふんふんと小声で歌っている。5曲目か6曲目が、Take It To The Limit だ。グリークラブの大森さんの声が大きくなり、他の2名も、それにつられる。谷川さんも歌詞を暗記しているのか、Take It To The Limitの大合唱となった。
「青春の坂道」でなくてよかった。
「9万円にしちゃ~、割といい音でるじゃん」「最初はこんなんで、いいんだよ」とか言いながら、オーディオマニアたちが部屋を出ていった。
だれもいなくなったので、そんなことをする必要はないのだが、小生はヘッドホンをステレオに差し込み、「青春の坂道」を聞いた。
ちなみに、ホテルカルフォルニアはこの翌年だ。
つづく
小金井界隈のパチンコ屋が新装開店したが、新しくなった機種が渋く、小遣い稼ぎに苦労し始めた。
昭和50年の夏は、忙しかった。学生最初の夏休みということもあり、スケジュール満載だった。
先輩や同級生たちが、入れ替わり立ち代り、小生の田舎に遊びに来るという。イカを沢山食べたいという。その接客もあるのに、「つま恋」が中途半端な時期にあった。
今では、伝説となってしまった「つま恋ライブ」吉田拓郎の全盛期のイベントに、松岡君が誘ってくれて、軽音の連中も何人か行くという。気合をいれて、前売り券を買ってしまった。
そこで、夏休み前半に小生の故郷に行きたい人は、私がいない時期(8月上旬まで)は勝手に行ってもらい、小生の両親が面倒をみた。
この話は、今、思い起こしても、相当面白いが、残念ながら今回は「つま恋」や「小生の故郷」の話ではない。
「つま恋」さえなければ、神戸開催の全国国公立大会にも参加できたのに、と贅沢な気分の充実した夏が終わったころの話だ。
パチンコで、小遣い稼ぎに苦労し始めたのは、小生ではなく、小島さんだった。「明日、吉祥寺にしようぜ」と北口のダイヤモンドで打ち止め寸前の小生に、うしろから声をかけた一年上の先輩だった。
小島さんは、新装開店後不調で、古い機械が残っている吉祥寺のツバメパチンコに行きたいという。
確かに、天は渋く玉が引っかかるが、妙にぶっこみからの距離と角度があっている新台で、一台目を20分、二台目は11時半には止めて、3台目を午後2時ごろ終了しそうな絶好調の小生に対してであるので、やっかみとも取れなくもないが、吉祥寺には行きたかった。
いとこの姉ちゃんが、久我山に住んでいて、「吉祥寺いいよ」と聞いており、クラスの友達で吉祥寺に住んでいる数人がやたら自慢をする。
実は2~3回行ったことはあるのだが、何が良いのか分からなかった。分からないのは少し悔しい。
パチンコ店の開店前に我々はモーニングサービスを食べる。田舎から出てきた小生はコーヒーの値段で、パンとかサンドイッチがついているこのシステムにいたく感動した。
吉祥寺の北口のコロンビアに9時に入店し、スポーツ新聞を見る。「神戸新聞杯、トウショウボーイ、クライムカイザーで、これは堅いね、テッパンだ」とか、いいながら、あっという間に、モーニングを食べ終わった。
「やっぱり、9時集合は少し早かったですね」なんていいながら、北口サンロードに出た。当時の吉祥寺は人気が出始めたとは言うものの、10時にお店が開き始め、11時くらいから活気がでてくる。
9時半ごろのサンロードは、ガラガラだった。が、100メートルくらい奥のほうに何か人だかりが・・・「何だろう?」と伊勢丹方向に進む。西友の前あたりに20人くらいの人ごみが・・・人ごみの後ろから、覗いてみると、伊勢丹方向から、カンカンカンと下駄を鳴らしながら走ってくる男が見える。人ごみの前まで、走ってきて、「はあ、はあ~」と息づかいが荒い。大柄な男だった。一瞬、横顔が見えた。「中村雅俊だ!」
昨年、“ふれあい“がヒットした歌手だ。個人的には好きな歌ではなかったが、高校の卒業アルバムに、男女で手をつなぎフォークダンスを踊る同級生の写真の解説に「ふれあい」と解説文が添えてあり、「女子に人気があるんだ」と了解していた。
よく見ると、大きなテレビカメラをかついでいる人や大きなマイクを竿の先につけたものを立てかけている人など、10人くらいいる。
それに、10人くらいの見物人が立っていた。
「もう一回」、と監督らしき人が言うと、中村雅俊さんは伊勢丹の角の信号付近まで、歩いていく、よく見るを北側の通り付近にも野次馬が何人か見物している。
「よーい、スタート」と声が上がると、中村さんは又「かっかっかっー」という派手な音を鳴らしながら、顔をカメラにむけ、前のめりに走ってきた。
OK!と監督が言って、この撮影は終わったようだ。
「次は公園」とか怒鳴っていたスタッフらしい人に、「これって、何ですか」と小生。
「10月から、日曜日の8時にあるから見てね。4だよ。4チャン」
「おぉ~、テレビか!」「中村雅俊って走るんだ」と、今風にロケという言葉をしらない小生はびっくりした。
ツバメパチンコの10時の開店に、少し遅刻したが小生はたまたま、いい台に在りつき、午前中には打ち止め。小島さんもまずまずの成果だった。
昼ごはんを食べて、シャノアールでコーヒーゼリーを食べながら、「小島さん、テレビ持ってます」と聞くと「お前持ってないのか?」
当時、小生は学校の寮に住んでいたが、ほとんどの人はテレビを持っていなかった。
食堂に20インチほどの共有のテレビはあったが、1年坊の小生が、チャンネルの選択権はない。
その晩、寮に帰って、いつも入り浸っている4年生の先輩の本田さんの部屋に行った。すると、ベッドの淵に赤いテレビがあるではないか!
「本田さん、これどうしたんですか?」と聞くと、「ああ!これな、さっき水沼が持ってきたんだ」
本田さんによると、水沼がもうすぐ入寮するので、先に預かって欲しいと、置いてったという。
小生は早速、今日の吉祥寺での出来事を報告し、もうすぐ、この番組が始まることを説明した。
10月の最初の日曜日、「俺たちの旅」は始まった。
期待を裏切らない内容だった。
小椋桂が作った曲をオープニングとエンディングに中村雅俊が歌い、エンディングのおしまいのシーンには、「じん」とくる言葉がテロップでタイミングよく入る。
小生が見たシーンはなかなか出てこなかったが、一月後くらいの放送に登場し、自慢した。
番組はちょうど一年くらい放送したが、小生の感性にちょうどよかった。
エンディングの小椋桂の詩に「伝言板の左の隅に、今日もまた一つ忘れ物をしたと、誰にともなく書く」
など、現実にはこのようなキザなことはないが、駅の伝言版は、時間がきっちりしていない人と待ち合わせる時には、必要なツールだった。よく「先に行きます」とか「パティオでレイコー飲んでます」とか「駅前パチンコ100番台付近」などと書いたが、伝言板の上部とか右端とか、おおむね書く場所を決めていた。
携帯電話などなく、アパートに電話さえ置いていない仲間が多かった時代、学校に来ないやつに会うのは至難の業で、小生は次回を出来るだけきっちり約束する性格だったが、
「又会う約束などすることもなく、それじゃ、またな、と別れるときの、お前がいい」などと、さりげなく言われると、そうかそれでいいんだ、と救われた。
「真っ白な陶磁器を眺めてはあきもせず」とか井上揚水と歌ったり、「ぼくは呼びかけはしない」とか訳の分からん奴の歌が、ヒットしてるな、なんで?と思っていた小生であったが、この番組以降「小椋桂は出た時からすごいと思ってたんだ」と友達に吹聴した。
現にその後も勧銀の銀行員を続けながら、一方歌のヒットメーカーで、美空ひばりの愛燦燦なども名曲だ。「天は二物を与えた」典型である。
しかし、さらに後日、再び吉祥寺でロケを目撃しまう。
そしてそれが奇妙な事件につながっていこうとは・・・
つづく