Miraのblog

小説はじめました

勝負馬券物語2

2024-05-01 16:34:59 | 勝負馬券物語

 

 すでに、パドックでは第3レース出走の馬が、巡回を始めていた。
 
 鹿毛と競馬新聞には書いているが、トウショウボーイは、少し黒っぽい印象だ。
馬券は買うと決めているので、見る必要はないのだが、なにせ大きな投資をする馬に会っておきたい。
 まあ、見たからといって、何も分からないのだが・・・
 
リズムよく、歩いているように見える。
何か、やさしい目をしている。
 
  「これは走る」「に、ちがいない」と、トウショウボーイだけを見た小生は、他の馬を見ることもなく、特券売り場に向った。

 あとで知ったことだが、このレースには、この年の菊花賞馬となるグリーグラスや、後にミスターシービーを産むシービークイーンも出走していた。

 ミスターシービーは1983年の3冠馬となるが、父は言わずと知れたトウショウボーイだ。
 このレースのパドックを最初から見ておきながら、トウショウボーイしか見ずして、馬券を買いに走ったという事件は小生の人生の3大失態の一つに数えられるが、これも初心者のなせる業とお許しいただきたい。
 
 ともかく特券売り場に走った。
 初めての特券売り場だが、馬券を売っているおばちゃんに、初めてだと見えてしまったらなめられる。
 右手に競馬ブック、右耳に赤鉛筆をはさんだ小生は、売り場の鉄格子を左手の指で引っ掛けて、売り場のおばちゃんを斜に見ながら、
「3レース、トウショウボーイの単勝、特券で・・・」と言った。
 自分では、パドックからの道すがら何度も、呟きながらシュミレーションしてきた言葉だった。
 スムーズに言えた。と思った。
 
ところが、おばちゃんは小生が予想もしない質問を返した。
 「何枚ですか?」
 
一瞬、何を聞かれたのか戸惑った。
 もちろん、十分ありうる想定問答だが、当時の小生は特券(1000円券)を複数枚買うという可能性があることついて、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。
 
 動揺した小生は、うかつにも「1枚ね」とは答えなかった。
見栄をはってしまった。

「ああ、サッ、3枚、チョ、ちょうだい」
 少し声が上ずって、ドモッてしまった。
 
 1月下旬の東京はジャンバーを着ていても寒い。
しかし、体が熱くなって、首筋から汗がでた。
 
東京の芝1600mのコースは中央高速道路の下、向こう流しからスタートする。

ゴール盤前で、松本さんと安部さんと再会し、レースを観戦した。

 トウショウボーイは先行した。
欅の向こうにさしかかり、2馬身ほど先行している。
 ゴール盤前にいるので、残念ながら4コーナーはよく見えない。東京コースは最後に上り坂があるので、角度の関係で、見づらいのだ。
 各馬が横に広がって、坂を上ってきた。
内ラチに沿ってトウショウボーイが最初に見えた。

 美しい走りだった。
 他の馬は首を上げて、必死に走っているように見えるが、トウショウボーイは首を上げないで走る。

 「そのままー」と松本さんが叫んでいる。
 小生は息を呑んで、見つめていた。

外から来る馬はトウショウボーイに迫ることは出来なかった。
 
1着でゴールイン。
圧勝だった。
 
 松本さんと、両替所に並んだとき、トウショウボーイの単勝馬券に3000円投資していたことを話した。
 これには、松本さんもびっくりし「よく思い切ったなぁ」とあきれるやら、感心するやらだったが、おばちゃんの質問に動揺して、購入金額が増えたことは、隠した。
 
 9000円が払い戻され、初めての高額配当に、手が震えた。
 
 この日は好調だった。
トウショウボーイで増やした6000円を財布の別ポケットに温存したまま、午後からのレースも少しずつ当てた。
 メインレースこそ外したが、最終レースの際、洒落で買った8-8のぞろ目の馬券が的中し、今月の負けを全部取り返した。

 当然、タクシーに3人で乗り込み、小金井へ向った。
 小生が予定していた千成亭ではなかったが、安部さんなじみの居酒屋で、寄せ鍋を食べた。
しめの雑炊が、いやに美味しかった。
 
 2月下旬、3月下旬のレースも圧勝したトウショウボーイは、関東馬の代表格として、皐月賞の出走権を得た。
 
 皐月賞は、クラシックレースの第一弾で、ダービー、菊花賞と合わせて4歳牡馬が目指す最高峰のレースだ。
 
 2月、3月のトウショウボーイのレースでは、おいしい馬券を取り続けた小生はすっかり、この馬にかぶれていた。
 
 皐月賞が近づくと、新聞が盛り上がってくる。
 
ところが、日刊競馬やサンスポはトウショウボーイが強いと書いているにも関わらず、報知新聞やスポニチはテンポイントという馬が強いと書いている。

 テンポイントは関西から来た怪物と言う評価で、東京4歳ステークスで優勝したレースを実際に見た。
勝つには勝ったが、半馬身差の辛勝で、新聞でいうほど強い印象はなかった。
 新聞によると、テンポントは中山で先日あったスプリングステークスでも優勝したものの、2着馬とは首差だった。
 
 余談ではあるが、小生がテンポイントについても関心があったのには、理由があった。それは、残念ながら強いとか、速いとかいう理由ではない。
 1月に見た東京4歳ステークス(トキノミノル記念、現在の共同通信杯)では、奇妙なことがあったのだ。
 このレースは、出走前のパドックの柵に、テンポイントと書いた横断幕が、ひろげられた。

 「馬を応援する横断幕・・・・?」
 
 当然のことだが、このような横断幕がのちに流行することを予想していない小生は、「馬は字が読めないのに・・・」と笑った。
 確かに、誰かが横断幕をわざわざ作って出すほど、熱心なファンがいるんだと、印象深かった。
 
 しかし、テンポイントと比べれば、わが「トウショウボーイ」は常に圧勝だった。

「これ見よがしの、テンポイントとやらに負けるわけがない」
と思った。
 
 
皐月賞が近づいた。
 
 つづく


勝負馬券物語1

2024-05-01 16:26:22 | 勝負馬券物語

 「ええっ!洋ちゃんが乗る?」
武蔵小金井北口の喫茶店パティオで、モーニングサービスを食べていた小生はスポニチの競馬欄を見て、少し大きな声をだした。
 隣で新聞を覗きこんだ松本さんも「ほー!」と関心ありげな様子。
 
 この8ヶ月前の(昭和51年)1月、マージャン仲間の松本さん、安部さんとで、東京競馬場に通い始めた。
 
 数年前、小生が高校生だったころ、ハイセイコーブームがあった。
NHKで放送されたハイセイコーを田舎の実家のテレビで見ていたが、まさか自分が競馬場(それも東京の)に行くことは想像してはいなかった。
 ところが、たまたま自分が入学する大学が東京の府中市にあり、そこに東京競馬場があるという。
 ちなみに入学した大学は理科系の小規模な単科大学なので、学校案内に特筆すべき項目が極めて少なかったが、唯一スポーツ系で馬術部の全国レベルでの活躍をうたっていた。
 後に聞いた話だが、この学校の獣医学科から、競馬会に就職する獣医がいるとのこと。そのツテで、競走馬としては引退したものの跳躍力の優秀な馬を優先的に分けてもらえるらしい。
その結果も手伝って、馬術部は強いのだということだった。
  
 田舎から、せっかく東京に来たし、競馬も経験したかった。
入学早々、物見遊山で友達数人と府中駅から歩いて競馬場に行ってみた。
しかし、かってが分からず、どうやったら馬券が買えるのかも分からない。
 友達の中には「学生は馬券を買っちゃいけない」と、ひたすら主張するビビリ野郎がいたりして、数レース見ただけで帰ってきてしまった。

 この年は、2年前のハイセイコーブームが、うそのように観客は少なかった。
この昭和50年はあのカブラヤオーが無敗でダービーを制覇した年だった。それなのに、小生の初めての競馬場体験時に、正しく競馬に導いてくれる先輩と行かず、ビビリ野郎と行ってしまったことは、実に残念なことであった。
 このような訳で、昭和50年は競馬とは無縁の生活だったので、カブラヤオーもテスコガビーも生では見ていない。
 
 この年が明け、正月帰省から東京に戻ってマージャン室を覗いた小生に「明日、競馬行こうよ」と声をかけてくれたのが、松本さんだった。
 
 小金井からは中央線で西国分寺に行き武蔵野線に乗り換え、2駅目の府中本町から歩くと数分で東京競馬場だ。
 松本さんと安部さんは、マージャン仲間なので、気心が分かっていた。
二人とも実にさっぱりした性格で後腐れがない。
何より頭が良かった。小生より一つ年長だが、あまり遠慮なく会話ができた。

 小生は、競馬は馬が走るので、予測するのは困難であると認識していた。
現に、競馬新聞を買って予測して馬券を買っても、さっぱり当たらず、お金が増えるイメージがない。
 数千円の軍資金を使い果たして(帰りの電車賃だけは確保して)帰ることが続いた。
 
 ところが、松本さんは勝負強かった。
小生が、まったく予測もしなかった馬がよく的中した。
 
 松本さんは勝つとタクシーで帰ると言い出す。とは言え、軍資金が乏しい貧乏学生が勝ったと言っても、せいぜい数千円のことで、その男気が、かっこよかった。
 
 1月の下旬、新馬戦にトウショウボーイという馬が登場した。
小生が競馬にのめり込んでいく「きっかけ」を作った馬だ。
 
3週連続で負け続けて、今日も松本さん達と競馬場に来てしまった。
 
 しかし、今日は小生なりに作戦があった。
 
松本さんの勝ちパターンを冷静に見ていると、連勝複式馬券より単勝馬券もしくは複勝馬券で貯金している。
 小生はこれまで、単勝や複勝は倍率が低いので、利益の効率が悪いと思いこんでいた。
 11PMで、大橋巨泉さんが、3点買いで「ウッシッシ!」と言っていたので、競馬って、連勝複式馬券を買うものと思い込んでいたのだ。
 しかし、どうも現実には巨泉さんより、松本さんの買い方のほうが、正しいのではとの疑いを持ってきたのだ。
 
 そう、小生の場合、惜しい馬券が多かった。よく、1着―3着で外れる。
 
1着は当てているのに、2着に予想していない馬がくる。
その結果、当たらない。
 
 そこで、硬そうな単勝を買ってみようとしていた矢先、今日の新馬戦に各競馬予想紙が、ほとんど2重丸をつけている馬を発見したのだ。
 昨日、武蔵小金井のキヨスクで、競馬ブックを買った。
おばちゃんが嫌な顔をしているのを無視して、全ての専門紙を広げて見て確認したから間違いない。
 
「トウショウボーイ」
 
 なにか、名前からして、強そうだ。
サラ4歳新馬戦 芝1600m のレースだ。

しかし、何でこの時期に新馬戦なのだろう?
 
 多くの競争馬は3歳の夏以降にデビューする。(当時の馬齢は生まれた時を1歳としていて数え年なので3歳だが、現在は生まれた時は0歳と変わったので、デビュー年齢は2歳となっている)
 つまり、3歳時には競馬をしていないのだ。

「まあ、そんなことは、どうでも良い」
とにかく、今日は馬券を買うパターンを変えて、何としてでも、勝って帰る決意だ。
 そして出来れば、松本さんと安部さんをタクシーに乗せて小金井に帰り、千成亭でニラ肉炒め定食に餃子を付けてビールで乾杯したい。
 実は3週連続で、松本さんと安部さんに奢ってもらっており、今週こそは自分が勝って、ご馳走したい。
 
 トウショウボーイの単勝のオッズは、3倍だった。
新聞の解説欄を見ると、調教タイムが抜群にいいとある。しかし、レースで走っていないのに、調教タイムだけで、判断できるのだろうか・・・少し不安。
 
 今日は気合を入れて、5000円の軍資金を用意した。
 
 ちなみに、小生の先週までの馬券の買い方は、1日のレースの数で軍資金を割った金額が、1レースに投資する目安だ。
 具体的には、3000円持って競馬場に行って10レース買うとすると、1レース平均は300円となる。
 しかしながら、200円の連勝複式馬券を大橋巨泉の11PMの予想通りに3点買いすると、600円が最低必要となる。
 従って、3点買いすると、予算オーバーだ。
 だったら6000円を持っていけばよいのだが、当時の貧乏学生の感覚として、普通のアルバイト先の日給が3000円という時代、日給より高い軍資金は考えにくいという事情もあった。
 又、買うレースの数を減らせばよいのではとの意見もあるだろう。しかし、競馬場に1レースから行って、ただ見ているのは切ない。
 
 もっとも、巨泉さんの必勝法の3点買い(3頭の馬を予測し、三つ巴に連勝複式馬券を買って、予想馬3頭のうち2頭が1着、2着すると馬券が当たるという考え方)で序盤から当たる場合もあるので、その配当で軍資金が増えれば理想だ。そうなれば競馬は楽しいし、最終レースまで、遊べる理屈となる。
 ただし、現実は理想通りにはいかなかった。
これまでの3週間はメインレース前に軍資金が尽きてしまい、結果、両名に晩御飯までお世話になり、肩身の狭い思いをした。
 
 昨日は考えに考えた。
そして、このトウショウボーイという馬の単勝を買うと決意した。

オッズは3倍、特券を買えば2000円儲かる計算だ。
 
しかし、特券は買ったことがなかった。
 
 特券とは1000円馬券のことで、特券の売り場は常に空いていた。
先日、松本さんが、200円券の売り場が混雑して、締め切りのベルが鳴り出したとき、慌てて特券売り場に駆け込んで買った複勝馬券がみごとに4倍を付けて、びっくりした。
 ちなみに、当時は200円券と1000円券しかなく、売り場が分かれていた。

 松本さんはこの時、複勝馬券を400円買うつもりだったようだ。
しかし混雑で締め切られることを恐れて、やむなく特券売り場で買ったが、この時はあくまで、非常事態の臨時措置だった。
 買った馬が2着に入り、当たったから良かったが、来なかったら1000円を捨てたことになる。
 
 通常、あの売り場で買う人は、よほどの金持ちなのだろう。
 
 清水の舞台から飛び降りるくらいの思いで、トウショウボーイの単勝を1000円買うことを決意して、競馬場に着いた。
 
 トウショウボーイのレースは3レースなので、1レースと2レースは200円券を少し買ってお茶を濁し過ごした。
 第2レースを見るために、馬券売り場から、馬場へ移動した3人だったが、小生は一刻も早くトウショウボーイを見たかった。
 2人に断り、第2レースを見ることなく、小生はパドックへ向った。
 
 小生の単独行動に、松本さんと安部さんは不思議そうだったが、第3レースの前には、ゴール盤の前で会う約束をした。
 
つづく


マルゼンスキー

2024-05-01 16:22:03 | 競馬

田舎のNHKの放送でハイセイコーを見た。
高校生だった小生は何で馬がこれほど騒がれるのか、まったく分からなかった。
後に、この馬に騎乗していた増沢騎手が「さらばハイセイコー」という歌まで出して、大ヒットしたのは、小生の大学受験シーズンだった。
九州のどこかの大学行って、その後、良くて公務員にでもなって、ひょっとすると東京タワーを一度も見ない一生かもと覚悟していたが、幸か不幸か東京の大学に進学することになってしまった。
 
 その大久保利通が創設したという学校は府中にあった。
 
学校の農学部に獣医学科とかあり、馬術が強いという。後に知ったことだが、馬術は人の技術の要素が大きいというものの、やはり馬の素質も重要のようで、文字通り人馬一体の競技で、競馬界にコネが強いと素質馬がまわしてもらえるらしい。
 
 その府中に東京競馬場があった。
 当初は単なる興味本位で、先輩に連れて行ってもらった。
 たまたま偶然であるが、この年はスターになる馬の当り年だった。すなわち、トウショウボーイやテンポイントの3歳(当時の馬齢では4歳)だった。
 2年前にハイセイコー人気で第一次競馬ブームと呼ばれた余韻が覚めやらぬ時期であったが、数年後有名になる関西の杉本アナウンサーの客観的とは言いづらい実況も、テンポントからだ。
 この偶然は小生の数少ない自慢である。なにしろ、これらの名馬を生で見ていたのだから・・・
 そして、その翌年、すごい外車を見てしまった。マルゼンスキーだ。
橋本聖子さんの父親の橋本善吉氏の持ち込み馬(受胎した母馬を外国から買ってきて、日本で生まれた馬)だが、日本で種付けした馬以外は、外国産馬の扱いであった。
 橋本善吉氏の物語は長くなるので、いつか別途、書こうと思っている。
 
マルゼンスキーは強すぎた。
 
昭和51年、日本がオイルショックから立ち直りかけようとしていた年、小生はよく競馬場に通った。(通った事情は後述したい・・・いや、しないかもしれない・・・)
 中山で、2レース連続で大差で勝った外車が東京で走るという。ちょうど、学園祭の翌週、寒くなる時期だった。
 府中3歳ステークス(現在は2歳、当時は馬は数え年で、生まれたときは1歳だった。現在は生まれた翌年の正月からすべての馬が1歳になる)肌寒く、雨交じりだった記憶がある。
 このレースには、ヒシスピードという強い馬がいて、外車がどんなレースをするのか。
中山で実物を見てきたマニアックなファンが、その怪物ぶりを解説していた。
「先行して、そのまま行ったきりで、他の馬ははるか後ろを走っていたよ」とのこと。
そんな、馬とロバの競争みたいな話はないだろう、と思いながらも、正直、そんな馬も見てみたい。
 鞍上は中野渡騎手、関東では郷原、岡部、加賀などのリーディング争いとは無縁のジョッキーだった。マルゼンスキー以前ではオークスで一度勝利しているが、あとは、有名なタケシバオーに乗っていたことがある程度。
 
 あいにくの、重馬場であった。トラックの向こう流しから1600mのレースがスタートした。
なぜか、マルゼンスキーは先行しなかった。「中野渡は何を考えてんだ? 重なら当然先行だろう」と、競馬歴1年の小生は生意気にも思った。
 最後の直線でやっと先頭に立つものの、あと100mほどでヒシスピードに差される。粘って差し返したが、どちらが勝ったか分からない。写真判定に場内がどよめいた。
 結果は、ハナ差でマルゼンスキーが勝った。
 
「何だ、大した事ないな」と正直思った。
2週間が経過し、東京開催が終わり、12月から中山競馬場に移った。
当時、小生は上野で、進学塾のアルバイトをしていた。サンスポ片手に上野に行く電車のなかで、次の中山開催の朝日杯3歳ステークスにマルゼンスキーと惜敗したヒシスピードが出ることを発見した。
 中山は船橋出身の先輩と一度行ったことがあるが、わざわざ行こうという気が起きないほど遠い。
 しかし、今回は気になった。←(掛けことばになっております)
前回の府中のレースのあと、競馬と虫にやたら詳しい大先輩の山尾さんと卓球のあとの飲み会で話をしていた。
小生が「府中で見ましたが、マルゼンスキー大したことないですね」との投げかけに、山尾さんは、熱く語りだしたのだ。
 マルゼンスキーの父親のニジンスキーがいかにすごいか。
母親のシルの父のバックパサーの種牡馬としての優秀さ。などの血統論から始まり、中山のデビュー戦を見た印象。
橋本善吉は本来、牛専門で馬は素人であること。
中野渡の騎乗がいかに下手か。
中野渡は余計なことはしないで、とにかくマルゼンスキーにしがみついていれば、いいんだ。等々
 
 要するに、お前がマルゼンスキーを語るのは10年速いと説教された。
 そして、結論的には、2400mまでなら、現在の日本では無敵だと言う。
 
山尾さんに説教された自分が何もしらなかったことを思い知らされたが、一般的な競馬ファンはそんなことを知った上で馬券は買っていない。ケイシュウニュースの大川慶次郎さんの印を参考に、いや、そのまんま買っているだけなのだ。
 
 しかし、そのようなこともあって、気になった。
 「えぇー、中山」と嫌がる野沢君を無理に誘い、中山に行った。
新聞の印はマルゼンスキー、ヒシスピードがほぼ互角。小生は勝負のときは、単勝買いが多かったが、今回は予想がつかず、この2頭の連勝複式馬券を握りしめた。
 12月上旬だが、それほど寒くなく快晴。良馬場であった。
 
中山の1600mがスタートした。マルゼンスキーは先行した。鞍上は山尾さんに“下手くそ”と言われた中野渡、そういう先入観で見ると心配になる。なにかマルゼンスキーにしがみついているようにも見える。
 一方、ヒシスピードの鞍上は売り出し中の小島太(のちに地元府中のサクラの馬に乗って活躍する騎手だ)
 3コーナーで5馬身ほど、マルゼンスキーがリード。このあと、ヒシスピードが追い込むのか。
 小島が追う。しかし、縮まらない。
 4コーナーで小島の鞭が派手にあがる。中野渡は持ったままだ。
さらに、リードが広がり、マルゼンスキーがゴールした。
大差であった。専門的には10馬身以上を大差という。
 
あまりにも、強かった。前回はハナ差だったのに・・・
場内は、唖然としていた。
確かに騎手はただ乗っていただけに見えた。
 
レコードタイムだった。この朝日杯のレコードが更新されるのは、平成と年号が変わった1990年のリンドシェーバーを待たなければならない。
 
冒頭で説明したが、マルゼンスキーは外車だった。日本で生まれたが、外国産馬である以上、出走制限があった。
 この時代は国産馬を育てる目的で、クラシックレース(皐月賞、ダービー、菊花賞、天皇賞など)に外国産馬は出場できなかった。
 朝日杯を見てしまった小生は、すっかりマルゼンスキーにかぶれてしまっていた。
 外車がクラシックに出ちゃいけないことを当然とは思っていたが、こればかりは理不尽と感じた。マルゼンスキーは日本で生まれたのだ。
 特に、この年の4歳は不作だった。
昨年のトウショウボーイ、テンポイントを見ているだけに、スター不在であった。
 
 5月上旬に東京に帰ってきて、オープンレースに楽勝し、デビュー以来の負けなしの6連勝をかざったマルゼンスキー。
 ダービーが近づいたころ、武蔵小金井駅前の”パティオ”でモーニングを食べながら広げたスポーツ紙に、中野渡騎手がマルゼンスキーについてコメントしていた。
「28頭立ての大外枠でもいい。賞金なんか貰わなくていい。他の馬の邪魔もしない。マルゼンスキーに日本ダービーを走らせてくれ」
 不覚にも報知新聞に涙がポタポタ落ちた。
 
夏競馬前の最後の重賞のラジオ短波賞に、マルゼンスキーが出るらしい。さらにトウショウボーイもこのレースに出走予定だという。
 これは世紀のビッグ対決だ!
このレースをどうしても見たい。
競馬仲間みんなで行こうと約束していたのに、直前にトウショウボーイがレース回避して、半年前と同じ野沢君だけが、付いてきた。
「みんな、ミーハーだな」トウショウボーイという有名馬が出ないだけで、マルゼンスキーを見なくていいなんて、「本当の競馬ファンじゃないよな~」と野沢君と愚痴をいいながら、中山に向かった。
 
 結果は大差勝ちだった。
 しかし、レース内容は競馬を語るに相応しいネタを提供してくれた。(ちなみに、小生は、このレースをその後、何度語ったことか・・・)
 
 中山の1800mはスタンド正面からスタートする内回りコース。いつものように、先行して2番手以下の馬をどんどん引き離していく。向こう正面では10馬身以上の悠々としたレース中野渡は持ったままだった。
私はマルゼンスキーだけを見ていた。3コーナーに差し掛かったあたりで、急にマルゼンスキーが止まってしまった。
 故障!発生か? もともと、脚部不安のある馬でこの年の初旬も少し休んでいた。
みるみる間に後続馬との差がつまった。4コーナーで他の馬に並ばれた。
初めて負けるのか・・・と覚悟した。
 中野渡の鞭が高く上がった。
直線の300mだけで、マルゼンスキーは7馬身ちぎった。
 
 2着には、この秋に菊花賞馬になるプレストウコウ。
 
中野渡は、「返し馬の時4コーナーの荒れた馬場を見る為に一度止まったことを馬が覚えていて、こうなった」と言い訳したが、明らかに騎乗ミスだった。コーナーを少しゆるく走ろうとした騎手が抑えたことで、マルゼンスキーがゴールと間違えたのが真相だろう。
 少なくとも、小生はそう確信している。
 
マルゼンスキーのおかげで、秋の競馬は、ついていた。
菊花賞はプレストウコウから買って、ばっちり高配当だった。
 
そして、いよいよ、年末のグランプリレース有馬記念が近づいた。
マルゼンスキーが出られる数少ないビッグレース、いや日本一を決めるレースだった。
中野渡が負傷して、天下の加賀武見騎手が乗るという。
往きも遠いが、復りはさらに遠い中山競馬場に絶対行こうと決めた。もちろん、有馬記念は初めてだ。
 有馬記念直前の12月中旬、突然、「マルゼンスキー出走取り消し、引退か」という東スポの見出しをキヨスクで発見。
 脚部不安が出て、回避とのこと。
 がっかりした。中山はやめた。
 
この年の有馬記念は新宿で見ていた。なぜ、新宿だったのか理由は覚えていない。
レースは去年のチャンピオン馬トウショウボーイが武邦彦(武豊のお父さん)を鞍上に先行し、これについていった鹿戸明のテンポイントのマッチレースとなった。
 テンポイントが昨年の雪辱を晴らし、ゴール前でトウショウボーイをかわし、優勝した。
小生はこの1-3の一点勝負馬券を握りしめて、しっかり取ったが、さほどの喜びはなかった。
 テンポイントはこの後、海外遠征をめざし、その実質的な壮行レースで悲劇がおきるが、これは別の機会に・・・
 
年が明けて、マルゼンスキーは種牡馬となった。
初年度の子供のホリスキーが菊花賞を勝利し、面目を保った。
ちなみに、大川さんも私もホリスキーを本命に推した(笑)
 
数年後、サクラチヨノオーがダービーを勝利し、子供が念願をかなえた。
ちなみに、サクラチヨノオーの鞍上はヒシスピードで何度もマルゼンスキーに負けた小島太騎手だった。
 
残念なのは、日本にはこのころ、ノーザンテーストというダントツのリーディングサイヤーが存在し、いい母馬はノーザンテーストを付けたがった。
 マルゼンスキーの父親のニジンスキーの評価が上がったのは、少しあとのことであった。
 
マルゼンスキーは一度も負けなかった。そして圧倒的に勝った。
 
 その後、強い馬をたくさん見てきたが、これほどの鮮烈な印象を持てた馬はいない。
 
おしまい


天才騎手

2024-05-01 16:04:21 | 競馬

 30年以上も前の話ですが、マリージョーイという牝馬がいました。
馬の調教師が結婚する際に懇意にしていた馬主がお祝いにマリッジとジョイ組み合わせてつけた名前でした。
父はあのトウショーボーイも排出したテスコボーイ(プリンスリーギフト系)、母の父はダイハードという良血。
残念ながら2歳時にデビューできず、年明けの1月21日、中京で初出走、勝利を飾った。2月の特別レースも勝利し、クラッシク路線に期待がかかった。
ところが、’70年からリーディングを9年連続、天才を欲しいままにしていた福永洋一(写真)を鞍上に迎えた2月24日の条件戦でまさかの惨敗。
クラシック路線をあきらめきれない次のレースは中1週の毎日杯であった。
毎日杯のレースは中段から追い込む作戦の天才福永だったが、4コーナーで前の馬が落馬しそれに巻き込まれた。
マリージョーイは前方で落馬した旗手につまずき転倒、福永は馬上から大きく放り出され、頭部を強打、脳挫傷を負い、再起不能となったことは有名な話です。
名前の由来とは程遠い結末でした。
 
現在では、レースローテーションがこんなに過密になることはありえないが、当時はままあることでした。しかし特別レースを勝った時点で、毎日杯も出走できたので、返す返すも残念な事故でした。
前年の’78年の新年、あの有名なテンポイントが(5歳の最後のレース暮れの有馬記念でライバル、トウショーボーイを負かし)この年海外遠征に行くとのビッグニュース、壮行レースとなった日経新春杯なんと66.5Kgの斤量に馬主は躊躇したものの、調教師がファンの期待を裏切れないと出走に踏み切った。そして、骨折。テンポイントについては、又の機会に詳細を書くつもりだが、関西のファン(の期待)に殺されたと今でも思っている。
 一年あまりの間に起こった、これら2つの事故はその後、良い馬ほど、斤量、ローテーションを考えて無理をさせない体質が生まれた要因となった。
 マリージョーイは生涯で5勝したが、なぜかすべて中京競馬場での勝利であった。
 引退し、母になってもさほど活躍する馬は出せなかった。
 
 そして今年’2011年、’79年の事故の2年前に生まれた天才の長男 福永祐一がリーディングを快走している。