3月11日は忘れませんが、月日の速さに驚きます。
3月11日午後2時に私は仙台に居ました。
当時はサラリーマン現役で転勤先の本社(東京)勤め、住居は横浜にアパートを借りていました。
当日会議出張で仙台支社で会議中でした。
会議始まって直ぐにグラグラと大きな揺れが長時間続きました。
ビルは10階建てでしたが、直ちに退去命令がでて近くの公園まで徒歩で階段をおりて1時間くらい避難しました。
揺れが収まりビルに戻ると仕事どころではない様子でした。
事務所は直ぐに閉鎖し、全員帰宅指示しまし、私は仙台駅に急ぎました。
途中のビル歩道には壁面がれきが至るところに落ちていて落下物に気をつけながら歩いたのを覚えています。
仙台駅は立入禁止になっていて駅には近づけません。
ここで新幹線が止まっている事に気がつきました。
日帰り予定でしたからホテルもとっていません。
コンビニも全部閉まっています(全市停電なので殆どの店舗は閉店)
駅前の外資系ホテルが行くところのない人対象に1Fを解放してくれていました。
水500㎖と卵1個配給受けました、非常にありがかったです。
ロービーで一晩明かしました。
携帯は通じないのでPCネットで情報を得ました。
宮城・岩手・福島はほぼ連絡つかずで非常に大きな地震で新幹線・高速道路も不通でした。
翌日は市役所まで歩いて行き、寝場所と食事を確保。こういう時はありがたい~。
自衛隊があちこちにいて尋常では無い事が容易に察しがつきました。
翌日山形行きのバスが出るらしいトのことで仙台に向かう。
最後の山形行きバスに乗り、山形経由で新潟に向かう。
新潟駅で一泊後東京行きのバスで東京駅に向かい、翌朝東京駅から横浜行きJRでアパートにたどり着く。
長いー長い出張は4日間目に帰り着き、死んだように眠ったのを覚えています。
翌日午後から東京本社に出勤、支社・工場他震災対策にほぼひと月費やした。
津波被害を知ったのは東京に帰ってからで、仙台で断片的に40Mの波と聞いた時は4Mの間違いだろうと
思っていましたが、本当に40Mの津波が東北を襲ったのでした。
東京ではその後計画停電で通勤が大変だった記憶があります。
よく生きて帰れました、感謝です。
あれから10年。
2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒
当時の携帯に残っていた写真
事務所内は余震が続き勤務解放
一時避難した近くの公園
コンビニは全店閉店
地割れ・落下物で歩くのが怖い。
市役所で配給された食事(非常に美味しかった)
山形駅前(ここまでくると安心しました)
ホテルは特別価格で解放してくれましたが、ドアは全部開放です(余震で閉じ込め予防の為)。