東急東横店/南館8階アートサロン、
『熊谷守一と梅原龍三郎版画展』が、今日までです。
行きたかったけど、無理。残念
熊谷守一さん(1880年4月2日 ~ 1977年8月1日)は、
岐阜県中津川市付知町出身の画家です。
画壇の仙人と呼ばれたひと。
生活の為に絵を描くことをしなかったひと。
次男陽が肺炎で幼くして命をなくした時も、
亡骸を前に陽の姿を描き始めてしまう。
その時、息子の亡骸にさえ描く対象としてしか見ていない自分に愕然とし、
筆をおいてしまう。
数年が経ち、67歳で、長女の萬が21歳の若さでなくし、
その悲しみを再び絵にします。
「ヤキバノカエリ」(1948年~1956年)
目も鼻も口も描かれていない家族の顔。
でも、悲しい。悲しい。悲しい。
この後、豊島区の自宅から一歩も出なくなった守一。
独特な画風を「下手も絵のうち」と表現する守一。
「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。
行き先もちゃんとわかってますわね。
下手はどうなるかわからないスケールが大きいですわね。
上手な人よりはスケールが大きい」
1968年 文化勲章辞退。
1972年 勲三等叙勲辞退。
『熊谷守一と梅原龍三郎版画展』が、今日までです。
行きたかったけど、無理。残念
熊谷守一さん(1880年4月2日 ~ 1977年8月1日)は、
岐阜県中津川市付知町出身の画家です。
画壇の仙人と呼ばれたひと。
生活の為に絵を描くことをしなかったひと。
次男陽が肺炎で幼くして命をなくした時も、
亡骸を前に陽の姿を描き始めてしまう。
その時、息子の亡骸にさえ描く対象としてしか見ていない自分に愕然とし、
筆をおいてしまう。
数年が経ち、67歳で、長女の萬が21歳の若さでなくし、
その悲しみを再び絵にします。
「ヤキバノカエリ」(1948年~1956年)
目も鼻も口も描かれていない家族の顔。
でも、悲しい。悲しい。悲しい。
この後、豊島区の自宅から一歩も出なくなった守一。
独特な画風を「下手も絵のうち」と表現する守一。
「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。
行き先もちゃんとわかってますわね。
下手はどうなるかわからないスケールが大きいですわね。
上手な人よりはスケールが大きい」
1968年 文化勲章辞退。
1972年 勲三等叙勲辞退。