「餅」<o:p></o:p>
餅屋は餅屋という諺がある。餅屋の餅は一味違う。やはり餅は餅屋に限るという意味であるが、平成の御代ならば、機械搗きか杵搗きの違いになるのであろうか。 <o:p></o:p>
戦前、消失前の毘沙門堂に、八十體余りの毘沙門様が林立していたころ、師走の二十八日には、一斗八升の餅を搗いて御供餅を取ったという。勿論、人を頼んで搗くのであるが、正月二日の追儺會で護摩を焚く一升餅だけは、相取りの手を借りずに、別當一人で搗いたそうである。でも、餅搗機ではこれは無理な話であるから、何年も前から臼と杵で餅を搗きたいと願って、果たせないままでいた。<o:p></o:p>
年末のこの時期になると、この二つがほしくなるのだが、師走の始め、突然女房が四十年も使われていない石臼が、実家の庭先に転がっていることに気付いたから、実現に向け話は一挙に進むのである、でもなんのことはない。臼といえば木製に限るから、石臼まで考えが及ばなかっただけである。将に、燈台下暗しとはこのことである。<o:p></o:p>
臼と杵は鏡餅を搗く聖なる道具であるから、本来は譲られたりするものではないそうだが、放って置かれるよりも搗いてもらったほうが臼としても本望に違いない。かくして、師走廿二日に四人で貰いに出掛けたのである。重さは凡そ三十貫(120㎏)、丸いから転がして軽トラックに積み込むのは案外容易で、四十分程掛けて御供所に運び、汚れを落として二十八日に備えたのである。<o:p></o:p>
餅つき当日は、一升餅を一人で撞いたが、最初の練りが足らず粒の残った餅になってしまったが、昔からこうだったというから御愛嬌として、御手伝手に来た大工さんは手慣れたもので、搗き方によって斯くも出来栄えが違うものか驚き、餅屋は餅屋の意味を実感した次第である。<o:p></o:p>
御供えを取り終えて、杵搗きの餅で御昼になったが、手伝った小学生の娘が、その旨さに驚いていたが、私だってこんなに旨い餅は久しぶりである。ちなみに、箆(へら)で練る方式の機械で作った餅は、杵つき餅と比べて細かい気泡が多く含まれ、焼くと表面だけが柔らかくなりすぎる。また、雑煮に入れると忽ち溶けだし、汁が濁って不味いが、杵と臼で搗く餅を食う機会が減ったから、餅とはこんなものだと勘違いしている御仁も多いから困るのである。<o:p></o:p>
餅屋は餅屋だが、やはり餅は杵搗きに限ると思う。かくして、旨い餅を毘沙門様を始め、御神域の神様仏様に備え奉るのは、この上のない喜びであるが、持ち慣れない杵を振って、体が痛いのはご愛嬌である。斯くして平成廿六年甲午(きのえうま)の新しい年は、目出度く明けるのである。<o:p></o:p>