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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

🎎 悲運の惟喬親王 🌸

惟喬(これたか)親王は、平安時代の承和11年(844)、文徳天皇 の第1皇子として生まれました。(^。^)

母は、紀名虎の娘の静子 (三条院)で、文徳天皇は、惟喬親王を皇太子にしたいと考えていました。(^-^)

しかし、時の権力者、藤原良房の娘の明子が文徳天皇との間に第4皇子の惟仁(これひと)親王をもうけると状況が一変し、藤原氏の圧力によって、惟仁親王は、9歳で即位して清和天皇となりました。(^_^)

皇位への望みを絶たれた惟喬親王は、政治から遠ざかって詩歌の世界に没入し、交野ケ原にある別荘の渚院を訪れては花盛りの桜を愛でたそうです。m(._.)m

この惟喬親王の側近が、歌人として有名な在原業平で、『伊勢物語』では、親王や業平たちが、 宴を楽しんだ様子が描かれています。(^。^)

貞観14年(872)、惟喬親王は、29歳で出家し、比叡山麓の小野 に隠棲、その後、寛平9年(897)に54歳で没しました。

京都や湖西地域には、悲運の惟喬親王を祀る社寺が多く、山間部の雲ヶ畑には「惟喬神社」があり、紫野には「玄武神社」、大原には親王の墓所があります。(≧∇≦)

そのほか、丹波にはガン封じで知られる「長源寺」で、また、遠く伊勢志摩の大紀町には「大皇神社」においても、惟喬親王が祀られています。(^。^)

毎年、8/24の夜に行われる「雲ヶ畑の松上げ」では、惟喬親王を偲び、当日まで秘密とされる一文字を松明の火で象ります。( ^_^)/~~~

    「親王を語り継ぐ世や千年紀
                 桜散りぬる唯閑かなり」

by 祖谷馬関

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