徳川家康から教如上人に烏丸六条の地が寄進されて、現在の場所に東本願寺が分派したのち、1641(寛永18)年には、徳川家光から宣如上人(東本願寺第13代)に、その東方の地が重ねて寄進されました。
これが渉成園の始まりであり、中国の詩人陶淵明の『帰去来辞』の一節「園日渉而以成趣」より「渉成園」と名づけられたそうです。(^-^)
宣如上人は、ここに屋敷を造営して1653(承応2)年に隠居し、亡くなられるまでの5年間に、詩仙堂の造営などで有名な文人・石川丈山の趣向を採り入れた作庭を行いました。( ^_^)/~~~
園内の建物は、1858(安政5)年の火災、1864(元治元)年の蛤御門の変で焼失し、現存のものはすべて明治以降に再興されたものです。一方、庭園については、ほぼ当初の作庭状態を伝えています。(^。^)
庭園内には、「渉成園十三景」と称される樹石と建物の風雅が各所に施されており、それは、1827(文政10)年作の頼山陽の『渉成園記』に紹介され高い評価がなされています。(^-^)
また、この地は、平安時代初期(9世紀末)嵯峨天皇の第八皇子である左大臣「源融」が、奥州塩釜の景を映して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の遺蹟とも伝われており、源融にちなんだ名物が園内随所にちりばめられて趣を添えています。(^_^)
かつて、邸宅周辺に枳殻(からたち)の生け垣をめぐらせていたことから「枳殻邸」とも言われています。m(._.)m
印月池を中心とした広い池泉回遊式庭園を臨む楼閣「傍花閣」は、その名の通り桜を眺めるために建てられた、山門の形をした珍しい建物です。(^。^)
園林堂の東方、園内の最も要な位置を占め、東向きに建てられている。その奇構とも見える外観は、禅宗の「三門」と呼ぶ楼門から発想されたものでしょう。(^-^)
花の無い冬の傍花閣を訪ね、まだ見ぬ桜に想いを馳せてみたい一句。
「枳殻(からたち)を訪ねて冬の傍花閣」 祖谷馬関