京都駅から七条通よりも少し北側、河原町通に立つ渉成園(枳殻邸)から真っ直ぐ東へ「正面通」が続いており、その突き当たりに「方広寺」と「豊国神社」があります。(^。^)
方広寺は、豊臣秀吉が東大寺に倣って大仏(盧舎那仏)を安置するため、天正十四年(1586年)から十年もの歳月をかけて造られた寺院、とのこと。(^-^)
文禄四年(1595年)には、南北88m、東西54m、高さ49mの巨大な大仏殿が完成し、高さ約19メートルの木製金漆塗座像が安置されますが、翌年、京都を襲った慶長大地震によって大仏は大破してしまったそうです。(≧∇≦)
慶長三年(1598年)、秀吉は大仏開眼供養を待たずに亡くなってしまいますが、その意志を継いだ豊臣秀頼によって金銅製の大仏が完成したのは、江戸時代となった慶長十七年 (1612年)のことだそうです。m(._.)m
その後も大仏殿と大仏は焼失と再建を繰り返し、現在は巨大な石垣の一部だけが当時と変わらぬ姿で残っています。(≧∇≦)
現在の方広寺の境内には、創建当時の梵鐘が残っており、高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7tもの巨大なこの鐘は、東大寺、知恩院の鐘とともに日本三大名鐘といわれています。(^。^)
この梵鐘に彫られた銘文「君臣豊楽」「国家安康」が、徳川家を冒涜するものとされ豊臣家滅亡のきっかけとなったといわれている銘文で、豊臣が君主として家康の名を分断したと徳川家康の怒りを買ったそうですが、徳川家が豊臣家に因縁を付けたものと解釈され「方広寺鐘銘事件」と呼ばれています。( ; _ ; )/~~~
この梵鐘に彫られた銘文「君臣豊楽」「国家安康」が、徳川家を冒涜するものとされ豊臣家滅亡のきっかけとなったといわれている銘文で、豊臣が君主として家康の名を分断したと徳川家康の怒りを買ったそうですが、徳川家が豊臣家に因縁を付けたものと解釈され「方広寺鐘銘事件」と呼ばれています。( ; _ ; )/~~~
この鐘銘事件を契機に、徳川家康との関係が拗れた豊臣家は「大阪冬の陣」に向かうこととなり、夏の陣で滅亡を迎えます。(≧∇≦)
方広寺の隣には、太閤秀吉を祀る「豊国神社」の壮麗な唐門と、その前面には、朝鮮出兵の際に秀吉が命じ朝鮮兵士から削ぎ落とした「耳」を納めた「耳塚」があり、異様な雰囲気を醸し出しています。m(._.)m
(京都三大唐門)
・西本願寺「日暮門」(伏見城遺構)
・大徳寺「唐門」(聚楽第遺構)
・豊国神社「唐門」(伏見城遺構)
芭蕉の名句「夏草や兵どもが夢の跡」を口遊みながら、太閤秀吉の栄華と狂気の数奇な人生を想う一句。
「太閤の鐘も鳴らずや虎落笛」 祖谷馬関
✳︎虎落笛(もがりぶえ)〜冬の季語。
厳寒の夜空を、風がヒューヒューと音を立てて渡ること。「虎落」とは竹を立て並べて作った柵や竹垣のこと。それが烈風に吹かれて、笛のように音を立てることに由来する。(きごさい歳時記より)