フィンランド建築・デザイン雑記帳

ケッコネン大統領に表彰された”東京ペッカ” 1964年東京オリンピックのタクシードライバー宝田三郎さん


「フィンクラブ」の会報1984年9月号より「東京ペッカ」の記事。

東京オリンピックが終わり、パラリンピックが始まろうとしている。

オリンピックといえば、1970年代、80年代、フィンランド・ファンの間で、話題になったのは「東京ペッカ」である。
この事を、忘れないうちに書いておきたかった。
忘れないうちにと思ったが、1964年の東京オリンピック。
記憶を頼りに書き始めたが、もうすっかり忘れていて、断片的にしか思い出せない。

1970年代、フィンランドファンの若者たちが集まって「フィンクラブ」という集まりを作った。
その会報に「東京ペッカ」の事が書いてあったのを思い出し、方々探してやっと見つけた。

「東京ペッカ」とは、タクシードライバーだった宝田三郎さんのもう一つの名前である。
1980年代、90年代、フィンランドに出かけるとフィンランドの人々から「東京ペッカ」の名を度々耳にした。
日本よりもフィンランドで有名な彼について、フィンランドの新聞は、東郷元帥についで著名な日本人であると書いている。

「東京ペッカ Tokion Pekka」
名付け親は、1964年のオリンピック時に来日したフィンランド・スポーツ記者協会の会長、スティグ・ヘッゲブロム(Stig・Gaggblom)氏である。
「ペッカ Pekka」は、フィンランドのごく一般的な男性の名前である。

{東京ペッカ」は、1964年の東京オリンピックに来日したフィンランドの記者や報道スタッフ、選手達とタクシードライバーとして接した。
彼は、フィンランド語を喋れなかったが、フィンランド人の心をピタリと理解することができる素晴らしい感性で、フィンランド人たちの信頼を得たという。
心の交流、信頼は、お互いの友情へと発展していった。
彼は、1964年以後も、1967年のユニバーシアード、1972年の札幌オリンピックと機会あるたびにフィンランド人の世話をした。

宝田さんは、1973年のフィンランド訪問時、大統領宮殿に招かれ、フィンランド政府からシルバーメダルを授けられた。
彼は、その時の思い出として、ウルホ・ケッコネン( Urho Kaleva Kekkonen)大統領から、肩に手をかけられて「キートス・ペッカ」と言われたことがとても嬉しいかったと述べている。
「東京ペッカ、宝田三郎」さんは、2002年6月12日に70歳で亡くなった。
多くのフィンランドの新聞、テレビが彼の訃報を伝えた。





1976年、荻原進さん、カイヤ・レーナさんを中心にフィンランド・ファンが集まって「フィンクラブ」という集まりを作った。
”ME OLEMME SUOMEN YSTAVIEN KERHO
わたしたちはフィンランド好きのあつまりです”。

江東区猿江の荻原さんの自宅で週1回の集会。 フィンランド語を習ったり、フィンランドの文化、工芸、文学などの学習を通じて日本とフィンランドの交流を目的とした。
不定期ながら、このような会報も発行した。



「東京ペッカ、宝田三郎」さんの死去を伝える、2002年6月17日のMTV-3テレビ。
Suuri Suomen ystävä "Tokion Pekka" on kuollut
偉大なフィンランドの友人”東京ペッカ”が亡くなった。

宝田さん死去のニュースは、フィンランドの有力誌 ヘルシンギン・サノマット Helisingin Sanomatや多くの新聞、テレビ、ラジオなどで伝えられた。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「文化」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2024年
2023年
2022年
2010年
2007年
人気記事