二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

妙好人

2023-01-27 18:48:00 | 仏教の大意

 妙好人(みょうこうにん)
 妙好人とは、浄土教の篤信者、特に浄土真宗の在俗の篤信者を指す語で、他力の信心を得たすぐれた念仏者。また、念仏者をほめていう語です。そのほとんどは農民を中心とする庶民的な念仏者です。以下はそのような妙好人の一人である森ひなさんの歌です。読みやすく編集しています。

 無題

 アミダと親子でありますが、時どき煩悩になやむのは避けられません。本当になんと恥かしいことでしょう。ナムアミダブツ。

 煩悩を持たないように努めてみても、ますますたくさん心の中に押し寄せます。本当になんと恥ずかしいことでしょう。ナムアミダブツ。

 邪悪の自己を見てみれば、いかに哀れなものかわかります。かわいい我にも愛想が尽きます。なんと恥ずかしいことでしょう。ナムアミダブツ。

 まことに私は醜い老婆、いやになるような悪いやつ。でも私は親さまと一緒、決して離れぬ親さまよほんとになんとありがたいこと。ナムアミダブツ。

 悪の道を避けんとし、常に浄土を希いつつ、この心そのものがまったく自力にほかなりません。私は今なんとありがたいことでしょう。

 まったく盲目でしたのに、私はそれを知りませんでした。大丈夫だと思って来たのは何と恥ずかしいことでしょう。

 私の称える念仏は私のものだと思っていました。しかしそうではありません。それはアミダの喚び声でした。本当になんとありがたいことでしょう。ナムアミダブツ。

 必ずや悪道に落ちるに決っているので、私には浄土も悪道も無用です。
      妙好人 森ひな


 ひなさんと大拙師の会話が残っています。

ヒナさん
『わが機、ながめりや、あいそもつきる、わがみながらも、いやになる。ああ、はづかしや、なむあみだぶつ』

『いやになるやうな、ざまたれ、ばばに、ついてはなれぬ、おやござる。ああ、ありがたい、なむあみだぶつ』

大拙師
「わが身ながらもいやになると書いてあるが、これあんたの煩悩やろ。この煩悩、半分わしに分けてくれんか?」

ヒナさん
「いや、あげられん」

大拙師
「なんでや?あいそもつきるような煩悩なら分けてくれんか?」

ヒナさん
「いや、これは分けられん」
「この煩悩あればこそ、この煩悩照らされて(如来さんというはたらきに)であえたんや」

大拙師
「そうやったな、儂もおばあちゃんの二倍も三倍も煩悩もっとるさかい、お互い、この煩悩大切に生きていこうな」
  

  妙好人

 わたしたちの日常の生活は、言うまでもなく、心配や不安や恐怖に満ちています。わたしたちはこういう難問の只中に安穏ならざる生活をしているのですが、妙好人はそのような困難に少しも影響を受けません。

 妙好人はわたしたちと同じ日常的な問題を持ってはいますが、わたしたちほどそれに縛られません。妙好人は貧困や恐怖を免れてはいませんが、それに束縛されません。妙好人はそういう困難から離脱することができるのです。束縛されながら、しかも自由です。

 彼女が「私はいつもアミダ自身と一緒です」と言っているのはこのことです。
もし不安や恐怖や心配がなかったら、「いつもアミダ自身と一緒です」とは言えなかったでしょう。これが最も大事なところです。あらゆる宗教教義はそういう経験を指し示しています。

 わたしたちは、聖者はきわめて崇高で、ふつうわたしたちが持つような煩悩をまったく持たないと考えがちです。しかしそうではありません。

 もしある聖者を、世俗をまったく離れているという理由でたたえるならば、きっとその聖者は、「何をおっしゃいますか。私はまったくあなたがたと同様の悪い人間です」と言うでしょう。そして、「しかし、こういうもろもろの煩悩にもかかわらず、私をそれから解き放ち、神とともにあらしめる何かがあります」と言い添えるでしょう。

 この婦人の告白は実にすばらしい。知的な観点からすれば、もし人が常にアミダと共にあり他力の現在を自覚しているのであれば、どうしてその人の心が煩悩をやどしたり自己嫌悪を感じたりするだろうかということになります。それはわれわれの知的な推論です。現実の生活に曖昧と矛盾は常に起こるものです。そういう矛盾にもかかわらず、妙好人は、こういう真に宗教的な人たちは、自らの得たところを喜び感謝するのです。

 慢心が去れば卑謙が生じます。卑謙は他力の認識です。卑謙が体得されれば、すばらしい喜びが出てきます。卑謙はその人をまったくみじめに感じさせるかもしれません。実際そうであります。しかし同時に、その人はみじめさとは正反対の感情を感得するのです。喜びが生まれ満足が来ます。 

 他力

 真宗は自力と他力を区別します。自力はキリスト教の慢心に相当し、他力は卑謙によって来るのです。自力や慢心が打ち砕かれると、人は面目を失います。そしてこの屈辱感がやがて卑謙となり他力に通ずるのです。

 われわれは、本当に謙虚になってこの卑謙の情を経験するには、慢心を棄て謙虚であるように努めねばならないと思いがちです。そのときわれわれは、これは他力によってなされると考えるかもしれませんが、それがもう自力を使っているのです。われわれがすべて他力だと思うとき、その意識そのものが、それが自力だということを証明しているのです。

 他力は実際には思いがけなくやってきます。われわれが本当に他力を得るとき、他力は完全にわれわれの意識を把え、自力は去ってしまいます。他力がわれわれの意識の範囲を全領するとき、それを他力であると認識させるものは何か、と問う人がいるかもしれません。事実、そこには他力の意識すらないのです。なぜなら、他力が偏満してこれに対立するものは何もないからです。ここでは言葉の力は敗北します。他力が現存し、私はそれを意識するのですが、その他力は私の意識全体を私だと見ます。しかし私は現存しています。

 私は私であり、他者は他者でありながら、しかもそこに表現しがたい意識が生じています。表現すれば、それは不条理なものになるのです。だから他力は、自分自身で体得するのでなければなりません。 

 鈴木大拙「真宗入門」第五章・妙好人より

見出し画
「アフロ大仏」と称される金戒光明寺の「五劫思惟阿弥陀仏」



人間本来の心

2023-01-26 08:11:00 | 仏教の大意
国宝・一編上人絵伝


 人間本来の心  

 およそ、大乗仏教の仏法は、心の外に別の世界を考えることはない。すべてのものは始めもなければ終わりもない本源的で清浄なる心である。ところが、我に執着する※妄心に覆われて、その実体が現れにくい。

 そのような人間の清浄なる心が、アミダ仏の本願の力によってアミダ仏と一体になるとき、人間の本来の心が開くのである。
   
 極楽浄土がこの世界から10万億の仏国土を過ぎた彼方にあるということは、実際には距離のことではなく、人々の妄執がいかに浄土とかけ離れているかを示している。

 それで善導はいっている。「人々は迷妄愛執が深いため、浄土との隔たりが実際には竹の皮ほどのものなのに、まるで彼此の間を千里もあると思っている。」だから「観無量寿経」にも『アミダ仏は此を去ること遠からず』と説いている。これはアミダ仏が人々の心から遠く離れていないということである。

 一遍上人語録 巻下72

一遍(1239 - 1289)は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。
  


 外道

 心の外に真実を求めるのを外道という。
心の外に対境を置いて念を起こすのを迷いという。

 対境をなくした
 「一なる」ところの
 本来の心は妄念なし。

心と対境がそれぞれ別であり二つあると思うから生死流転するのである。

 一遍上人語録 巻下66

国宝一編上人絵伝




 畑に隠された宝

 ひとりの貧しい女の畑に宝が埋まっていた。家族は誰もそのことを知らなかった。そこへ旅人がやってきて、告げた。「あなたの宝をほり出してあげるから、草を刈ってほしい」。
 女は 
「できません。もしあなたが私の息子に宝の埋まっている証拠を見せてくれるなら、あなたのために働いてもよいのですが」という。
その人は「私はやり方を知っているから、きっと見せてあげられます」という。
 女は
「家の者が知らないのにどうして、あなたのようなよそ者に分かるのですか」といぶかる。

 そこで、その人は実際に畑を掘って宝をとり出したので、その女は大へん喜び、まことに奇特なことと思って、その人を尊敬した。

 あなたたちの内なる仏性もこれと同じことだ。誰もそれを見ることができないが、ただ如来だけがそれを知っている。畑に埋まっている宝とはあなたたちの内にある仏性をいうのである。
        涅槃経

※【妄心】 もうじん
「もうしん」とも、仏語。
煩悩にけがされた心。迷いの心。誤った分別心のこと。

「妄心(もうしん)もし起こらば、知って随(したが)うことなかれ~」
弘法大師空海の言葉『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』より





仏を観るための経典

2023-01-21 08:01:00 | 仏教の大意

仏心 ぶっしん
 仏心とは、仏のこころ。大慈悲のことをいう。また、一切衆生に本来備わっている仏性のこと。仏心とは主体となる心のこと。心主、心王ともいう。『観無量寿経』には「仏心者大慈悲是」とある。 禅においては仏の悟りを指して仏心と呼ぶ。禅宗は仏の悟りを直に体得することを求めるので、経宗に対して別名仏心宗を称する。 (ウィキペディア)

仏を観るための経典
 (観無量寿経)
   
 あなたは知っているだろうか。アミダ仏のおられるその国が、ここから遠くないということを。あなたは精神を集中し、その国を観想しなさい。そうすればやがてあなたは鏡に自分の顔を映して見るようにその清らかな国を見ることができるであろう。

国宝「日想観図」平等院鳳凰堂

 日想観 

 生まれつきの盲目でないかぎり、すべての人は西に沈む太陽を見ることができる。さあ、西に向かってすわりなさい。西を見てやがて沈む太陽が太鼓のように空にかかっているのをしっかりと見すえなさい。



 そして太陽を見たあとでその映像が眼を閉じていても眼を開けていてもありありと想い浮かべることができるようになさい。これが最初の瞑想[日想観]である。

 水想観

 日没の太陽のイメージをしっかり固定できたなら、つぎは水に心を集中させなさい。

千住博「浄土の滝」

 水の澄みきった透き通ったさま、その清らかさをはっきりと眼の前に見ることができるようになさい。これが第ニの瞑想「水想観]である。

 地想観

 このようにして水を見た後、あなたはその水を氷のイメージに変化させなさい。氷が輝き、透き通っていて瑠璃色をしている・・・そのイメージのまま大地を見れば、大地は瑠璃からできていて、内も外も透明で光り輝いて見えるであろう。



 その大地の下では宝石が光を放ちその光が大地に反射してまるで百億もの太陽が輝いているようだ。そして瑠璃の大地の表面には、黄金が帯のように張りめぐらされ美しく明瞭に区画されている。このようなイメージがつくりだされたら、その一つ一つをさらにくわしく瞑想しなさい。



 そして、その映像が、眼を閉じていても眼を開けていても、決してなくならないように気をつけてなさい。眠っている時以外は、いつでもこのイメージを、ありありと想い浮かべることができるようにするのである。これができるようになれば、この人は西方浄土をおぼろに見た人と呼ばれる。ところがさらに進んで「サマーディ」の状態に達した人は、この浄土をさらにはっきりと見るのだが、これは、とても説明しつくせない。これが第三の瞑想[地想観]である。

 樹想観

 あの国の大地をイメージできたらつづいて美しい樹木をイメージしなさい。



 この花は淡い光を発したがいにふれあい、連なっている。風に吹かれると優雅にクルクルと回り黄金の光の輪をつくる。それはまるで旋火輪のようである。



 他にもさまざな樹木があるがとても言い尽くせない。あなたは幹、茎、枝、葉、花、果実を観想し、それぞれの映像をはっきりと想い浮かべることができる。これが第四の瞑想[樹想]である。

 八功徳水想

 つぎに広い池をイメージしなさい。その国には多くの美しい池があり池の中にはハスの花が咲いている。

 国宝平等院鳳凰堂とモネのスイレン

 そして花の間には水が流れていて、心地よいメロディを奏でている。それらはすべて仏の教えを伝えそのすばらしさを讃えているのだ。このようにイメージすること、これが第五の瞑想[八功徳水想]である。

 総観想

 水の奏でるメロディに重なって、天上からも美しい音色が聞こえてくる。



 天人の楽器が空中に浮かび自然に鳴るのだ。このようなイメージに達したらほぼあの国のすべてを見たと言えるであろう。これが第六の瞑想[総観想]である。

 さて、ここまで来たあなたは仏のお姿を見なければならない。その仏のお姿を見たいと思うなら、次のようにしなさい。
 
 花座想

 まず美しく輝くハスの花をイメージしなさい。



 そのハスは花びらの一つ一つが微妙な色彩を持っている。その花びらには多くの脈があり、まるで天の絵のように美しい。またその脈から、さまざまな光が出ていて、その光の一筋一筋まではっきりと見ることができる。ハスの花一つ一つが光明を発しているのである。





 このハスの台はまるで天の宮殿のようである。その宝石のような光はいたるところであたりを輝かしている。このようにハス花をイメージすることができれば、これが第七の瞑想[花座想]である。

 このようなすばらしい花は、もともと自然の力によってできたものではない。これは仏の力によるものである。だからもし仏を見ようとするなら、まずこのハスの台座に注意をそそぐのである。ただしこの瞑想を行うときには、これ以外の雑多な瞑想をしてはならない。その花びらの一枚一枚、光の一筋一筋、台座の一つ一つを正しく想い描いて、鏡の中の自分の顔を見るようにそれらをみなはっきりと見なければならない。この瞑想を成しとげたなら、長い間の迷いのもとである生死の罪が消えて、必ず極楽世界に生れることができる。これが正しい瞑想であり、そうでないならすべてあやまった瞑想である 。花の座の瞑想が終わったなら、つぎには仏そのものを瞑想しなさい。

 像想観

 仏を見ようとすれば仏は現れ見ようとしなければどこにもいない。だからこの心が仏なのである。この心が仏を生じるのだ。仏の美しいお姿があなたの心にいっぱいになればあなたの心はそのまま仏の美しさで満たされるのだ。その時、その心が仏となり、その心がそのまま仏なのである。


  国宝阿弥陀三尊像
 
 だからひたすら一心に、目覚めた方、聖なる方、仏を瞑想しなさい。仏を見るにはまずその身体を瞑想するのである。目を閉じていても開いていても、紫金色に輝く仏が、ハスの花に座っているようすを常に想い浮べなさい。

 こうして仏がハスの花に座っておられるのをイメージできたなら、心の目が開いて、あなたはあの仏の国土の美しいようすをはっきりと見ることができるだろう。これが第八の瞑想[像想観]である。

 一切色身想

 以上のような瞑想を通じて心の眼が開いたら、あなたは仏の心も見るだろう。仏の身体と仏の心とは別々ではないからだ。仏の心とは大いなる慈悲の心である。全世界を自分自身とし、すべてを包みすべてをはぐくむ心である。


 
 この瞑想に達したなら、あなたは顔と顔とを合わせて仏を見るであろう。これが第九の瞑想[一切色身想]である。

 仏を観る者は
 本来の自己を観る者、

 本来の自己を観る者は
 仏を観る者である。 
     「観無量寿経」より



新しい世界

2023-01-16 11:47:00 | 仏教の大意
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖・慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。



  新しい世界

 日月はいつも天上に輝いている。しかし厚い雲に包まれると天上は明るくとも地上は暗やみとなる。

 人々の般若の知恵も
 これと同じようである。

 人々の本性の清らかなことはまるで青空のようである。その知は月のようであり、その恵は太陽のようである。

 知恵はいつも輝いているのだが、外に向いてそこにとらわれると、妄念の浮き雲が現れて本性の輝きが覆われてしまう。

 やがて妄念が幾重にも厚く重なり、煩悩の根が深くくい込む。それは厚い暗雲が太陽を覆い隠すようなものである。

 風が吹き払ってくれないと太陽は姿をあらわすことができない。そのときは友人をたずね妄念を払ってもらわねばならない。

 間違った考えは正しい考えで払い、無自覚は自覚で、愚かさは知恵で、悪は善で、迷いは悟りで、払いのけるのである。

 このようにして知恵の風が吹きつけ妄念の雲や霧を追い払ってしまうと、ふたたび世界は新しくその姿を現す。
   「六祖壇経」般若第二

 
国宝・一二天屏風(月天)鎌倉時代 京都・東寺

見出し画 
六祖截竹図(りくそせっちくず)
絵画 / 宋 / 中国 梁楷筆
南宋時代・13世紀


達磨「無心論」

2023-01-05 10:07:00 | 仏教の大意
 まえがき 

 真理はものを言わぬ。人の言葉に託して真理をあらわにせねばならぬ。 大道には姿もなく形もない。姿に現して言わぬと人には伝えられない。 今しばらく仮に問う者と答える者の二人を立てて、共に無心の論を談ず。

問い、
「有心か、無心か」

答え、 
「無心だ」

問い、
「無心ならば、誰が見聞覚知し、誰が無心だと知るのであるか」

答え、
「無心であるから、能く見聞覚知する。無心が無心だと知るのである」

問い、
「無心なら、見聞覚知することはできないはずである。どうして見聞覚知することができるのであろうか」

答え
「わしは無心でも、よく見、よく聞き、よく覚し、よく知る」

問い、
「よく見聞覚知できるからには、有心のはずである。どうして無いと言いきるのか」

答え
「ほかでもない、この見聞覚知が、すなわち無心である。見聞覚知を離れて別に無心というものがあるのではない。

 見の場合は、われらは終日見ているが、しかも別に見るということがないのである。それゆえに、見もまた無心である。聞の場合も、終日聞いているが、しかも別に聞くということがないのである。それゆえに、聞もまた無心である。覚の場合も知の場合も同様である。また行ないの場合もまたその通りで、終日何やかや行ないながらを何もしていないのと同じなのである。だから、見聞覚知とはいうが、これらはすべて無心というものである。

 不可得

問い、
「どうして無心であるとわかるのか」

答え、
「ひとつ、くわしく探してみるがよい。 心というものに、どんな姿があるのか。その心はこれといって把握できるものか。心といってもこれといって心なるものがないではないか。

 またそれは内にあるとすべきか、外にあるとすべきか、それともその中間にあるとすべきか。これら3ヶ所に心なるものを探し求めても、得ることができぬものである。またさらにこれをあらゆる所に求めるとしたところでこの心は得ることができないものである。それで無心ということがわかる。

 罪と徳

問い、
「どこを探してもすべて無心だと言われるが、それならば罪とか福とかいうものもないことになる。何ゆえに人は六道輪廻し、はてもなく生死をくりかえすことになるのか」

答え、
「人々は迷妄のゆえ、無心の中で勝手に心をこしらえ、さまざまな業を造り、勝手に執着して有心としてしまうから、六道に輪廻し、はてしなく生死をくりかえすのである。たとえて言うなら、暗がりで切り株を見てそれを幽霊だと思ったり、縄を見てはそれを蛇と思ったりして、こわがっている者のようなものであり、人々が勝手に思い込むのも、こんなことだ。

 そのような者でも、 善知識にお目にかかり坐禅を習い、無心にめざめることになると、一切の罪は滅びるのである。どんな業も根こそぎ消え、生死もたちまちふっ切れてしまう。 ちょうど、暗い場所に日光が射し込むと、暗い場所がすっかり消えてなくなるようなものだ。それと同じように、無心に気付けば、どんな罪も消えてしまう」

 対治の法

問い、
「わたしは愚かゆえ、なかなか納得できません。迷いと悟り、生死と寂滅なども、はたして無心でしょうか」

答え
「まちがいなく無心だ。人々は勝手に心が有ると思いこむものだから、煩悩とか生死とか悟りとか涅槃寂滅などの名ができる。もし無心だとわかるなら、すべての煩悩、生死、涅槃などというものがなくなってしまう。

 それで如来は、心が有ると思っている者のために、生死があると説くのである。菩提(さとり)は煩悩に対してその名があり、涅槃(ねはん)は生死に対してその名を得るのである。いずれも対治の法である。もし、心として別に得るものがなけれは、煩悩も悟りも得ることがなくなるのである。ないし生死も涅槃もみななくなるのである。

問い、
「悟りも寂滅も得られぬ以上、これまで仏たちが悟りを得たというのは、どういうわけか」

答え、
「世俗の表現によって得たというにすぎぬ。真理の世界では何も得ることはない。『維摩経』に、悟りは身体で得ることもできないし、心で得ることもできないと言っている。また『金剛経』にも、少しばかりの法すら得られることはない、仏たちは得ることができぬと知られただけである、と。 それで心が有れば一切が有であり、無心であれば一切が無である」

 無心とは真実心のこと

問い、
「すべて無心であるといわれるが、木も石も無心である。それではわれらも木石と同じではないか」

答え
「われわれのいう無心は、木石のそれとは意味がちがう。そのわけは、たとえば✳天鼓だ。下に伏せてあっても、おのずと妙音を打ち鳴らして人々を感化する。また、✳如意珠みたいなもので。これも無心ではあるが、変幻自在である。われわれのいう無心もこれと同じで、無心といっても諸法の真実をさとり、真の知恵をそなえて、自由自在でその働きは融通無碍である。


問、 
「では、どういう修行をすればよいのか」

答え、
「すべての事に無心であれば、それが修行である。ほかに修行があるわけではない。無心がわかれば一切が寂滅である。これが無心である。
つまり無心とは、妄想の心がないとの意味である。これが真実の心であり、真実の心というものは無心のことだ」



✳天鼓(てんく)
仏教用語の一つ。欲界の6天のうちの、第2天にあるとされる鼓(つづみ)のこと。ひとりでに音を鳴らし、悪行を止め、つつしませるとされている。

✳如意宝珠 にょいほうじゅ
思いどおりに宝を出すといわれる珠のこと。 サンスクリット語のチンターマニcintāma iの訳。 如意宝、如意珠ともいう。 いかなる願望も成就し、意のままに、宝や衣服、飲食を出し、病気や苦悩をいやしてくれるまさに空想上の宝珠であり、また悪を除去し、濁った水を清らかにし、災禍を防ぐ功徳(くどく)があると信じられている。

(参)
世界の名著18「禅語録」より「菩提達摩無心論」

鈴木大拙全集第五巻「華厳の研究」p148−152
同 第七巻「無心ということ」

    白隠達磨図

菩提達磨は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。(wiki)