以下は鈴木大拙の英文の著作「Essays in East-west
Philorsphy」の要約です。仏教思想を知らない欧米人に対して哲学用語を使ってわかりやすく説明しています。そこからいくつか選んでみました。prajñāはふつう智慧と訳されますがここでは直観になっています。
理性と直観
「直観」という言葉のかわりには、仏教では一般に「般若 (prajñā)」という言葉が用いられ、「理性」又は「思弁的理解」とい 代りには、「識 (vijñāna) (分別または分別意識)」という言葉を使う。識と般若の両者が常に対比されるわけである。
「識 (vijñāna) 」は人間感覚と知性の世界ではたらく。 この「識」すなわち分別の世界においては、 見る者と見られる者とがあって、それらが対立する。 そういう二元論が根本的な性格となっている。しかし般若(prajñā)においてはそういう区別はないので、そこでは、見る者と、見られる者とが同一なのだ。見る者が見られる者で、見られる者が見る者である。 分別識の世界で起こるように般若が二つの要素に分析されてしまえば、もう般若は般若でなくなってしまう。般若は般若だけでよいのである。
分けるということは分別の特徴であるのに反して、般若
(prajñā)は全くその逆だ。般若と分別を比較した場合、般若は全体が全体自身を知るのであるに対して、分別は部分に付いてまわるものである。
統合と分析
いろいろなものを区別し識別する分化作用というものは、何物かがあってそれが集成ないし統合するというはたらきをしなければ、分化作用は不可能なものであるということが納得されると、ここで分化作用をする分別識(vijñāna) の根底には般若 (prajñā)が在るということ、また、分別識の機能をして分化の原理としてはたらかしめているものが 即ち般若であるということは、わりあい容易にわかるものだ。
主客の対立
主体と客体の二項対立ということは、その背後に主体 でもなく客体でもない何かがなければ成立しない。この何かとは一種の場所であって、この場所で主体・客体が作用するのであり、そこで、主体が客体から分離され、又、客体が主体から分離されるのである。
もし両者が何らかの形で 相関連していなければ、分離とか否定などということすらできないわけだ。そこには何か、客体の中に主体が、 主体の中に客体が、なければならず、そしてそれが分離または統合を可能ならしめているようだ。しかし、この何物かというものは、論理的判断の主題とすることはできないので、そこにはこの一番基本的な原理に到達すべき別の方法がなければならない。
実のところ、それがあまりにも基本的であるので、かえって分析の道具を適用することができないのである。我々はどうしても般若直観に頼らなければならない。
逆説的表現
逆説的表現というものが、般若直観の特質である。般若は分別意識または論理というものを超越しているので、それ自身、自己矛盾することを少しも意に介さない。言いかえれば、矛盾とはものを分 けてみる分別作用の結果であり、それが「識」のはたらきであるということを、般若はよく承知しているのだ。般若は、 先に肯定したことを否定したり、また、否定したことを肯定したりする。これは、般若がこの二元性の世界を処理する独特の方法をもつているわけだ。
換言すれば、分別意識によってなされた否定・肯定のどちら側に般若が現示されていようとも、般若はそれでいて決して分裂していないのである。 分別意識がそれそのものとなるには、どうしてもどちらかの一方に極性を与えなければならないのだが、般若は決してその合一的全体性というものを失わない。
同2より
方法論
つまり、こういうことなのだ。般若の方法論が分別識または知性のそれと全然正反対なのである。この方法論の相違の故に、般若によって表現されることが、いつも知性にとってはまるで問題にならぬ馬鹿げたものに見え、従って、真剣に取り上げてみることさえなく拒否されてしまうのである。
分別識は二元対立の原則であり、また、 概念構成の原則でもあるわけであるから、我々日常生活の諸事象を取り扱う上になくてはならぬ重要な武器となっている。ゆえに、我々はいつしか知性というものを、この相対性の世界を処理する一番肝腎な方法と考えるようになって来たのであるが、しかしながらこの場合一つの大事なことを忘却しているのだ。
それはつまり、この相対的な世界は、 人間知性よりもさらに深い所に根ざしている「あるもの」によって創造されているのだということである。実際、知性自体が、その存在理由と、そしてあらゆる機能を、この不可思議な「あるもの」に負うてあるのである。一方、この分別識すなわち人間性が行う価値付けの方法というものは、一種の悲劇にほかならぬ。なぜならば、それは、我々の心情に又は精神に、何ともいいしれぬ不安をひき起し、この人生というものを悲惨事に満ちた重荷にしてしまうからである。
しかしここに注意すべきは、この悲劇と不安あるが故にこそ、また、我々人間が反って般若経験の事実に目覚めるのだということである。
般若は経験である
心理学的に言えば、般若は一種の経験である。しかしながら、経験といっても、知的、感覚的、あるいは感情的などという我々の日常生活の諸経験と混同してはならない。 般若は実に一番基本的な経験である。この基本的経験の上に他のすべての経験が置かれている。 般若はいろいろな性格で規定される諸経験から切り離されたものと見なしてはならないのであるが、また一方、それは識別を超越した純粋経験である。
般若は常に直接性を要求するものであり、いかなる反省も許さない。花を見る場合、見るものは直下にそれを花だと知る。また、冷水に手を入れた瞬間ただちに冷たいと知る。これは即座に、直接であって、決して思考する一瞬の余地もない。この点で般若直観は知覚作用に似ている。
しかし、般若直観と知覚作用との相違は、知覚が感覚を出ないというのに反して、直観は更に深く根ざしていることだ。 知覚作用がこの根底に触れた時に、それが般若直観になるのである。
具体的なもの
般若は「空」の自覚である。この自覚なくして、人間の精神生活というものはありえず、人間のいかなる思想も感情も、あたかも繋ぎの綱を失った小舟のごとく、はたらきの中心を失ったものとなってしまう。般若は統一と平等の原理である。 我々はそれをある抽象的理念と考えてはならないので、決して理念ではなくて、言葉のもつあらゆる意味において最も具体的なものであるということができよう。その具体性によって、般若は世界中で最もダイナミックなものなのである。
しかし、般若の作用を考えることさえ、それはやはり分別識のはたらきなので、この意味から般若は分別識からのがれることはできないだろう。般若直観(prajñā)と理性の分別作用(vijñāna)とはいづれも大切なもので、統合的な哲学の建設には欠くことのできないものである。
同4より
(参)世界大百科事典内のプラジュニャーの言及
【知恵】より
知恵は現実のさまざまな現象を識別するとともに,それを統合して理解するはたらきであるために,現実の感覚的なはたらきを超えて,全体を把握する超越的な意味も含んでいる。仏教では知恵をものごとの識別に使われる智(ジュニャーナjñāna)と,統合的で識別的な機能を超える般若の智慧(プラジュニャーprajñā)とに分けて考えた。また,先天的に備わっている生得慧,他人の教えから得られる聞所成慧,内的思索によって得られる思所成慧,修行の実践の中で得られる修所成慧の4種類に分類している。