二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

にわとりが先かたまごが先か

2024-07-11 20:48:32 | 哲学
ジレンマDilemma


「鶏と卵のどちらが先にできたのか」という因果性のジレンマの問題があります。


有名なこの問題は、一般的には「どちらが原因として先にあるか分からない」という比喩的な意味で用いられ、古代ギリシア時代から存在していました。

ジレンマとは二句分別のことで、言葉の示すように、ものごとを「真偽」•「善悪」•「白黒」•「大小」など、二つに分けて考える思考パターンのことです。三つに分けるのをトリレンマ、四つに分けて考える思考パターンをテトラレンマ、漢字で四句分別と書きます。


 二句分別は二値論理、二項対立、二分法、二元論などと同じ思考パターンであり、古代ギリシアの古典論理の系統です。ここでは原因と結果の二項対立の真偽是非をどのように考えるかが問われています。

ベン図は、重なる円やその他の図形を使用し、複数の項目の集合や概念の関係を図示します。視覚的に対象物を整理し、項目間の類似点や相違点を強調するために用いられることの多い図です。

二値論理はコンピュータの【0と1】のようにその中間がないのが特徴です。その中間部分、図の【AかつB】の重なり合った部分は古典論理では排除されて排中律とも矛盾律とも呼ばれている場所です。AとBとがそれぞれ独自の存在として区別できなければ名前のつけようがないからです。これを定式化したのが同一律です。

 AはAである。

 BはBである。

鶏は鶏であり、卵は卵であって鶏が卵になることも卵が鶏になることもなく、はっきりと区別されています。

 四句分別のベン図をながめながら考えると二値論理で矛盾だとして排除されていた場所が別の様相を帯びてきます。


相依性

四句分別では鶏と卵を独立した別々の存在と見ず、関係でとらえます。簡単に言えばつぎのようになります。

卵がなければ鶏もいず、

鶏がいなければ卵もない。


相互浸透

相互浸透とは互いに関係する相手の中に入り込んでいる状態のことです。にわとりの中に卵が入り、卵の中に鶏が入ります。

原因の中に結果が入り、結果の中に原因が含まれています。原因と結果が別々にならず個体の中で共存しています。具体的な絵を見ながらなら意味が伝わりますがこれを記号化して「Aの中にBが入りBの中にAが入る」と言うと途端に意味不明なことになります。記号には意味がないからです。


場所

重なり合った部分をどのように解釈するのかは難しいところですが、「場所」としてとらえるのが妥当ではないかと思われます。


共存の場所

共存の場所とは、鶏と卵が単なる結果でもなく単なる準備でもなく、鶏と卵が全体の場所において先もなく後もなく存在している場所のことです。すなわち現実の場所です。先後が生じるのは循環しているものを止めて考えるからです。つまり、止めた時点が始まりであり、かつ終わりというわけです。













ライフサイクル

2023-09-02 22:40:00 | 哲学
生活環せいかつかん

生物の生活史の周期のこと。生物の個体が発生を始めてから死ぬまでの過程を生活史しといい,この間に次代の個体がつくられて,同じ過程がくりかえされます。そのくりかえしが生活環です。





ライフサイクル

生物がその生涯の間にさまざまの変化を経ながら再びもとと同じ段階に戻ってくるまでの変遷のこと。もとと同じ段階に戻るまでに1世代(植物の場合には2世代以上のことも多い)を経て新しい世代になっている。
世界大百科事典 第2版 「生活環」より

桜の木の生活環



リンゴの木のライフサイクル

 図1は直線的時間観
 図2は円環的時間観

生活環せいかつかんlife cycle

生物の個体が生殖細胞から出発して成長し、やがて生殖細胞を形成するまでの生活過程(生活史)は、さまざまな図式で示すことができるが、しばしば環状図式が使用され、これを生活環という。

日本大百科全書(ニッポニカ) 「生活環」


被子植物のライフサイクル

  

人のライフサイクル

自己同一性

図のように生物はさまざまに変化しながらそれ自身に同一
であるというのがその本質であると言えます。これが自己同一性と呼ばれるものです。

死後のライフサイクル


チベットの壁画


輪廻の思想もこの自己同一性ということが根底になければ成り立たないのは自明のことだと思われますが如何。







キンスカの木/自己同一律

2023-08-15 16:23:04 | 哲学
自己同一律はわたしたちが実生活において普通に使っている論理であり特別なものではありませんが説明しようとするとなかなかうまく説明できないものです。以下の寓話で示されているのが自己同一律です。

キンスカの木

 むかし、インドのバーナラシーの王様に4人の王子がいました。ある日、仲のよい4人がいつものようにいろんな話をしている時、「キンスカの木を見たことがない。ぜひ見てみたい」ということになりました。そこで、何でも知っている年老いた執事に、キンスカの木を見に連れて行ってほしいと頼みました。

 すると執事は「ああ、そうですか。キンスカの木でしたら、あの森の奥のほうに大木がございます。わたしがご案内いたしましょう。ただし、わたしの馬車は2人乗りですから、おひとりずつ、わたしの都合のよい時にご案内いたしましょう」と言いました。

 こうして4人の兄弟は、年老いた執事に連れられて、「キンスカの木」を見に行くことになりました。ただし、見に行ったのは同じ季節ではありませんでした。



まず長男が連れて行ってもらったのは、冬の終わりのころでした。黒っぽい大きな枝一面に赤い小さなつぼみがいっぱいならんで春のおとずれをまっていました。



 次男が連れて行ってもらったのは、春のはじめのころでした。手の形をした赤い花が咲きほこっていて、藤の花のようにたれ下がっていました。


 三男が連れて行ってもらったのは、夏のはじめのころでした。青々とした葉が下から上まで生いしげっていました。


そして、四男が連れて行ってもらったのは、秋のはじまりのころでした。葉はすべて落ちて、大きなつつのようなさやが実を結び、枝一面にぶらさがっていました。


画 登光の仏教紙芝居より

4人は「キンスカの木」について、それぞれ感想を言い合いました。長男は「キンスカの木は黒くて大きくて、まるでもえた柱のように赤いはんてんがいっぱいついていたよ」と言いました。

すると次男は「ちがうよ。真っ赤な肉のかたまりのようだったよ」と言いました。ところが三男は「変だなぁ!ぼくが見たのは菩提樹のように青々と葉っぱが生いしげる大きな木だったよ」と言いました。最後の四男は「みんなが言っているのとぼくが見たものはちがうよ。葉っぱは1枚もなく、さやの形をした実のようなものでおおわれていたよ。ネムの木のようだなと思ったけどね」と言いました。

4人は同じ案内で、同じ森の同じ木を見てきたのに、答えがどれも違っていたので不思議に思いました。「どうしてなんだろう。父上に聞いてみよう」と、4人は一緒に王様のところへ行きました。

王様は4人の顔を見て、
「おまえたちが見てきたものは、どれもみなキンスカの木なのだよ。しかし、学習の仕方がまちがっている。王子たちよ、ただ自分で見ただけでは自分の考えが中心になって、物事を正しく判断できないのだ。おまえたちを案内した執事は、おまえたちより、よくキンスカの木を知っている。いわばおまえたちの先生だ。

ならば、『この木はいつもこのすがたをしているのですか?』と聞くようにしなければならない。おまえたちは季節によって変化するキンスカの木のすがたを理解していなかったのだ。                                                         
       ジャータカ248

類話 
相応部経典 六処相応 毒蛇品204「 キンスカ」(サンユッタニカーヤ35・204話。)


同一性

 生命あるものは何物であれ一つの有機体であり、決して同じ存在状態にとどまっていないのがまさにその有機体の本性といってよいだろう。

樫の実であるドングリは、いやその外皮を破って若々しい葉をつき出しはじめた樫の幼木でさえも、堂々と巨大に大空にそびえたつまでに成長した樫の大木とはまったく違ったものである。

とはいえ、 この変化のさまざまな局面を通じて、成長といった意味での連続性と明らかな同一性のしるしが存在しており、それ故にこそわれわれは、なにかある一つの植物 が、生成のさまざまな段階を経てきたことを知るのである。

鈴木大拙禅選集
「禅仏教入門」7より







二項関係

2022-09-13 19:01:00 | 哲学
二項関係

 動と静、生じることと滅すすること、有と無、これらは二項関係にあるといわれていますが、それに関する記事や解説をいくつか選んでみました。

二項対立 dichotomy  

 二項対立(にこうたいりつとは論理学用語の一つ。二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしているような様のことを言う。元々は一つの概念であったものを二分することにより、それを矛盾や対立をする関係へと持っていくことを二項対立と言うこともある。
     二項対立(WIKI)

対概念(ついがいねん)

 互いに対照的な要素を持ち、一方が言及される場合には自ずと他方の存在が前提されている、といった関係の概念。対をなす二つ一組の概念。    
  (実用日本語表現辞典)
    
反対概念

 論理学で、同一の類概念に属する概念のうち、その内包上最も対立度ないし差異の大きな概念。例えば、白と黒の関係。両者の間に灰色という中間の概念が介在する点が矛盾概念と異なる。

*内包とはある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延は具体的にどんなものがあるかを指すもの。 これらは互いに対義語の関係をもちます。
    (デジタル大辞泉)

 対義語•反対語

対義語・反対語・反意語・反義語とは、意味の上で互いに反対の関係にある語をいう。「善」⇔「悪」のように全く反対の概念を表す語を反対語、「右」⇔「左」のように、組になる語を対義語と区別することもある。
 (対義語•反対語辞典)

  対概念のイメージ
 
 
 相補性

 相補性とは、光や電子の粒子性と波動性や、古典論における因果的な運動の記述と量子論における確率的な運動の記述のように、互いに排他的な性質を統合する認識論的な性質であり、排他的な性質が相互に補うことで初めて系の完全な記述が得られるという考えのことである。

 相補関係

 複数の人や物事が、互いに相手を非常に重視する関係にあること 。緊密な関係、2つで1つ、一心同体、相補的な関係、相補的関係、互いを補い合う関係、2人で1セット等
     (Weblio類語辞書)

 表裏一体

 相反する二つのものが大もとでは一つであること。また、二つのものの関係が密接で切り離せないこと。

 表裏一体とは、「密接に結びついていて決して切り離せないこと」を意味します。 コインの表と裏は本来別々の面であっても、決して切り離すことはできないことから、二つのものが密接に結びついた関係にあるなら、それは一つであるという考えのもと用いられる言葉です。

 表裏一体の類義語・対義語 類義語には、決して分けられないという意味の「不可分」などが挙げられます。また「陰と陽」などの考えかたも表裏一体と同じだといえます。
 また対義語には「二律背反」が挙げられます。互いに矛盾し、決して交わらない二つのことを指す言葉です。

(表裏一体

小学館 大辞泉ほか)

 関係とはなかなかに難しいものですが、なんのことはない、人間が表裏一体そのものです。
    
   

     

  画 ルネ•マグリット









ゲーテ/色彩論

2022-09-10 11:48:00 | 哲学

   

ゲーテ(1749~1832)は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。


ゲーテ『色彩論』(1810)。ゲーテは自らの色彩論を、いわゆる「色彩環」を用いて論述し、色彩現象の全体的なあり方を明らかにしました。世界には無限に多様な色が存在しますが、色彩にはある種の対立関係も認められるとゲーテは考えます。彼はこれを「分極性」と呼びました。さらにゲーテは「色彩環」の直径の両端が互いを「よび求める」現象にも注目します。色同士の対立関係は、たとえば青と黄が濃くなると赤みがかった輝きをおびるという「高進性」の理論へも展開します。このような「分極性」「よび求め」「高進性」をもつ「色彩環」には、ゲーテによる色彩現象のトータルな把握が示されています。ゲーテの色彩論は、ヘーゲルの哲学にも影響を与えました。


分極性と高進性

 あらゆる自然の二大動輪の直観はすなわち分極性と高進性の概念である。

 分極性はわれわれが自然を物質的と考える限りにおいて物質の属性であり、高進性はわれわれが自然を精神的と考える限りにおいて自然の属性である。

 前者は不断の牽引と反発、後者は絶えず高昇しようとする内的欲求にある。しかし、物質は精神なしには、精神は物質なしにはけっして存在せず、また作用することができないので、物質もまた高進することが可能である。同様に精神もまた牽引し反発することをやめない。結合するために充分に分離し、充分に結合したあと再び分離できる者だけが真に考えることができるのと同じである。

ゲーテ論文「自然」への注釈より
 
 色彩論

 色彩は光の行為である。その能動的なはたらきと受動的なはたらきとによって生じ行
たものである。

 色彩と光は相互にきわめて厳密な関係を保っている。両者はともに自然の全体に属している。なぜなら、自己を眼という感覚を通して啓示しようとしているのは、自然全体にほかならないからである。

 同様に自然の全体は他の感覚に対しても自己の内部を開示する。目を閉じ、耳を開いて傾聴してみるがよい。いともかすかな気息から荒々しい騒音にいたるまで、きわめて簡素な単音から最高の和音にいたるまで、激情の叫びから穏やかな理性の言葉にいたるまで、そこで語っているのは自然そのものである。

 自然はこのようにその存在、その力、その生命、その諸関係を啓示しているので、無限の可視的世界を拒まれている盲人も、聴覚の世界の中に無限の生命あるものを捉えることができるのである。         
(まえがき)

 自然の全体は色彩を通して眼という感覚に自己を啓示する。しかし奇妙に聞こえようとも、眼が形を見ないということである。

 明と暗と色彩が合わさって初めて、対象と対象を、また対象の諸部分を相互に眼に対して区別するものを構成するからである。

 眼が存在するのは光のおかげである。未決定の動物的補助器官から、光は光と同じなものとなるべき一つの器官を呼び起こし、こうして眼は
光にもとづいて光のために形成される。それは内なる光が外なる光に向かって現われ出るためである。

 色彩のエネルギー



 物理的色彩、特にプリズムによる色彩は、かつてその特別なすばらしさとエネルギーのために、強烈な色彩とよばれた。しかしさらに考察すると、すべての色彩現象に著しい強烈さを容認することができる。

 色彩の暗い本性、その高い飽和性、この性質によってまさに色彩は厳粛であると同時に魅力的な印象をひき起こす。色彩は光が条件をくわえられたものとみなすことができるが、色彩も光なしで済ますことはできない。なぜなら、光は色彩が現れてくるための作用因の一つ、色彩現象の基盤、輝き出て色彩を啓示する強烈な力にほかならないからである。
 
 色彩の決定性



 色彩の生成と自己決定は同一である。光が普遍的な未決定のまま現われて対象を提示すると現在の事象がいかにもつまらなく見えるのに対して、色彩はいつでも特殊化されて、特徴的かつ意義深く現われる。

 一般的に見て色彩は二つの方向に向かって自己決定を行なう。色彩が提示する対立関係をわれわれは「分極性」と名づけ、プラスとマイナスによってひじょうによく表示することができる。

 プラスとマイナス、黄色と青、作用と反作用、光と陰影、明と暗、強と弱、暖と寒、近と遠、反発と牽引•••

 この特殊化された対立関係をそれら自身の中で混ぜ合わせても、両側の性質は互いに打ち消されれことはない。しかし、これらの性質が平衡点にもたらされ、両者のいずれをも特に認識できないようにされると、この混合は目に対して再び特殊な性質を帯びる。

 すなわち、それは一つの単一のものとして現われ、そのさい、われわれは合成されたということをもはや考えない。この単一なものをわれわれは緑と呼ぶ。

 さて、同じ源泉から生ずる二つの相対対立する現象が寄せ合わされても互いに消し合わず、第三の快適に知覚しうるものに結合される場合、この現象はすでに調和というものを示唆している。より完全なものはまだあとに残っている。

 赤への高進

青と黄が濃くなると、同時に必ず他の現象が一緒に現われてくる。色彩というものは、その最も明るい状態においてさえ暗いものである。それが濃くされるならばますます暗くなるのは必然的であるが、しかし同時にある輝きを帯びる。これをわれわれは赤味を帯びたという言葉で表わす。

   ー以下略ー
「色彩論」ちくま学芸文庫より
   
  ヘーゲル

 純粋な光のうちでは純粋な闇の中でと同様、見ることはできない。闇は光の中でも活動しているのだ。闇は光を限定して色にし、それによって光自身に初めて可視性を与えるからである。

 可視性は眼の活動であり、あの否定的な闇も、実在的、肯定的なものと見なされる光と同じだけこれに関与しているのである。

ヘーゲル『論理学』第1章「存在注3」より


「色彩論」概要

 もしもこの世界に光だけしかなかったら、色彩は成立しない。もちろん闇だけでも成立しない。光と闇の中間にあって、この両極が作用し合う「くもり」の中で色彩は成立する。

 色彩は単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と、自然たる光の共同作業によって生成するものである。

 音や香りなどの感覚もそうだが、色彩には、ただ客観的な自然を探求しようとする姿勢では捉えられないものがある。色彩は数量的、客観的に分析される光の中に最初から含まれているとすると、客観的に光を分析してゆけば色彩のことが分かるということになる。

 しかし、外界の光を分析するだけでは理解できない、眼の働きによる色彩の現象がある。灰色の像を黒地の上に置くと、白地の上の同じ像よりも明るく見える。この像を単独で、客観的に分析するだけでは明るさの違いは説明できない。これには眼の作用が関わってくるからである。

 対立するものが呼び求め合うというこのような運動が自然のうちに見いだされる。分極性の働きである。眼はひとつの色彩の状態にとどまらず、明るさと暗さという両極にあるものを呼び求め合うことによって新たなる色彩を生み出す。

 このように、静止した対象としてではなく、生成するものとしての色彩を見いだすのである。生きるとは活発に運動し、新たなるものを創造することである。

   

 白紙の上に色を付けた紙片を置いてそれをじっと見つめる。しばらくしてから色付きの紙片を取り去ると、白紙の上に紙片の色とは違う色の残像が浮かび上がる。その残像の色こそ対になっている色である。即ち赤は緑、黄は紫、青は橙の残像を出現させるのである。ここにも対立する色が呼び求め合う働き、分極性が見出される。色彩は静止したものではなく、それ自身の内部に力を有して運動するものであり、動きもその色単独のものではなく、他の色と結びついた動きである。色は有機的・生命的に捉えなければならない。

 眼は単なる青にも黄にも満足せず、それ以外の色を求める。黄と青は呼び求めあい、結合することによって第三の赤という高度なものを生み出す。赤はただ黄と青が混ざったというわけではなく、黄が橙を、青が紫を経て高みで合一したものである。黄色と青の絵の具はそのまま混ぜれば緑色になる。ここに分極性とならんで自然の中に見いだす力、高昇の働きがある。高昇とは自らを高め、発展させようとする上昇意欲である。赤は高昇の働きを経て合一しはたぶん、エネルギーに充ちた力強い色になっている。
 ゲーテ「色彩論」より(wiki)