二つに見えて、世界はひとつ

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キンスカの木/自己同一律

2023-08-15 16:23:04 | 哲学
自己同一律はわたしたちが実生活において普通に使っている論理であり特別なものではありませんが説明しようとするとなかなかうまく説明できないものです。以下の寓話で示されているのが自己同一律です。

キンスカの木

 むかし、インドのバーナラシーの王様に4人の王子がいました。ある日、仲のよい4人がいつものようにいろんな話をしている時、「キンスカの木を見たことがない。ぜひ見てみたい」ということになりました。そこで、何でも知っている年老いた執事に、キンスカの木を見に連れて行ってほしいと頼みました。

 すると執事は「ああ、そうですか。キンスカの木でしたら、あの森の奥のほうに大木がございます。わたしがご案内いたしましょう。ただし、わたしの馬車は2人乗りですから、おひとりずつ、わたしの都合のよい時にご案内いたしましょう」と言いました。

 こうして4人の兄弟は、年老いた執事に連れられて、「キンスカの木」を見に行くことになりました。ただし、見に行ったのは同じ季節ではありませんでした。



まず長男が連れて行ってもらったのは、冬の終わりのころでした。黒っぽい大きな枝一面に赤い小さなつぼみがいっぱいならんで春のおとずれをまっていました。



 次男が連れて行ってもらったのは、春のはじめのころでした。手の形をした赤い花が咲きほこっていて、藤の花のようにたれ下がっていました。


 三男が連れて行ってもらったのは、夏のはじめのころでした。青々とした葉が下から上まで生いしげっていました。


そして、四男が連れて行ってもらったのは、秋のはじまりのころでした。葉はすべて落ちて、大きなつつのようなさやが実を結び、枝一面にぶらさがっていました。


画 登光の仏教紙芝居より

4人は「キンスカの木」について、それぞれ感想を言い合いました。長男は「キンスカの木は黒くて大きくて、まるでもえた柱のように赤いはんてんがいっぱいついていたよ」と言いました。

すると次男は「ちがうよ。真っ赤な肉のかたまりのようだったよ」と言いました。ところが三男は「変だなぁ!ぼくが見たのは菩提樹のように青々と葉っぱが生いしげる大きな木だったよ」と言いました。最後の四男は「みんなが言っているのとぼくが見たものはちがうよ。葉っぱは1枚もなく、さやの形をした実のようなものでおおわれていたよ。ネムの木のようだなと思ったけどね」と言いました。

4人は同じ案内で、同じ森の同じ木を見てきたのに、答えがどれも違っていたので不思議に思いました。「どうしてなんだろう。父上に聞いてみよう」と、4人は一緒に王様のところへ行きました。

王様は4人の顔を見て、
「おまえたちが見てきたものは、どれもみなキンスカの木なのだよ。しかし、学習の仕方がまちがっている。王子たちよ、ただ自分で見ただけでは自分の考えが中心になって、物事を正しく判断できないのだ。おまえたちを案内した執事は、おまえたちより、よくキンスカの木を知っている。いわばおまえたちの先生だ。

ならば、『この木はいつもこのすがたをしているのですか?』と聞くようにしなければならない。おまえたちは季節によって変化するキンスカの木のすがたを理解していなかったのだ。                                                         
       ジャータカ248

類話 
相応部経典 六処相応 毒蛇品204「 キンスカ」(サンユッタニカーヤ35・204話。)


同一性

 生命あるものは何物であれ一つの有機体であり、決して同じ存在状態にとどまっていないのがまさにその有機体の本性といってよいだろう。

樫の実であるドングリは、いやその外皮を破って若々しい葉をつき出しはじめた樫の幼木でさえも、堂々と巨大に大空にそびえたつまでに成長した樫の大木とはまったく違ったものである。

とはいえ、 この変化のさまざまな局面を通じて、成長といった意味での連続性と明らかな同一性のしるしが存在しており、それ故にこそわれわれは、なにかある一つの植物 が、生成のさまざまな段階を経てきたことを知るのである。

鈴木大拙禅選集
「禅仏教入門」7より







不一不異/自己同一律

2023-08-14 23:40:00 | 日記


不一不異ふいちふに

 仏教辞典によると、中論の不一不異は「不ニ」のことであり色即是空の「即」の意味、華厳の「相即」の意であると説明されています。

そく

 二つの異なった性質の事象が、その差異を残しつつ一体化していること。不一不異(ふいつふい)、不二、不離であることなどの意。相即ともいう。
『般若心経』の冒頭にある「色即是空、空即是色」の「即」はこの意味であり、「色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり」と読む。
 (WEB版新纂浄土宗大辞典より)

 差異を残しつつ一体化している、との表現がいいですね。次も基本的なことは同じようです。

円融三諦えんにゅうさんたい

「円融」はお互いに融合しているが、それぞれ立場を保ちつつ妨げになっていないこと。 「三諦」は空、仮、中の三つの真理のこと。 天台宗が説く三つの真理のことで、全てのものには実体が存在しないという「空」と、全てのものは因縁によって存在するという「仮」と、それら二つを超越して存在しているという「中」のことをいう。


さらに加えるならこれもそうです。

 一如 いちにょ

仏教用語。一は不二の意味で,如は異なることがないという意。一でありながら異なるが,異なるといっても本質的に一であるということで,万有に遍在する根源的な原理である真如 (しんにょ) の説明に用いられる。
  ブリタニカ国際大百科事典

 仏教は日常では使わない否定形を多用するので何を言っているのかわかりにくのと、宗派により表現が異なるのが難点。

下図はテトラレンマ(論理を定式化したもの)を可視化したオイラー図。テトラレンマは肯定と否定の中間を認める論理。四句分別のことです。
 

下図は西洋の形式的論理の同一律。AはAである。BはBであるのオイラー図。

  

同一律ではAからBへの移行、あるいは関連性や連続性がうまく説明できません。
   

自己同一律

下は同一律と矛盾律を兼ねそなえた中論の図。読み方はAはAであり、BはBである。かつAはBでありBはAである。
この定式化A=Bを自己同一律と呼んではどうか、というのがわたしの意見。




 A=Bの論理は見ての通りです。AとB、それぞれ別のものが同じであり、同じでありながら別のものであるということで、空即是色や一如と同じ論理です。

 形式論理は思考中心の論理ですが仏教の論理は宗教的な内面的直覚にも対応しています。そこには形而上学的、心理学的裏付けがあるということです。

例:
梵我一如、心身一如等

アートマンとブラフマンは
一如である。A=B

 梵我一如の読み方は、アートマンはアートマンであり、ブラフマンはブラフマンである。同時にアートマンはブラフマン、ブラフマンはアートマンである。

 以下は不一不異の宗教的、心理的な面です。鈴木大拙の相互融合は自説である「即非の論理」を逆から表現したものです。

 相互融合(con-fusion)

 ある有名な真宗信者がいました。この人はまったく無学でしたが、真宗への信心はほとんど禅と同じで、よくこう言っていた。「浄土にいる瞬間は同時にこの世にいて、この世にいると言った瞬間、浄土にいる」と。

 この人は下駄作りの職人でした。彼はよく言いました。「わしが木を下駄の形に削っているときは、わしの腕も手も動いているが、この手も、この腕も、自分のものじゃない。アミダ仏のものだ」と。

 このアミダ仏を、神とかキリストと呼んでも構いません。そして「このアミダ仏がわしの手も腕も動かしている。アミダ仏がわしの身体で働いている」と言うのです。

 この「自分がアミダで、アミダはこのわしだ。」と同時に、「アミダはアミダ、わしはわしであって同じではない。」

 この混乱―この融合は、ふつうの意味の混乱ではないのです。「相互融合」(con-fusion)です。互いに融合しあうことで、私は「相互融合」と呼んでいます。ただ「雑然とまじりあう」だけならそれは混沌ですが、そうではない。
 
 「わたしはあなた、あなたはわたし。」同時に「わたしはわたし、あなたはあなた。」という世界です。

 ここがきわめて重要です。「わしが働いているとき、それはわしではなく、アミダが働いている。しかし、アミダはアミダ、わしはわし」という世界。このところは混同してはならない。

 そして「わしはアミダで、アミダはわしだ。それと同時に、わしはわし、アミダはアミダ」と言えるとき、そこに真宗の信心があり、本物の宗教的生活の原点が生まれるのです。

 これは宗教的生活を送る上できわめて重要な点です。宗教的人生が可能になるのは、この「融合」が起こり、同時に相互の区別が実際に可能となっているときです。

 アメリカン・ブディスト・アカデミー講演(1957年)CDブック「大拙禅を語る」より

 あなたと私

私たちの間から
あなたと私は消え去り
私は私ではなく
あなたはあなたではない。
かといって、
あなたが私なのでもない。

私は私でありながら、しかもあなた。
あなたはあなたでありながら、しかも私。
       ルーミーの詩

井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」(岩波新書)のp99、全集5巻

 上のルーミーの詩と読み比べて下さい。キリスト教神秘主義を代表するマイスター・エックハルトの説教からです。

 わたしと彼 

 わたしたちが彼を知るためには、像にもよらず、介するものなしに単純直接に知らなければなりません。しかし、どのようにしてでしょうか?

 彼は彼のままわたしに、
わたしはわたしのまま彼に、ならなければならないのです。

 もっとはっきり言いましょう。神はわたしに、わたしは神にならなければならないのです。
   エックハルト 説教83


ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207〜1273 )はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。

      

マイスター・エックハルト (1260年頃ー1328年頃)は、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者です。
     
 

 もう一度鈴木大拙にもどります。

見神体験/無分別の分別

 ほんとうの見神経験または見仏経験は禅経験における見性と同じく、見即是性、性即是見で、神または仏を見る者が、すなわち神(仏) 自らでなくてはならぬ。

  神(仏)は神(仏)自身を見ているということでなくてはならぬ。そうしてそこに一種の覚知がある、ただ見ているということだけでなく、見ていると知る者がある、もとよりこの知とかの見とは一物であるが、人間知識の制約として二つであるごとき言葉づかいをする、それが無分別の分別である。

鈴木大拙禅選集「禅の思想」p130







四句分別

2023-08-14 23:30:00 | 日記
以下は龍樹という仏教学者が著した『中論』という本からの、ものごとを解釈する四種の論理形式。

四句分別

 存在に関する四種の考察で、有と無についていえば、
①有り
②無し
③有りかつ無し
④有るに非ず無しに非ず
の四種となります。



①コップに水が半分ある。
②コップに水が半分ない。
③コップに水が半分あり、かつ半分ない。
④コップに水が半分なく、半分ある。

形式的論理では排中律によって、この「半分」という中間概念が排除されます。半分というようなあいまいな概念は真偽の対象にはならないからです。したがってコップに水が「ある」か「ない」かのどちらかの判断だけになります。


主観的と客観的

 この半分というのは主観的なものであり、「半分」という存在自体はないのです。これは比較による思考の内にだけある存在なのです。だから、形式的論理は客観的であろうとしてこの主観的判断を排除します。しかし現実は主観•客観的なものなので客観的なものの見方だけでは片目で見るようなもので現実の半分しか見ていないことになります。

上下、左右、遠近、大小、前後、美醜、憎愛、善悪、敵味方、去る来る、同じと異なる、速い遅い、等々。

 これらはすべてその中心に個人の存在があり、その主観を離れては意味のない概念(言葉)です。主観が上下左右、前後遠近、善悪美醜を決めるわけであり客観的にその基準があるわけではないから
です。



四句分別はその論理に中間概念を含めています。つまり論理の中に主観を含めているわけです。中論にはつぎのように書かれています。

18章•10  いかなるものでも縁によって生じるものはそれと同一ではない。しかし全く別でもない。それゆえに断絶でもなく常住でもない。

 これに関して面白い記事があります。「心の哲学まとめ」wikiからの引用です。

 感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。事物が別のものに変わるということ、たとえば青いつぼみが赤い花に変化する時などは、青いつぼみが「ないもの」になり、赤い花が「あるもの」になる。しかし「青いつぼみ」のどこを探しても「赤い花」は無い。すなわちゼロをいくら足しても乗じてもゼロであるゆえに、変化とは論理的に不可能だと主張することができる。また変化とは矛盾であるともいえる。丸いものが四角いものに変化したという場合、両者に同一性があるとするならば、どこかの時点で、これは丸いものでもあり、かつ別のものでもある、ということが許されていなければならない。しかしこれは矛盾律(Aは非Aではない)に反する。どれほど似ていようと、どれかの時点についていう限り、そのものは丸いか、そうでないかのどちらかしかない。つまりどの時点においても特定の一つの形しかもっていない。そして一つの形だけでは変化とはいわない。さらに変化のない形をすべて集めても変化とはいわない。結局変化とは、ある時点での特定の形と、別の時点での特定の形に、人が因果関係を見出すことによって生じる「概念」としての存在であり、変化そのものが実在しているとはいえない。



 □△○の同一性はそれが一本の線によって囲まれた図形という点にあります。この一本の線が丸くもなり四角にもなり三角にも五角形にも変化します。形はそれぞれ違っていてもただ一本の線でつくられているのにはかわりありません。線に注目した場合は「一」、図形に注目した場合は「多」、両者に注目した場合は「一即多」になります。

 廣松渉は、「変化」とは本質的に矛盾した存在様態であるという。別々のものの状態をいくら並べても変化とはいわない。変化とは或る一定のものの変化であって、或る同じものが一貫して存在しなければ変化という概念がそもそも成立しない。しかし同じものがあり続けるのなら無変化である。したがって同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を変化というものは孕んでいると指摘し、変化というものは不思議であると述べる。
(パルメニデス)より

「変化」と「同一性」は相反する概念である。物事が変化したなら別の物事になり同一ではない。しかし異なる時点において別の物事が並んでいるだけなら変化とは言わない。時点1ではFであり、時点2ではGであるとするなら、「FはFである」「GはGである」と言うべきである。FがGに「なる」と言う場合、それは人の推理を表しているのであって、変化は世界の事実とは言えない。このような厳密な同一律を根拠に変化の実在を否定したのが紀元前の哲学者パルメニデスであった。廣松渉は、変化とは同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を持っていると指摘している。
   (人格の同一性)より

自己同一律
いかなるものでも縁によって生じるものはそれと同一ではない。しかし全く別でもない。それゆえに断絶でもなく常住でもない。
     中論18章•10  

 龍樹のこの論理はまさに変化と同一性の論理といえそうです。これを西洋的に「自己同一律」と呼んではどうかというのが私の主張。