二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

素朴な考え

2023-06-28 12:43:00 | 心の哲学/心身問題

 常識的には、まず心と物とが相対立し、知るというのは心の働きと考えられます。しかしこのような考えはあまりにも素朴的であると彼は言います。    
   
   西田幾多郎

  物心の独立存在

 我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には「心」なる物があっていろいろの働きをなすように考えています。またこの考えがすべての人の行為の基礎ともなっています。しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求によりて仮定したまでで、いくらでも疑えば疑いうる余地があるのです。

 活動そのものが実在

 普通には何か活動の「主」があって、これより活動が起こるものと考えています。しかし直接経験よりみれば、活動そのものが実在です。この「主」というのは抽象的概念なのです。私たちは統一とその内容との対立を、互いに独立の実在であるかのように思うから、このような考えを生じるのです。
 
 主観と客観

 普通わたしたちは主観と客観とを別々に独立できる存在であるかのように思っています。そしてこの二つの作用により意識が生じるかのように考えています。つまり精神と物質の二つの実在があると考えていますが、それはまちがいです。

 主観・客観というのは一つの事実を考察するさいの観点の相違なのです。精神と物体の区別もこの見方から生じるのであり、事実そのものの区別ではありません。

 たとえば実際の花は単なる物体ではありません。色や形をそなえかおりのする美しく愛すべき花なのです。真の実在は普通に考えられているような冷静な知識の対象ではありません。

 それはわたしたちの情意より成り立ったものです。単なる存在ではなく意味をもったものです。ですからこの現実からわたしたちの情意を除き去ったなら、もはや具体的な事実ではなく単なる抽象的概念になります。

 それは学者の言う世界であり幅のない線、厚さのない平面と同じで、「実際に存在するもの」ではありません。この点より見て、学者よりも芸術家のほうが実在の真相に達しています。

 西田幾多郎『善の研究「実在」より

ひと目でわかるデカルトと道元の違い

2023-06-22 12:06:00 | 心の哲学/心身問題


 心身二元論 

 デカルトは、精神と身体の両者を、区別される2つの実体でありながら、相互作用が可能な関係にあるとする「心身二元論」を打ち立てました。この二元論は、「心身問題」として2つの問題を提起することになります。精神を物質からの独立の存在としてどのように認めるのかという問題と、非物体である精神が、どのように物体である身体を動かすのかという問題です。

 実体二元論の代表例であるデカルト二元論の説明図。デカルトは松果腺において独立した実体である精神と身体が相互作用するとした。
    

 1641年の著作『省察』より。
 
 つぎは心身一如による精神と身体の相互作用のイメージ。

道元は言います。
 全身、これが光明です。
 全身、これが全心です。
 全身、これが真実体です。
 全身、これが唯一の表現です。   
 道元:正法眼蔵第7「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」より
  
  金剛力士像

デカルトと道元の違い、これはまた同一律と自己同一律の違いでもあります。

 同一律は A=A B=B
  精神=精神 身体=身体

 自己同一律は A=B
     全身=全心

似たようにみえますがかなり違います。同一律は思考の論理であり自己同一律は直覚を含めた論理です。デカルトの心身二元論と道元の心身一如を比べるとその違いは一目瞭然です。

 デカルトは精神を身体の中にある物質のようなものと考えているのが図からわかります。そして松果腺において独立した実体である精神と身体が相互作用するとしましたがそんな場所で見れるはずがありません。

見るならここ、「表現する芸術の場」。ここが精神と身体の相互作用する場所だと思います。彫刻、絵画、音楽、ダンス、スポーツ、演劇、小説、もちろん哲学もです。日常の生活においても、むしろ相互作用でないのをさがすほうが困難ではないでしょうか。学者よりも芸術家のほうが実在の真相に達しています。

 また道元に戻ります。
     
 思慮分別を用いない

 ブッダの教えを学ぼうとする人は、つぎのことを知らなければなりません。

 仏道は思慮・分別をはたらかせたり、あれこれ推測したり想像したり、知覚や知的に理解することの外にあるということを。

 もし仏道がこれらのうちにあるのなら、わたしたちは常にこれらの中にあり、これらをさまざまに使いこなしているのになぜブッダの教えを理解できないのでしょうか。
教えを学ぶには思慮分別等を用いてはならないのです。

 ですから聡明であるとか、学問を先とせず、意識的なことを、観想を先とせず、これらすべてを用いることをしないでそして心身を調えて仏道に入るのです。

 ただただ、わが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れるのです。そうして仏の働きに従うのです。その時、なんの力もいれず心も用いずに、生死を離れて仏になるのです。

 道元「学道用心集」・正法眼蔵「生死」より


 まちがった道

 多くの人はいくら教えを聞いても二種の根本を知らないから間違った道に進むのである。二種の根本とはなんであろうか。そのひとつは清らかなる本体である。これは人々の本心である。これを人々は忘失している。

 もうひとつは輪廻の根本である、思慮分別の心を自分とする思いである。だから思慮分別の心を用いて修行したところで、それは輪廻の原因となるばかりであり、本心に至ることはないのだ。

 それはまるで砂を炊いて飯をつくろうとするようなものである。いくら炊き続けても熱砂となっても飯にはならないのだ。
     楞厳経 巻1ー13


✳追記
心と体のような関係を華厳宗では相即即入といいます。心と体が互いに対立せず,とけあって自在な関係にあることです。経典で色即是空や不二、不一不異、一如などと説かれているのと同じです。

相即相入(そうそくそくにゅう)

「相即相入」は、事物の働きが自在に助け合い融け合っていることを意味する「相即(そうそく)」と、関係が非常に密接で切り離せないことを意味する「不離(ふり)」を組み合わせた言葉です。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「相即相入」の解説




道元/心身一如

2023-06-07 07:16:00 | 心の哲学/心身問題

 デカルト式の実体二元論とは心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、心的なものと物質的なものはそれぞれ独立した実体であるとし、またその心的な現象を担う主体として「霊魂」のようなものの存在を前提とする説です。

 この実体二元論を採る人の多くは、宗教上の理由や信仰心との関連からこの立場に立っているようです。実体ニ元論に基づけば、肉体が亡びた後も霊魂は生き続けられるという結論が導かれるからです。死後の世界や輪廻転生があると信じる伝統的な宗教信仰者たちにとっては受け入れやすい説です。彼らは次のように考えます。
    
『自分の身の中にひとつの霊があり、それは何かに出会うと、よく好悪を判断し、是非を分別する。痛痒を知り苦楽を知るのもすべてこの霊の力である。しかもこの霊はこの身が死んで滅びるとき、身体を抜け出してまた別の場所で生まれ変わるので、これは永遠の存在なのである』・・・と。

 これに対して真っ向から反論するのは道元です。
  

 このような考えは泥や石を黄金の宝と思うより、さらにひどい間抜けなことです。このような間違った教えに耳を傾けてはなりません。

 仏法では身体と心は「一如」であり、二つでないと説きます。生まれて死ぬ、この事実がそのまま涅槃なのだと自覚しなさい。

 生死のほかに涅槃を説くことはありません。ましてや、心は身体を離れて永遠の存在なのだとまちがった理解をして、それが生死を離れた仏の智恵である、などと考えたところで、そう理解し分別する心は、生じたり滅したりして、まるで不変でありません。なんともたよりないことではありませんか。

  道元「弁道話」より





我思うゆえに我あり

2023-06-07 07:05:00 | 心の哲学/心身問題

ルネ・デカルト (1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。 合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。(ウィキペディア)




 哲学の第一原理


 わたしは、真理の探究において次のように考えた。


 ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、 わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と。


 こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純な ことがらについてさえ、推論を間違えて誤謬推理をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証と見なしていた推理をすべて偽として捨て去った。


 最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考がすべて そのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。


 すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしはある」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認めたから、 この真理を、求めていた「哲学の第一原理」として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。


 私とは何か

 次に、私とは何であるかを注意深く検査し、何らの身体をも持たぬと仮想することができ、また私がその中で存在する何らの場所もないと仮想することはできるが、そうだからといって私が全く存在せぬと仮想することはできないこと、それどころではない、私が他のものの真理性を疑おうと考えるまさにこのことからして、私の存在することがきわめて名証的に、きわめて確実に伴われてくること、それとはまた逆に、もしも私が考えること、ただそれだけをやめていたとしたら、たとえこれよりさきに、私の推量していた他のあらゆるものがすべて真であったであろうにもせよ、私自身が存在していたと信ずるための何らの理由をも私は持たないことになる。


精神と肉体は別個の実体

 このことからして、私というものは一つの実体であって、この実体の本質または本性とは、考えるということだけである。そうして、かかる実体の存在するためには、何らの場所をも必要とせぬし何らの物質的なものにも依頼せぬものであることを、したがってこの「私」なるもの、すなわち私をして私であらしめるところの精神は身体と全く別個のものであり、なおこのものは身体よりもはるかに容易に認識されるものであり、またたとえ身体がまるで無いとしても、このものはそれがほんらい有るところのものであることをやめないであろうことをも、私は知ったのである。


 「デカルト 方法序説四部」


それは「我」ではない

2023-06-02 12:04:00 | 心の哲学/心身問題
ゴータマ・ブッダは、紀元前5世紀前後の北インドの人物で、仏教の開祖。
 
 
以下はブッダの思想のもっとも基本的なものである「無我」の教えです。南伝のパーリー経典から幾つか選びました。


 聞いたことのない教え

 あなたたちよ、わたしの教えを知らなくてもこの<身>のあることを歎き、厭い、解放されたいと願う者は多い。そこに生死老病を見るからである。しかし、この<心>と呼ばれるものについてはこれを厭い、これから解放されたいと願う者はいない。

 なぜなら、彼らはそれを「自分」であると信じているからである。しかしながら、この心を「自分」と思うよりも、身体を「自分」と思うほうがまだしもましなのである。

 なぜなら、この身体は50年あるいはもっと長く存続するであろう。しかしこの<心>と呼ばれるものは、日夜に転変し生じては滅するものなのである。

 南伝大藏経13巻  
 相応部経典12「無聞」


 砂の城

 あなたたちよ、世間の人々が心といい身体と呼んでいるのは砂で造られた城のようである。それは、まるで子供たちが砂で城をつくって遊んでいるようなものである。

 渇愛のある間は彼らはそれに夢中になっているのだ。しかし、渇愛がなくなれば、彼らは自分の手であるいは足でその砂の城を壊して立ち去るのである。

相応部 ラーダ相応-2「衆生」


 つながれた犬

 あなたたちよ輪廻はその始まりがわからない。無明におおわれ、渇愛に縛られ流転し輪廻する人の過去はしられない。

 まるで彼らは柱に革紐でつながれた犬のようである。
いくら歩いても立っても寝そべってもいつも柱から離れられない。ただ柱のまわりをいつまでもグルグルと回るばかりである。

 私の教えを知らない世俗の人々は、この犬のようである。この肉体を自分だと思い、心や感情の動きや、その思いなどを自分そのものであると思い込む

 これが彼らの柱であり、いつもこのまわりをグルグルと回り歩いている。

 相応部 蘊相応100「繋縄」


 絵の中の世界

「あなたたちはチャラナという絵を見たことがあるか。」そう言ってブッダはビクたちに語りかけた。

 あの絵は、人の心が描き出したものである。あなたたちよ、あの絵より、さらに多彩なものを人の心は描き出す。

 あなたたちよ、絵かきは白い布に絵筆をはしらせ、美しい女の姿やあるいは男の姿を、その顔立ちから身のこなしまで実にたくみに描くものである。

 わたしの教えを知らない世間の人々は、絵かきと同じようにその心の筆で、さまざまなものを描き出しているのだ。そしてそのことに気づいていない。

 相応部 蘊相応100「繋縄」


 重荷

 重荷とはあなたの心であり、あなたの思いであり、あなたの身体である。

 そうとは知らずに背負うのが世間の人である。その世間でも荷物を背負うのは苦といい、荷物をおろすのは楽と言う。

 あなたは重荷を捨てるがよい。重荷を取ってはならない。

 渇愛を根絶したならば人は無欲にして涅槃に入る。

相応部 蘊相応重荷品「重荷」