二つに見えて、世界はひとつ

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苦の終極/バーヒヤ経

2024-07-11 21:59:00 | 仏教の大意
 南伝パーリー経典に収められている見聞覚知と自己との関係に関するブッダの簡潔な教え「バーヒヤ経」です。
祇園精舎跡

バーヒヤ経

樹皮衣のバーヒヤは南の島スリランカから長いながい旅の末に、ようやく北方コーサラ国の首都サーヴァッティーにあるジェータ林の園で托鉢中のブッダに会うことができた。

 バーヒヤはその場で教えを求めた。しかし、ブッダは今は托鉢中である、という理由で二回も「後で説法します」と断りました。ところが、バーヒヤは「食べることは何時でもできるが、人はいつ死ぬかわからないのでその前に浄らかなこころを作ることが大事ではないか」と、ブッダを説き伏せて説法を聞く機会を得ました。ブッダはその場で立ったままバーヒヤに説法をしました。


平山郁夫画「祇園精舎 ブッダの説法」

「それではバーヒヤよ、あなたは次のように学ぶがよい。

 見たものの中には
 見ただけのものがあり、

 聞いたものの中には
 聞いただけのものがあり、

 考えたものの中には
 考えただけのものがあり、 

 知ったものの中にはただ
 知っただけのものが
 あるであろう、、と。

 バーヒヤよあなたはこのように学ぶがよい。バーヒヤよ、

あなたが見たものの中には
ただ見ただけのものがあり、

聞いたものの中には
ただ聞いただけのものがあり、

考えたものの中には
ただ考えただけのものがあり、

知ったものの中には
ただ知っただけのものがある。

バーヒヤよ、あなたは
そこにはいないのである。

バーヒヤよ、そこにあなたがいないから、バーヒヤよ、あなたはこの世にも彼の世にもその二つの中間にもいないのである。これこそが苦の終極である。」

 ウダーナ(自説経)菩提の章10


祖師西来意/円悟

2023-04-07 10:53:00 | 仏教の大意

密雲円悟(みつうん えんご、(1566ー1642年)は中国の明末の臨済宗天童派の禅僧。以下は円悟の書簡からの引用です。
   

「それは諸君の面前に示されており、この今の瞬間、 全体は諸君に手渡されているのだ。利根の者にとっては、その真理を納得させるに、一語でもって十分であるのだが、しかしそこにすでに誤りがはいっている。 ましてや、それが紙墨に書きつけられ、あるいは言語による表示とか論理的な表現にうつされたときには、 その誤りはますます大きくなり、その時それは諸君のもとから、はるか遠くに逃げ去ってしまうのだ。

 禅の偉大な真理は、各人各人にそなわったものである。それを自己の存在のなかに求めていくべきであり、他のものに求めてはならない。 諸君のそれぞれの心は、あらゆる形体を超えたものであり、自由にして閑静、充足したものであり、それはどこまでも、六根四大にみずからを刻印していくものである。その光なかにあっては、あらゆるものが呑み込まれてしまうのだ。

 主観•客観といった二元論を沈黙させ、二つながらを、忘れ去り 、知性を超え、みずからの悟性を離れて、直下 に仏心の一に透徹すべきである。これ以外に、いかなる実在とてもないのだ。この故に、菩提達磨が西方より渡来してきた(祖師西来)とき、彼はただ「まっすぐに自己自身の心を指し示せ( 直指人心)。 わが教説は無比なものであって、経典の教えに束縛されることなく真の心印を単伝するものである(教外別伝• 単伝正印」と宣言したのであった。

 禅は文字•言葉•経典となんのかかわりももたない(不立文字)。それは直下に真実を捉え、そしてそこに安心の地を見出すよう、諸君に要求するのみである。

 心の平静が乱されたとき、 悟性が動き、対象が認識され、いろいろと観念が心に浮かんできて、妄想があらわれ、偏見がはびこってくる。そうなったとき、禅はもはや迷路のうちに見失われているのである。

鈴木大拙禅選集
「禅仏教入門」禅とは何か?より

見出し画 達磨図 伊藤若冲筆 
   いおうじゃくちゅう
江戸時代  十八世紀



祖師西来意/黄檗

2023-02-03 09:48:00 | 仏教の大意

祖師西来意そしせいらいい

九月一日、
師は私に話された。

  黄檗希運禅師画
  

 達摩大師が中国に来られてこのかた 、説かれたのはただ一つの心だけであり、伝えられたのはただ一つの法だけである。

 その伝え方は、仏(心仏)によって仏を伝えるという方式で、 それ以外の仏を取り出すことはなく、また法(心法)によって法を伝え るという方式で、それ以外の法を取り上げることはなかった。

 その法とは言い表わしようのない法であり、その仏とは把握しようのない仏である。つまり本源清浄心なのである。このことだけが唯一真実の教えであり、その他の教えは真実ではない。 

般若とは智慧であるが、その智慧とは、ほかでもない、姿かたちのない本源の心のことである。しかし凡夫は道を目ざすことなく、ただおのれの六情のみをほしいままにし、かくて六道の世界を歩むのみである。
     黄檗伝心法要[六]


無心の法門

無心とは、一切の心がないことである。 そのあるがままの本体は、内は木や石のように、動かず揺がす、外は虚空のように、塞がれることも妨がられることもなく、何かの働きの主体でも客体でもなく、顔かたちもなければ、得ることも失うこともない。

 しかし道をめざす人たちは、 この「無心の法門」に入ろうとせぬ。虚空に落ちこんで、自分の足場がなくなりはしないかと恐れるからである。そのため崖を望んでは退き、誰もみな一様に知的解釈ばかりを求める。このように知解を求めるものは数知れずいるが、 道を悟るものはめったにおらぬ。
       伝心法要[二]


本源清浄心

 ほかならぬこの本源清浄の心こそは、生きとし生けるものや、もろもろの仏たち、さては山河大地や形あるもの形なきものの一切とともに十方世界にあまねく、 すべて平等であって、彼我の差別相はない。

 この本源清浄の心は、つ ねに完全な輝きに満ちて、あまねく一切を照らす。しかるに世の人はこの内なる光に目ざめず、ただ見聞覚知を認めて心となし、見聞覚知のために覆われる。それゆえに精明なる本体そのものを観ない。

 ただ直下に無心ならば、本体は自から顕現すること、 あたかも虚空に昇った大日輪が、あまねく十方を照らしてさまたげることのないようなものである。

 されば、ただ見聞覚知のみを認める者たちは、その拠りどころとする見聞覚知を取り払われてしまうと、おのが思念の路を絶たれて、途方に暮れることになろう。

 ほかならぬその見聞覚知の場そのものに、おのが本心(本源の心)を認めよ。しかしながら、本心そのものは見聞覚知に属するのでもなく、かといって見聞覚知と離れてあるのでもない(不即不離)。

 要は、おのが見聞覚知に立って解釈を試みようとせぬこと、また、その見聞覚知について見解起こしてはならない。また想念を働かせてはならない。

 また見聞覚知を離れて心を求めてはならない。また見聞覚知を捨てて法を取ってはならない。つかず離れず、居すわらず執着しなければ(不即不離、不住不著)、縦横自在にていずこも道の場である。
       伝心法要[三]


自己を忘れること

 凡人は外のものを取るが道を求める人は内の心を取る。そして外も内も忘れてしまう。外のことを忘れるのはまだしも簡単だが心を忘れるのは至難のわざである。

 多くの人は心を忘れることができない。虚無に落ち込んでしまうと恐れるからである。ところが「空」には無なるものはなく、あるのは万有あるがままの世界なのである。
      伝心法要[五]

  

 黄檗希運、おうばく きうん、生年不詳 -(850年))は、中国唐代の禅僧。黄檗山黄檗寺を開創。臨済宗開祖の臨済義玄の師として知られる。

見出し画
山梨県向嶽寺の赤達磨鎌倉時代の作で国宝に指定されています。

❴参】
上の記事に関連し、14世紀イギリスのキリスト教神秘主義的書物「不可知の雲」から、仏教との類似を指摘される文章です。


不可知の雲

 •••おそらくそのとき神はときおり神との間に介在する「不可知の雲」を突き破って霊の光を放射し人の語ることのできない神の秘密の一部をあなたに示すであろう。 
      
 •••それ故に、あなたが持っているなにかある被造物に関する知識、特にあなた自身に関して所有しているすべての知識と感情を捨てなさい。なぜなら、一切の被造物にたいする知識と感覚は、すべて自己にかんする知識と感覚に依存しているからである。

 そして自己を忘れることにくらべれば、他の被造物を忘れるほうが比較にならないほど容易なのだ。

 あなたがこの試行に熱心にとりかかれば、すでに他の全被造物とその働き、およびあなた自身の活動を忘れてしまったあとでもなお、あなたと神とのあいだに、あなた自身の存在の赤裸な知識と感覚が残っていることを見いだすであろう。

 あなたが観想活動の完成を感じるに先立ち、この自己にたいする知識と感覚を根絶することが必要である。
(43章)

 •••これを「無」というのは誰であるか。それは、外的な人であって、内的な人ではない。内的な人は、それを「万有」と呼ぶ。(68章)
  

内なる自己のさとり

2023-01-31 22:34:00 | 仏教の大意
アメリカン・ブディスト・アカデミーにおいての講演(1958年 春)より、この時大拙八十八歳。

 
外なる自己と内なる自己

 われわれには、外なる心と内なる心、もしくは外なる魂と内なる魂があると言えます。

 われわれの外なる自己は意識の表面で働いている浅薄なものであり、この浅薄さは二つに分れるところから来ています。われわれが「これが私の自己である」とか 「これが私の内なる自己である」と考えるとき、その自己は必ず二つに、自己とそれに対立するものに、分割されます。われわれが自己を意識すれば、必ず考える自己と考えられた自己ー主観と客観ーが出て来ます。われわれの意識の中には常に主観と客観が現前しています。

 主観と客観は、分れる前は、まだ主観も客観もないところから出現します。われわれが自然に見るこの世界は、知的に再構成されています。つまりそれは真実の世界ではありません。

 われわれは感覚と感覚の背後に働いている知性によって世界を作り変えてしまっているのです。われわれはこの世界を再構成するにとどまらず、われわれの造作が真実のものであると思い始めるのです。

 ふつうわれわれは外なる心もしくは外なる自己にもたれており、内なる自己に、内奥の自己に依っていない。内奥の自己は、相対的意識の測り知ることのできない深淵の底に沈んでいます。 

 この自己は普段は意識の表面上を動いているさまざまなものの幾重もの層の下にうまく隠されています。ふつうわれわれはこの表面上のものを真実の自己だと思っているのですが、実際はそうではありません。

 真実の内なる自己を覚醒させるのは難しいことです。真宗の教えでは、その内なる自己を覚めさせるために、アミダの名を、ナムアミダブツを 称えるのです。しかし単にナムアミダブツというだけでは、内なる自己は覚めません。 ナムアミダブツは本当に信じて至心に称えるのでな ければならないのです。


至心になること

 われわれはアミダの誓願の成就を信じきって、至心にその名を称えるのです。信頼して至心にその名を称えれば、一度だけでよいのです。ところが、ふつうわれわれの称名は至心になっていません。われわれは、自分は至心でありアミダか何かを完全に信じていると思っています。しかし、本当の信仰、本当の至心はまったくそういう意識を持たないのです。至心が自らを意識しているかぎり、それは純粋ではありません。だから至心は、「私は至心だ」とは言わないのです。

  そのような態度がほんのわずか、たとえ目につかぬほどの微々たるものであって も、無意識の深層に残るかもしれません。無意識は意識ではあり得ないが、そこにはまだ何がしかの意識が潜在しています。そしてこの意識が無意識の中に残存しているがゆえに、時おりそれが不意に出現して、「どうしてだろう、私はこんなに至心であるのに、人は私の言うことを信じてくれぬ」と言うのです。もしこんな感じ方をするとすれば、至心になりきっているときでも、われわれはまったく至心でないのです。そういう意識を残しながらアミダの名を称えても、浄土に生まれることはできません。


 自己を忘れること
 
 それゆえ、ナムアミダブツを称えるとは、完全に自己を忘れることでなければなりません。ナムアミダブツと言っていることすら意識しないのです。しかし、 この 私がナムアミダブツと一体になり、名号を称えている当人であ ることを忘れるとしても、まだ充分でありません。名号そのものが名号を称えている、ナムアミダブツがナムアミダブツを称えている、と感得するとしましても、も し意識が残存しておれば、それはまだ至心ではありません 。

  至心とは完全に自己を忘れることです。しかし同時に、単なる忘却ではありませ ん。通常われわれは多くのことを忘れながらいろんなことをしているのですが、その種の忘却ではありません。宗教的忘却、霊性的な無意識への転入――― それがいか なる忘却であり、いかなる無意識であるかは、自分自身で経験するしかないのです。

   ー中略ー

 形而上学的に言えば、そういう瞬間はわれわれが本当に至心を経験する時であり、 キリスト者なら「自己の放棄」と言うだろうところを経験する時であります。自己 の放棄は相対性の放棄であり、それは主観も客観も至心も至心ならざるものも知ら ない内奥の自己へ参入することです。至心を意識すれば、われわれはふつうまた至心ならざるものをも意識します。なぜなら両者は互いにからみあっているからです。

  至心と至心ならざるものの相対が超えられるとき、アミダはわれわれの内なる自己 にはいり、この自己と一体になります。言い換えれば、この自己は自らをアミダの中に
見出すのです。そして、自己をアミダの中に見出すとき、われわれは浄土にいます。

 私の結論は、アミダはわれわれの内奥の自己だということです。そしてその内奥の自己を見出すとき、われわれは浄土に生まれるのです。

 鈴木大拙 「真宗入門」第2章「内なる自己のさとり」より 春秋社

いいこと聞いた/あなたとわたし

2023-01-30 21:46:00 | 仏教の大意
山陰の妙好人

浅原才市(あさはら さいち)は1850年(嘉永3年)島根県の生まれ。浄土真宗の妙好人のひとり。

 

 昭和の妙好人といわれ、町の人々に慕われ尊敬されました。船大工や下駄職人で生計を立てていましたが、晩年に五千とも一万とも言われる句を書き綴りました。

 ある日、才市老人がアミダ様と顔を合わせました。不思議なことにそのアミダ様の顔をよく見るとそれは才市自身の顔でした。

 才市は言いました。

〇わしが親さま、
  見たことあるよ。
 よくよく見れば、
  わしが親さま、
 なむあみだぶつ。

〇あなた顔見りや、
  ふしぎなあなた。
 あなた顔見りや、
  あなたわたしで、
   わたしもあなた。
 なむと、あみだわ、
  あなたとわたし。

〇わたしや、
 あなたに拝まれて、
「助かってくれ」と
  拝まれて。
 ご恩うれしや、
  なむあみだぶつ。

〇聞いた聞いた 
  いいこと聞いた。
 凡夫が仏になると聞いた。

〇風と空気はふたつなれど、
 ひとつの空気、 
  ひとつの風で、

 わしと阿弥陀は
  ふたつはあれど、

 ひとつお慈悲の
  なむあみだぶつ。

〇ええな、
 せかい虚空がみなほとけ。
  わしもその中
   なむあみだぶつ。

〇如来さんよい、
  わしがなむなら、
   あなたはあみだ。

 わしとあなたで、
  なむあみだぶつ。
      浅原才市


  浅原才市は「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介されました。  
 

 ✧Shin and Zen
 (浄土真宗と禅宗

 禅宗と真宗には共通点があります。禅宗でも真宗でも共に求めるものは、私が「エンライトンメント」と呼ぶもの、日本語でいう「悟り」です。真宗では悟りではなく、ただ「信心」(faith)と呼びます。しかし、「信心」も「悟り」も同じことで、呼び方が違うだけです。

 仏教語の定義では、信心とは、自分以外の何かではなく自分自身を信ずること、それが信心であり、悟りなのです。知的な用語を使えば、自分自身を信ずることは、認識論的には「悟り」であり、宗教的には「信心」です。

 このように信心は、悟りもそうですが、自己を直接、直感的に把握することです。自己がとらえにくいことは、初めに話したとおりです。このとらえがたい自己は、科学的には把握できない。ただ直観的、それもふつうの直観ではなく、私が他のすべての直感と峻別する「般若智」という超越的な直覚によるのです。

 つまり、物事の全体性を全体として把握する。次から次へと個別的に把握するのではありません。この種類の直覚には自己を把握する力があり、自己が把握されるのです。それを、ある資質の人は「信心」と呼び、別の資質の人は「悟り」と呼ぶのです。

 一般に、真宗はアミダ仏による救済を目指すと理解されています。アミダ仏が悟りを得て創った浄土へと導かれる。真宗信者は、浄土へ着いたその瞬間に悟りを得るのです。もはや「信心」とも信仰とも呼ばず、「悟り」と呼ぶのです。

 アミダ仏が我々を浄土へ導く目的は、一人一人に悟りを得させるためで、浄土では、そこに生まれた瞬間に悟りが得られるようになっているのです。

 相対的、限定的なこの世にいる限り、すべて因果律に縛られています。しかし、浄土へ行けば、因果律は無効になって消滅します。この有限の世界が境界線をすべて突破して制約を打破すれば、そこは無限の世界となって、制約はすべて取り払われる。これが悟りの体験です。

 しかし、真宗の人たちは、この世にいるあいだ、自己を限定的な見方に閉じ込めています。そう信じている限り、この限定的な世界からは出られません。しかし死後、つまり生死の束縛から解放されると浄土に生まれる。そうすると、有限の世界は無限の世界へ溶け込み、悟りが可能になるのです。それを真宗では「信心決定」と呼んでいます。
 
  相互融合 
 (con-fusion)

 ある有名な真宗信者がいました。この人はまったく無学でしたが、真宗への信心はほとんど禅と同じで、よくこう言っていた。「浄土にいる瞬間は同時にこの世にいて、この世にいると言った瞬間、浄土にいる」と。

 この人は下駄作りの職人でした。彼はよく言いました。「わしが木を下駄の形に削っているときは、わしの腕も手も動いているが、この手も、この腕も、自分のものじゃない。アミダ仏のものだ」と。

 このアミダ仏を、神とかキリストと呼んでも構いません。そして「このアミダ仏がわしの手も腕も動かしている。アミダ仏がわしの身体で働いている」と言うのです。

 この「自分がアミダで、アミダはこのわしだ。」と同時に、「アミダはアミダ、わしはわしであって同じではない。」

 この混乱―この融合は、ふつうの意味の混乱ではないのです。「相互融合」(con-fusion)です。互いに融合しあうことで、私は「相互融合」と呼んでいます。ただ「雑然とまじりあう」だけならそれは混沌ですが、そうではない。
 
 「わたしはあなた、あなたはわたし。」同時に「わたしはわたし、あなたはあなた。」という世界です。

 ここがきわめて重要です。「わしが働いているとき、それはわしではなく、アミダが働いている。しかし、アミダはアミダ、わしはわし」という世界。このところは混同してはならない。

 そして「わしはアミダで、アミダはわしだ。それと同時に、わしはわし、アミダはアミダ」と言えるとき、そこに真宗の信心があり、本物の宗教的生活の原点が生まれるのです。

 これは宗教的生活を送る上できわめて重要な点です。宗教的人生が可能になるのは、この「融合」が起こり、同時に相互の区別が実際に可能となっているときです。

 アメリカン・ブディスト・アカデミー講演(1957年)CDブック「大拙禅を語る」より