二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

心は実在しない

2023-07-02 12:05:00 | 心の哲学/心身問題
鈴木大拙は日本の禅を世界に広く普及させた仏教学者です。その鈴木大拙の「禅選集」から心身問題に関する記述から3つ選びました。
    

 心は実在しない

 禅は実在としての心の存在を強く否定する。しかし、この否定は、知的判断の結果ではなくして、実際の経験にもとづくのである。精神や思想や物質の二元論的観念は、人間意識を毒して、自己をほんとうに理解することを妨げてきた。

 このために、禅は「無心」を主張することきわめて強い。これを論理的に主張するのでなく、事実として主張するのである。「心」という観念に執着する意識の痕跡をぬぐい去ってしまうために、禅は種々な実践的な方法をもちいる。
   禅選集3「悟り」より


 身と心は抽象

 私たちは身体と精神というようなものを区別して、それが別々の個在であるかのように語るが、事実の上では心も身も一種の抽象で、そんなものが個として別在するわけではない。

 ただ、一般的に実用向きに話して便利がよいので、昔からそんな風に見てきただけのことである。これが心で、あれが身だといって、別個の実体を認めるのは、まだ深く考えない結果である。われわれはいずれも無始劫来といってよいほどその迷夢からさめないでいる。

 われらの経験事実そのものには身も心もない、主観も客観もない、我も非我もない。これらはいずれも反省の結果である、再構成である。分極化である。身と心は概念上、分別上においてこそ、二つの個在と見られるが、経験事実の上では何と区別すべきではないのである。

 話の上で身と心とを分けると、はなはだ便利なので、俗世間のみならず、少し理屈をいうときでも、身といい心というのである。が、これがため、起こさなくてもよい疑問が起こって、かえってそれに迷わされることが多いのである。

 たとえば死んだらどうだとか、身は腐朽するが、心はどこへ行くかというような疑問、これらは最初の第一歩を踏み出し損ねたので次から次へ疑いの雲は重なるばかりで、なかなか晴れないのである。  
   禅選集5「禅百題」より

 未分化の場所

 人間の世界は合理性によってつくりかえられていて、そこには事物がつねに対立し、この対立によって人は考え、その考えが逆に投影されて一切の経験界となり、したがって、両断されたこの世界は無限に倍加していく。禅の方法は論理的ないし哲学的方法に正反対の全く異なったコースをとる。すなわち一切のものが分起する以前の内的自己に還れというのだ。

 普通、人は究極の安息所をもとめるために自己自身から遠ざかってゆくものだ。歩き続けてついに神に到着するが、禅の道は逆に進む。つまり前に進まず、後方に進む。

 その道は混沌とした未分化の場に到達する、禅は一切の二分作用というものがまだ萌芽せぬ以前の世界を見るのである。
    禅選集3「悟り」より
 
 大拙の最晩年,90歳前後に書かれた思想的エッセイを収録した『東洋的な見方』から3つ。

分割は知性の性格

 分割は知性の性格である。
まず主と客を分ける。われと
ひと、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。

 主客の分別をつけないと、知識が成立しない。知るものと知られるものーこの二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのがその特徴である。

 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。

 二元性を基底にもつ西洋思想には、もとより長所もあれば短所もある。個々特殊の具体的事物を一般化し、概念化し、抽象化する、これが長所である。
 (東洋文化の根底にあるもの)
 
数は分割するもの

 数は分割をその性格とする。一筋に延べられた鉄のように、切れ目がなくては手のつけようがない。それを各種の数に分割することにより、人間五官の世界、分別識の世界にわかりやすくなる。

 人間生活の一面はこの分割性を基礎として成立している。ゆえに数は有限である。無限のままでは人間の役に立たない。いかなる数もことごとく有限でないと、人間の官能ではつかめない。分割または分析できないものは人間の役に立たないことになっている。 

 いかに精密な科学でも、結局は人間の五官が分別識に訴えるよりほかない。実は人間世界の事物は、何であっても、ことごとく五官と分別識の要請によって、了解が可能になる。

 ただし、人間世界の全部を通貫して、有限な数の外にあるものに、気がつかないと、行き詰まりにおちいるのである。  (東洋的な見方)
 

見るものと見られるもの

 人間の考えというものは、二つのものが相対していないと出てこないのである。一つだけだと、何も考えることなどない。すなわち移るということ、移らぬということ、いいかえれば、永遠と転移との二つを対照させてはじめて刻々に移る時間と、少しも変わらぬ永遠とが考えられる。

 人間の意識は経験そのものを離れて経験を見ることができるから、出てくるのである。すなわち見るものと、見られるものが二つになるからである。 (時間と永遠) 



    
 

純粋経験/直接経験

2023-07-02 09:53:00 | 心の哲学/心身問題

純粋経験

概要

 理知的な反省が加えられる以前の直接的な経験、すなわち、あとからつけ加えられた概念、解釈、連想、構成などの不純な要因をあたう限り排除することによって得られた原初的な意識状態をさす。おそらくは幼児がもつと思われる、自と他、物と心といった区別が生ずる以前の未分化で流動的な意識のことをいう。

 日本大百科全書
 「純粋経験」の解説より

 哲学で、まだ主観・客観に分かれない根源的な直接経験をいう。ウィリアム=ジェームズにおける「意識の流れ」や、ベルグソンにおける「純粋持続」の類。また、西田幾多郎は、ジェームズらの考え方に禅体験を加味して独特のものを作りあげた。 
  精選版 日本国語大辞典
  「純粋経験」の解説より

以下は西田幾多郎著「善の研究」の冒頭の章。読みやすく編集しています。


 純粋経験/直接経験

 経験するというのは事実を事実そのままに知るということです。 全く自己の細工をすてて、事実に従って知るのです。 純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交じえているから、全く思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのです。

 たとえば、色を見、音を聞く瞬間、未だこれが外物の作用であるとか、私がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのです。それで純粋経験は直接経験と同一です。

 自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もなく、知識とその対象とが全く合一しています。これが混じりけない、経験の最も純粋な状態です。

 「善の研究」第1編第1章


 具体的なもの

 純粋経験の直接にして純粋なるゆえんは、それが単一であって分析ができないとか、瞬間的であるということにあるのではなく、それが「具体的なもの」であるということにあるのです。
        (同1編1章)

 実在とは

自分で自分の意識現象を直覚すること、この純粋経験の事実のほかに実在はありません。  (1編2章)

 厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、 個人等の形式に拘束されるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越する直覚によりて成立するものです。また実在を直視するというも、すべて直接経験の状態においては主客の区別はありません。実在と面々相対するのです。  (1編4章)


 意識の原初状態

 純粋経験は事実の直覚そのままであって、意味がないといわれている。このようにいえば、純粋経験とはなんだか混沌無差別の状態であるか のように思われるかもしれないが、種々の意味とか判断と かいうものは経験そのものの差別より起るので、後者は 前者より与えられるのではない、経験はおのずから差別相をそなえたものでなければならない。

 コンディヤックがいったように、我々が始めて光を見た時にはこれを見るというよりもむしろ我は光そのものである。すべて最初の感覚は小児にとりてはただちに宇宙そのものでなければならぬ。この境涯においては未だ主客の分離なく、物我一体、ただ、一事実あるのみである。 我と物と一なるがゆえに更に真理の求むべきものなく、欲望の満すべきものもない、人は神と共にあり、エデンの花園とはかくのごときものをいうのであろう。

 しかるに意識の分化発展するに従い主客相対立し、物我相背き、人生ここにおいて要求あり、苦悩あり、人は神より離れ、楽園はとこしえにアダムの子孫より閉ざされるようになるのである。

 しかし意識はいかに分化発展するにしても到底主客合一の統一より離れることはできぬ、我々は知識において意志において始終この統一を求めているのである。
    同 四編一章より


 知識の木の実

 わたしたちが知識の木の実を食べるとき、すなわち反省により意識が知識へと変わるとき、現実であったものが観念的となり、具体的であったものが抽象的になり「一」であったものが「多」となります。

 ここにおいて一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、すべての物は互いに相対し、すべての物は対立するようになるのです。
    同 四篇四章より


西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870 - 1945は、日本の哲学者。著書に『善の研究』などがある。


西田幾多郎の論理図
  

 主観と客観とは一つの実在の両極ともいうべきものであり、相離すことのできないものである。 
 西田幾多郎哲学論集「場所•私と汝」の「種々の世界」より岩波p10 
 精神現象と物体現象とを各自独立の実在とは見ないで、具体的経験の相関的な両方向と考えるのである。直接の具体的経験は心理学者のいわゆる意識のようなものではなく、それぞれのアプリオリの上に建つ連続であって、その統一作用の方面が主観と考えられ、これに対峙する被統一的対象の方面が客観と考えられるのである。しかし真の客観的実在は連続そのものである。
 同「種々の世界」より岩波p26







 

素朴な考え

2023-06-28 12:43:00 | 心の哲学/心身問題

 常識的には、まず心と物とが相対立し、知るというのは心の働きと考えられます。しかしこのような考えはあまりにも素朴的であると彼は言います。    
   
   西田幾多郎

  物心の独立存在

 我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には「心」なる物があっていろいろの働きをなすように考えています。またこの考えがすべての人の行為の基礎ともなっています。しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求によりて仮定したまでで、いくらでも疑えば疑いうる余地があるのです。

 活動そのものが実在

 普通には何か活動の「主」があって、これより活動が起こるものと考えています。しかし直接経験よりみれば、活動そのものが実在です。この「主」というのは抽象的概念なのです。私たちは統一とその内容との対立を、互いに独立の実在であるかのように思うから、このような考えを生じるのです。
 
 主観と客観

 普通わたしたちは主観と客観とを別々に独立できる存在であるかのように思っています。そしてこの二つの作用により意識が生じるかのように考えています。つまり精神と物質の二つの実在があると考えていますが、それはまちがいです。

 主観・客観というのは一つの事実を考察するさいの観点の相違なのです。精神と物体の区別もこの見方から生じるのであり、事実そのものの区別ではありません。

 たとえば実際の花は単なる物体ではありません。色や形をそなえかおりのする美しく愛すべき花なのです。真の実在は普通に考えられているような冷静な知識の対象ではありません。

 それはわたしたちの情意より成り立ったものです。単なる存在ではなく意味をもったものです。ですからこの現実からわたしたちの情意を除き去ったなら、もはや具体的な事実ではなく単なる抽象的概念になります。

 それは学者の言う世界であり幅のない線、厚さのない平面と同じで、「実際に存在するもの」ではありません。この点より見て、学者よりも芸術家のほうが実在の真相に達しています。

 西田幾多郎『善の研究「実在」より

ひと目でわかるデカルトと道元の違い

2023-06-22 12:06:00 | 心の哲学/心身問題


 心身二元論 

 デカルトは、精神と身体の両者を、区別される2つの実体でありながら、相互作用が可能な関係にあるとする「心身二元論」を打ち立てました。この二元論は、「心身問題」として2つの問題を提起することになります。精神を物質からの独立の存在としてどのように認めるのかという問題と、非物体である精神が、どのように物体である身体を動かすのかという問題です。

 実体二元論の代表例であるデカルト二元論の説明図。デカルトは松果腺において独立した実体である精神と身体が相互作用するとした。
    

 1641年の著作『省察』より。
 
 つぎは心身一如による精神と身体の相互作用のイメージ。

道元は言います。
 全身、これが光明です。
 全身、これが全心です。
 全身、これが真実体です。
 全身、これが唯一の表現です。   
 道元:正法眼蔵第7「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」より
  
  金剛力士像

デカルトと道元の違い、これはまた同一律と自己同一律の違いでもあります。

 同一律は A=A B=B
  精神=精神 身体=身体

 自己同一律は A=B
     全身=全心

似たようにみえますがかなり違います。同一律は思考の論理であり自己同一律は直覚を含めた論理です。デカルトの心身二元論と道元の心身一如を比べるとその違いは一目瞭然です。

 デカルトは精神を身体の中にある物質のようなものと考えているのが図からわかります。そして松果腺において独立した実体である精神と身体が相互作用するとしましたがそんな場所で見れるはずがありません。

見るならここ、「表現する芸術の場」。ここが精神と身体の相互作用する場所だと思います。彫刻、絵画、音楽、ダンス、スポーツ、演劇、小説、もちろん哲学もです。日常の生活においても、むしろ相互作用でないのをさがすほうが困難ではないでしょうか。学者よりも芸術家のほうが実在の真相に達しています。

 また道元に戻ります。
     
 思慮分別を用いない

 ブッダの教えを学ぼうとする人は、つぎのことを知らなければなりません。

 仏道は思慮・分別をはたらかせたり、あれこれ推測したり想像したり、知覚や知的に理解することの外にあるということを。

 もし仏道がこれらのうちにあるのなら、わたしたちは常にこれらの中にあり、これらをさまざまに使いこなしているのになぜブッダの教えを理解できないのでしょうか。
教えを学ぶには思慮分別等を用いてはならないのです。

 ですから聡明であるとか、学問を先とせず、意識的なことを、観想を先とせず、これらすべてを用いることをしないでそして心身を調えて仏道に入るのです。

 ただただ、わが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れるのです。そうして仏の働きに従うのです。その時、なんの力もいれず心も用いずに、生死を離れて仏になるのです。

 道元「学道用心集」・正法眼蔵「生死」より


 まちがった道

 多くの人はいくら教えを聞いても二種の根本を知らないから間違った道に進むのである。二種の根本とはなんであろうか。そのひとつは清らかなる本体である。これは人々の本心である。これを人々は忘失している。

 もうひとつは輪廻の根本である、思慮分別の心を自分とする思いである。だから思慮分別の心を用いて修行したところで、それは輪廻の原因となるばかりであり、本心に至ることはないのだ。

 それはまるで砂を炊いて飯をつくろうとするようなものである。いくら炊き続けても熱砂となっても飯にはならないのだ。
     楞厳経 巻1ー13


✳追記
心と体のような関係を華厳宗では相即即入といいます。心と体が互いに対立せず,とけあって自在な関係にあることです。経典で色即是空や不二、不一不異、一如などと説かれているのと同じです。

相即相入(そうそくそくにゅう)

「相即相入」は、事物の働きが自在に助け合い融け合っていることを意味する「相即(そうそく)」と、関係が非常に密接で切り離せないことを意味する「不離(ふり)」を組み合わせた言葉です。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「相即相入」の解説




道元/心身一如

2023-06-07 07:16:00 | 心の哲学/心身問題

 デカルト式の実体二元論とは心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、心的なものと物質的なものはそれぞれ独立した実体であるとし、またその心的な現象を担う主体として「霊魂」のようなものの存在を前提とする説です。

 この実体二元論を採る人の多くは、宗教上の理由や信仰心との関連からこの立場に立っているようです。実体ニ元論に基づけば、肉体が亡びた後も霊魂は生き続けられるという結論が導かれるからです。死後の世界や輪廻転生があると信じる伝統的な宗教信仰者たちにとっては受け入れやすい説です。彼らは次のように考えます。
    
『自分の身の中にひとつの霊があり、それは何かに出会うと、よく好悪を判断し、是非を分別する。痛痒を知り苦楽を知るのもすべてこの霊の力である。しかもこの霊はこの身が死んで滅びるとき、身体を抜け出してまた別の場所で生まれ変わるので、これは永遠の存在なのである』・・・と。

 これに対して真っ向から反論するのは道元です。
  

 このような考えは泥や石を黄金の宝と思うより、さらにひどい間抜けなことです。このような間違った教えに耳を傾けてはなりません。

 仏法では身体と心は「一如」であり、二つでないと説きます。生まれて死ぬ、この事実がそのまま涅槃なのだと自覚しなさい。

 生死のほかに涅槃を説くことはありません。ましてや、心は身体を離れて永遠の存在なのだとまちがった理解をして、それが生死を離れた仏の智恵である、などと考えたところで、そう理解し分別する心は、生じたり滅したりして、まるで不変でありません。なんともたよりないことではありませんか。

  道元「弁道話」より



心身脱落、脱落心身

十三世紀、宋朝が栄えた頃、後の日本曹洞宗の開祖道元が支那に渡り如浄禅師の下で禅を学んだ。師は道元に只管打坐を教えた。

 やがて道元は、師が教えよう とするところを会得した。彼は師の前に、「身心脱落、脱落身心」とその見解を呈した。脱落とは、外から手を加え て落すのではなく、熟した果実が樹から落ちるように、おのずから落ちるのである。「身心脱落』、そして彼は更に、「脱落心身』という。

 つまり、AはBなり、同時にBはAなり、である。

 如浄はこれを聞いて、「汝これを得たり」と許した。

 身も心も脱落し、一切が無に帰した。これは否定であると考えられよう。では何が残るのか。〈無〉だがこの〈無〉は、 一般に考えられているような、有に対する無ではない。ここがむずかしいところである。

「身心脱落」そして更に 「脱落身心」。ゆえに、完全なる、絶対的脱落である。だが、それを云うのは一体誰か。一切が消滅し、自己も消滅した。 そこには誰もいない。しかし、道元は、一切が消滅したと云って、その体験を経た自己を師の前に呈した。そこには何かがなければならぬ。その何かが〈無〉である。これは矛盾であるが、その矛盾が同一し、その同一が絶対的肯定である。

鈴木大拙全集第29巻 p309−310
「禅と日本文化」より