二つに見えて、世界はひとつ

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内なる自己のさとり

2023-01-31 22:34:00 | 仏教の大意
アメリカン・ブディスト・アカデミーにおいての講演(1958年 春)より、この時大拙八十八歳。

 
外なる自己と内なる自己

 われわれには、外なる心と内なる心、もしくは外なる魂と内なる魂があると言えます。

 われわれの外なる自己は意識の表面で働いている浅薄なものであり、この浅薄さは二つに分れるところから来ています。われわれが「これが私の自己である」とか 「これが私の内なる自己である」と考えるとき、その自己は必ず二つに、自己とそれに対立するものに、分割されます。われわれが自己を意識すれば、必ず考える自己と考えられた自己ー主観と客観ーが出て来ます。われわれの意識の中には常に主観と客観が現前しています。

 主観と客観は、分れる前は、まだ主観も客観もないところから出現します。われわれが自然に見るこの世界は、知的に再構成されています。つまりそれは真実の世界ではありません。

 われわれは感覚と感覚の背後に働いている知性によって世界を作り変えてしまっているのです。われわれはこの世界を再構成するにとどまらず、われわれの造作が真実のものであると思い始めるのです。

 ふつうわれわれは外なる心もしくは外なる自己にもたれており、内なる自己に、内奥の自己に依っていない。内奥の自己は、相対的意識の測り知ることのできない深淵の底に沈んでいます。 

 この自己は普段は意識の表面上を動いているさまざまなものの幾重もの層の下にうまく隠されています。ふつうわれわれはこの表面上のものを真実の自己だと思っているのですが、実際はそうではありません。

 真実の内なる自己を覚醒させるのは難しいことです。真宗の教えでは、その内なる自己を覚めさせるために、アミダの名を、ナムアミダブツを 称えるのです。しかし単にナムアミダブツというだけでは、内なる自己は覚めません。 ナムアミダブツは本当に信じて至心に称えるのでな ければならないのです。


至心になること

 われわれはアミダの誓願の成就を信じきって、至心にその名を称えるのです。信頼して至心にその名を称えれば、一度だけでよいのです。ところが、ふつうわれわれの称名は至心になっていません。われわれは、自分は至心でありアミダか何かを完全に信じていると思っています。しかし、本当の信仰、本当の至心はまったくそういう意識を持たないのです。至心が自らを意識しているかぎり、それは純粋ではありません。だから至心は、「私は至心だ」とは言わないのです。

  そのような態度がほんのわずか、たとえ目につかぬほどの微々たるものであって も、無意識の深層に残るかもしれません。無意識は意識ではあり得ないが、そこにはまだ何がしかの意識が潜在しています。そしてこの意識が無意識の中に残存しているがゆえに、時おりそれが不意に出現して、「どうしてだろう、私はこんなに至心であるのに、人は私の言うことを信じてくれぬ」と言うのです。もしこんな感じ方をするとすれば、至心になりきっているときでも、われわれはまったく至心でないのです。そういう意識を残しながらアミダの名を称えても、浄土に生まれることはできません。


 自己を忘れること
 
 それゆえ、ナムアミダブツを称えるとは、完全に自己を忘れることでなければなりません。ナムアミダブツと言っていることすら意識しないのです。しかし、 この 私がナムアミダブツと一体になり、名号を称えている当人であ ることを忘れるとしても、まだ充分でありません。名号そのものが名号を称えている、ナムアミダブツがナムアミダブツを称えている、と感得するとしましても、も し意識が残存しておれば、それはまだ至心ではありません 。

  至心とは完全に自己を忘れることです。しかし同時に、単なる忘却ではありませ ん。通常われわれは多くのことを忘れながらいろんなことをしているのですが、その種の忘却ではありません。宗教的忘却、霊性的な無意識への転入――― それがいか なる忘却であり、いかなる無意識であるかは、自分自身で経験するしかないのです。

   ー中略ー

 形而上学的に言えば、そういう瞬間はわれわれが本当に至心を経験する時であり、 キリスト者なら「自己の放棄」と言うだろうところを経験する時であります。自己 の放棄は相対性の放棄であり、それは主観も客観も至心も至心ならざるものも知ら ない内奥の自己へ参入することです。至心を意識すれば、われわれはふつうまた至心ならざるものをも意識します。なぜなら両者は互いにからみあっているからです。

  至心と至心ならざるものの相対が超えられるとき、アミダはわれわれの内なる自己 にはいり、この自己と一体になります。言い換えれば、この自己は自らをアミダの中に
見出すのです。そして、自己をアミダの中に見出すとき、われわれは浄土にいます。

 私の結論は、アミダはわれわれの内奥の自己だということです。そしてその内奥の自己を見出すとき、われわれは浄土に生まれるのです。

 鈴木大拙 「真宗入門」第2章「内なる自己のさとり」より 春秋社

いいこと聞いた/あなたとわたし

2023-01-30 21:46:00 | 仏教の大意
山陰の妙好人

浅原才市(あさはら さいち)は1850年(嘉永3年)島根県の生まれ。浄土真宗の妙好人のひとり。

 

 昭和の妙好人といわれ、町の人々に慕われ尊敬されました。船大工や下駄職人で生計を立てていましたが、晩年に五千とも一万とも言われる句を書き綴りました。

 ある日、才市老人がアミダ様と顔を合わせました。不思議なことにそのアミダ様の顔をよく見るとそれは才市自身の顔でした。

 才市は言いました。

〇わしが親さま、
  見たことあるよ。
 よくよく見れば、
  わしが親さま、
 なむあみだぶつ。

〇あなた顔見りや、
  ふしぎなあなた。
 あなた顔見りや、
  あなたわたしで、
   わたしもあなた。
 なむと、あみだわ、
  あなたとわたし。

〇わたしや、
 あなたに拝まれて、
「助かってくれ」と
  拝まれて。
 ご恩うれしや、
  なむあみだぶつ。

〇聞いた聞いた 
  いいこと聞いた。
 凡夫が仏になると聞いた。

〇風と空気はふたつなれど、
 ひとつの空気、 
  ひとつの風で、

 わしと阿弥陀は
  ふたつはあれど、

 ひとつお慈悲の
  なむあみだぶつ。

〇ええな、
 せかい虚空がみなほとけ。
  わしもその中
   なむあみだぶつ。

〇如来さんよい、
  わしがなむなら、
   あなたはあみだ。

 わしとあなたで、
  なむあみだぶつ。
      浅原才市


  浅原才市は「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介されました。  
 

 ✧Shin and Zen
 (浄土真宗と禅宗

 禅宗と真宗には共通点があります。禅宗でも真宗でも共に求めるものは、私が「エンライトンメント」と呼ぶもの、日本語でいう「悟り」です。真宗では悟りではなく、ただ「信心」(faith)と呼びます。しかし、「信心」も「悟り」も同じことで、呼び方が違うだけです。

 仏教語の定義では、信心とは、自分以外の何かではなく自分自身を信ずること、それが信心であり、悟りなのです。知的な用語を使えば、自分自身を信ずることは、認識論的には「悟り」であり、宗教的には「信心」です。

 このように信心は、悟りもそうですが、自己を直接、直感的に把握することです。自己がとらえにくいことは、初めに話したとおりです。このとらえがたい自己は、科学的には把握できない。ただ直観的、それもふつうの直観ではなく、私が他のすべての直感と峻別する「般若智」という超越的な直覚によるのです。

 つまり、物事の全体性を全体として把握する。次から次へと個別的に把握するのではありません。この種類の直覚には自己を把握する力があり、自己が把握されるのです。それを、ある資質の人は「信心」と呼び、別の資質の人は「悟り」と呼ぶのです。

 一般に、真宗はアミダ仏による救済を目指すと理解されています。アミダ仏が悟りを得て創った浄土へと導かれる。真宗信者は、浄土へ着いたその瞬間に悟りを得るのです。もはや「信心」とも信仰とも呼ばず、「悟り」と呼ぶのです。

 アミダ仏が我々を浄土へ導く目的は、一人一人に悟りを得させるためで、浄土では、そこに生まれた瞬間に悟りが得られるようになっているのです。

 相対的、限定的なこの世にいる限り、すべて因果律に縛られています。しかし、浄土へ行けば、因果律は無効になって消滅します。この有限の世界が境界線をすべて突破して制約を打破すれば、そこは無限の世界となって、制約はすべて取り払われる。これが悟りの体験です。

 しかし、真宗の人たちは、この世にいるあいだ、自己を限定的な見方に閉じ込めています。そう信じている限り、この限定的な世界からは出られません。しかし死後、つまり生死の束縛から解放されると浄土に生まれる。そうすると、有限の世界は無限の世界へ溶け込み、悟りが可能になるのです。それを真宗では「信心決定」と呼んでいます。
 
  相互融合 
 (con-fusion)

 ある有名な真宗信者がいました。この人はまったく無学でしたが、真宗への信心はほとんど禅と同じで、よくこう言っていた。「浄土にいる瞬間は同時にこの世にいて、この世にいると言った瞬間、浄土にいる」と。

 この人は下駄作りの職人でした。彼はよく言いました。「わしが木を下駄の形に削っているときは、わしの腕も手も動いているが、この手も、この腕も、自分のものじゃない。アミダ仏のものだ」と。

 このアミダ仏を、神とかキリストと呼んでも構いません。そして「このアミダ仏がわしの手も腕も動かしている。アミダ仏がわしの身体で働いている」と言うのです。

 この「自分がアミダで、アミダはこのわしだ。」と同時に、「アミダはアミダ、わしはわしであって同じではない。」

 この混乱―この融合は、ふつうの意味の混乱ではないのです。「相互融合」(con-fusion)です。互いに融合しあうことで、私は「相互融合」と呼んでいます。ただ「雑然とまじりあう」だけならそれは混沌ですが、そうではない。
 
 「わたしはあなた、あなたはわたし。」同時に「わたしはわたし、あなたはあなた。」という世界です。

 ここがきわめて重要です。「わしが働いているとき、それはわしではなく、アミダが働いている。しかし、アミダはアミダ、わしはわし」という世界。このところは混同してはならない。

 そして「わしはアミダで、アミダはわしだ。それと同時に、わしはわし、アミダはアミダ」と言えるとき、そこに真宗の信心があり、本物の宗教的生活の原点が生まれるのです。

 これは宗教的生活を送る上できわめて重要な点です。宗教的人生が可能になるのは、この「融合」が起こり、同時に相互の区別が実際に可能となっているときです。

 アメリカン・ブディスト・アカデミー講演(1957年)CDブック「大拙禅を語る」より




妙好人

2023-01-27 18:48:00 | 仏教の大意

 妙好人(みょうこうにん)
 妙好人とは、浄土教の篤信者、特に浄土真宗の在俗の篤信者を指す語で、他力の信心を得たすぐれた念仏者。また、念仏者をほめていう語です。そのほとんどは農民を中心とする庶民的な念仏者です。以下はそのような妙好人の一人である森ひなさんの歌です。読みやすく編集しています。

 無題

 アミダと親子でありますが、時どき煩悩になやむのは避けられません。本当になんと恥かしいことでしょう。ナムアミダブツ。

 煩悩を持たないように努めてみても、ますますたくさん心の中に押し寄せます。本当になんと恥ずかしいことでしょう。ナムアミダブツ。

 邪悪の自己を見てみれば、いかに哀れなものかわかります。かわいい我にも愛想が尽きます。なんと恥ずかしいことでしょう。ナムアミダブツ。

 まことに私は醜い老婆、いやになるような悪いやつ。でも私は親さまと一緒、決して離れぬ親さまよほんとになんとありがたいこと。ナムアミダブツ。

 悪の道を避けんとし、常に浄土を希いつつ、この心そのものがまったく自力にほかなりません。私は今なんとありがたいことでしょう。

 まったく盲目でしたのに、私はそれを知りませんでした。大丈夫だと思って来たのは何と恥ずかしいことでしょう。

 私の称える念仏は私のものだと思っていました。しかしそうではありません。それはアミダの喚び声でした。本当になんとありがたいことでしょう。ナムアミダブツ。

 必ずや悪道に落ちるに決っているので、私には浄土も悪道も無用です。
      妙好人 森ひな


 ひなさんと大拙師の会話が残っています。

ヒナさん
『わが機、ながめりや、あいそもつきる、わがみながらも、いやになる。ああ、はづかしや、なむあみだぶつ』

『いやになるやうな、ざまたれ、ばばに、ついてはなれぬ、おやござる。ああ、ありがたい、なむあみだぶつ』

大拙師
「わが身ながらもいやになると書いてあるが、これあんたの煩悩やろ。この煩悩、半分わしに分けてくれんか?」

ヒナさん
「いや、あげられん」

大拙師
「なんでや?あいそもつきるような煩悩なら分けてくれんか?」

ヒナさん
「いや、これは分けられん」
「この煩悩あればこそ、この煩悩照らされて(如来さんというはたらきに)であえたんや」

大拙師
「そうやったな、儂もおばあちゃんの二倍も三倍も煩悩もっとるさかい、お互い、この煩悩大切に生きていこうな」
  

  妙好人

 わたしたちの日常の生活は、言うまでもなく、心配や不安や恐怖に満ちています。わたしたちはこういう難問の只中に安穏ならざる生活をしているのですが、妙好人はそのような困難に少しも影響を受けません。

 妙好人はわたしたちと同じ日常的な問題を持ってはいますが、わたしたちほどそれに縛られません。妙好人は貧困や恐怖を免れてはいませんが、それに束縛されません。妙好人はそういう困難から離脱することができるのです。束縛されながら、しかも自由です。

 彼女が「私はいつもアミダ自身と一緒です」と言っているのはこのことです。
もし不安や恐怖や心配がなかったら、「いつもアミダ自身と一緒です」とは言えなかったでしょう。これが最も大事なところです。あらゆる宗教教義はそういう経験を指し示しています。

 わたしたちは、聖者はきわめて崇高で、ふつうわたしたちが持つような煩悩をまったく持たないと考えがちです。しかしそうではありません。

 もしある聖者を、世俗をまったく離れているという理由でたたえるならば、きっとその聖者は、「何をおっしゃいますか。私はまったくあなたがたと同様の悪い人間です」と言うでしょう。そして、「しかし、こういうもろもろの煩悩にもかかわらず、私をそれから解き放ち、神とともにあらしめる何かがあります」と言い添えるでしょう。

 この婦人の告白は実にすばらしい。知的な観点からすれば、もし人が常にアミダと共にあり他力の現在を自覚しているのであれば、どうしてその人の心が煩悩をやどしたり自己嫌悪を感じたりするだろうかということになります。それはわれわれの知的な推論です。現実の生活に曖昧と矛盾は常に起こるものです。そういう矛盾にもかかわらず、妙好人は、こういう真に宗教的な人たちは、自らの得たところを喜び感謝するのです。

 慢心が去れば卑謙が生じます。卑謙は他力の認識です。卑謙が体得されれば、すばらしい喜びが出てきます。卑謙はその人をまったくみじめに感じさせるかもしれません。実際そうであります。しかし同時に、その人はみじめさとは正反対の感情を感得するのです。喜びが生まれ満足が来ます。 

 他力

 真宗は自力と他力を区別します。自力はキリスト教の慢心に相当し、他力は卑謙によって来るのです。自力や慢心が打ち砕かれると、人は面目を失います。そしてこの屈辱感がやがて卑謙となり他力に通ずるのです。

 われわれは、本当に謙虚になってこの卑謙の情を経験するには、慢心を棄て謙虚であるように努めねばならないと思いがちです。そのときわれわれは、これは他力によってなされると考えるかもしれませんが、それがもう自力を使っているのです。われわれがすべて他力だと思うとき、その意識そのものが、それが自力だということを証明しているのです。

 他力は実際には思いがけなくやってきます。われわれが本当に他力を得るとき、他力は完全にわれわれの意識を把え、自力は去ってしまいます。他力がわれわれの意識の範囲を全領するとき、それを他力であると認識させるものは何か、と問う人がいるかもしれません。事実、そこには他力の意識すらないのです。なぜなら、他力が偏満してこれに対立するものは何もないからです。ここでは言葉の力は敗北します。他力が現存し、私はそれを意識するのですが、その他力は私の意識全体を私だと見ます。しかし私は現存しています。

 私は私であり、他者は他者でありながら、しかもそこに表現しがたい意識が生じています。表現すれば、それは不条理なものになるのです。だから他力は、自分自身で体得するのでなければなりません。 

 鈴木大拙「真宗入門」第五章・妙好人より

見出し画
「アフロ大仏」と称される金戒光明寺の「五劫思惟阿弥陀仏」



人間本来の心

2023-01-26 08:11:00 | 仏教の大意
国宝・一編上人絵伝


 人間本来の心  

 およそ、大乗仏教の仏法は、心の外に別の世界を考えることはない。すべてのものは始めもなければ終わりもない本源的で清浄なる心である。ところが、我に執着する※妄心に覆われて、その実体が現れにくい。

 そのような人間の清浄なる心が、アミダ仏の本願の力によってアミダ仏と一体になるとき、人間の本来の心が開くのである。
   
 極楽浄土がこの世界から10万億の仏国土を過ぎた彼方にあるということは、実際には距離のことではなく、人々の妄執がいかに浄土とかけ離れているかを示している。

 それで善導はいっている。「人々は迷妄愛執が深いため、浄土との隔たりが実際には竹の皮ほどのものなのに、まるで彼此の間を千里もあると思っている。」だから「観無量寿経」にも『アミダ仏は此を去ること遠からず』と説いている。これはアミダ仏が人々の心から遠く離れていないということである。

 一遍上人語録 巻下72

一遍(1239 - 1289)は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。
  


 外道

 心の外に真実を求めるのを外道という。
心の外に対境を置いて念を起こすのを迷いという。

 対境をなくした
 「一なる」ところの
 本来の心は妄念なし。

心と対境がそれぞれ別であり二つあると思うから生死流転するのである。

 一遍上人語録 巻下66

国宝一編上人絵伝




 畑に隠された宝

 ひとりの貧しい女の畑に宝が埋まっていた。家族は誰もそのことを知らなかった。そこへ旅人がやってきて、告げた。「あなたの宝をほり出してあげるから、草を刈ってほしい」。
 女は 
「できません。もしあなたが私の息子に宝の埋まっている証拠を見せてくれるなら、あなたのために働いてもよいのですが」という。
その人は「私はやり方を知っているから、きっと見せてあげられます」という。
 女は
「家の者が知らないのにどうして、あなたのようなよそ者に分かるのですか」といぶかる。

 そこで、その人は実際に畑を掘って宝をとり出したので、その女は大へん喜び、まことに奇特なことと思って、その人を尊敬した。

 あなたたちの内なる仏性もこれと同じことだ。誰もそれを見ることができないが、ただ如来だけがそれを知っている。畑に埋まっている宝とはあなたたちの内にある仏性をいうのである。
        涅槃経

※【妄心】 もうじん
「もうしん」とも、仏語。
煩悩にけがされた心。迷いの心。誤った分別心のこと。

「妄心(もうしん)もし起こらば、知って随(したが)うことなかれ~」
弘法大師空海の言葉『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』より





仏を観るための経典

2023-01-21 08:01:00 | 仏教の大意

仏心 ぶっしん
 仏心とは、仏のこころ。大慈悲のことをいう。また、一切衆生に本来備わっている仏性のこと。仏心とは主体となる心のこと。心主、心王ともいう。『観無量寿経』には「仏心者大慈悲是」とある。 禅においては仏の悟りを指して仏心と呼ぶ。禅宗は仏の悟りを直に体得することを求めるので、経宗に対して別名仏心宗を称する。 (ウィキペディア)

仏を観るための経典
 (観無量寿経)
   
 あなたは知っているだろうか。アミダ仏のおられるその国が、ここから遠くないということを。あなたは精神を集中し、その国を観想しなさい。そうすればやがてあなたは鏡に自分の顔を映して見るようにその清らかな国を見ることができるであろう。

国宝「日想観図」平等院鳳凰堂

 日想観 

 生まれつきの盲目でないかぎり、すべての人は西に沈む太陽を見ることができる。さあ、西に向かってすわりなさい。西を見てやがて沈む太陽が太鼓のように空にかかっているのをしっかりと見すえなさい。



 そして太陽を見たあとでその映像が眼を閉じていても眼を開けていてもありありと想い浮かべることができるようになさい。これが最初の瞑想[日想観]である。

 水想観

 日没の太陽のイメージをしっかり固定できたなら、つぎは水に心を集中させなさい。

千住博「浄土の滝」

 水の澄みきった透き通ったさま、その清らかさをはっきりと眼の前に見ることができるようになさい。これが第ニの瞑想「水想観]である。

 地想観

 このようにして水を見た後、あなたはその水を氷のイメージに変化させなさい。氷が輝き、透き通っていて瑠璃色をしている・・・そのイメージのまま大地を見れば、大地は瑠璃からできていて、内も外も透明で光り輝いて見えるであろう。



 その大地の下では宝石が光を放ちその光が大地に反射してまるで百億もの太陽が輝いているようだ。そして瑠璃の大地の表面には、黄金が帯のように張りめぐらされ美しく明瞭に区画されている。このようなイメージがつくりだされたら、その一つ一つをさらにくわしく瞑想しなさい。



 そして、その映像が、眼を閉じていても眼を開けていても、決してなくならないように気をつけてなさい。眠っている時以外は、いつでもこのイメージを、ありありと想い浮かべることができるようにするのである。これができるようになれば、この人は西方浄土をおぼろに見た人と呼ばれる。ところがさらに進んで「サマーディ」の状態に達した人は、この浄土をさらにはっきりと見るのだが、これは、とても説明しつくせない。これが第三の瞑想[地想観]である。

 樹想観

 あの国の大地をイメージできたらつづいて美しい樹木をイメージしなさい。



 この花は淡い光を発したがいにふれあい、連なっている。風に吹かれると優雅にクルクルと回り黄金の光の輪をつくる。それはまるで旋火輪のようである。



 他にもさまざな樹木があるがとても言い尽くせない。あなたは幹、茎、枝、葉、花、果実を観想し、それぞれの映像をはっきりと想い浮かべることができる。これが第四の瞑想[樹想]である。

 八功徳水想

 つぎに広い池をイメージしなさい。その国には多くの美しい池があり池の中にはハスの花が咲いている。

 国宝平等院鳳凰堂とモネのスイレン

 そして花の間には水が流れていて、心地よいメロディを奏でている。それらはすべて仏の教えを伝えそのすばらしさを讃えているのだ。このようにイメージすること、これが第五の瞑想[八功徳水想]である。

 総観想

 水の奏でるメロディに重なって、天上からも美しい音色が聞こえてくる。



 天人の楽器が空中に浮かび自然に鳴るのだ。このようなイメージに達したらほぼあの国のすべてを見たと言えるであろう。これが第六の瞑想[総観想]である。

 さて、ここまで来たあなたは仏のお姿を見なければならない。その仏のお姿を見たいと思うなら、次のようにしなさい。
 
 花座想

 まず美しく輝くハスの花をイメージしなさい。



 そのハスは花びらの一つ一つが微妙な色彩を持っている。その花びらには多くの脈があり、まるで天の絵のように美しい。またその脈から、さまざまな光が出ていて、その光の一筋一筋まではっきりと見ることができる。ハスの花一つ一つが光明を発しているのである。





 このハスの台はまるで天の宮殿のようである。その宝石のような光はいたるところであたりを輝かしている。このようにハス花をイメージすることができれば、これが第七の瞑想[花座想]である。

 このようなすばらしい花は、もともと自然の力によってできたものではない。これは仏の力によるものである。だからもし仏を見ようとするなら、まずこのハスの台座に注意をそそぐのである。ただしこの瞑想を行うときには、これ以外の雑多な瞑想をしてはならない。その花びらの一枚一枚、光の一筋一筋、台座の一つ一つを正しく想い描いて、鏡の中の自分の顔を見るようにそれらをみなはっきりと見なければならない。この瞑想を成しとげたなら、長い間の迷いのもとである生死の罪が消えて、必ず極楽世界に生れることができる。これが正しい瞑想であり、そうでないならすべてあやまった瞑想である 。花の座の瞑想が終わったなら、つぎには仏そのものを瞑想しなさい。

 像想観

 仏を見ようとすれば仏は現れ見ようとしなければどこにもいない。だからこの心が仏なのである。この心が仏を生じるのだ。仏の美しいお姿があなたの心にいっぱいになればあなたの心はそのまま仏の美しさで満たされるのだ。その時、その心が仏となり、その心がそのまま仏なのである。


  国宝阿弥陀三尊像
 
 だからひたすら一心に、目覚めた方、聖なる方、仏を瞑想しなさい。仏を見るにはまずその身体を瞑想するのである。目を閉じていても開いていても、紫金色に輝く仏が、ハスの花に座っているようすを常に想い浮べなさい。

 こうして仏がハスの花に座っておられるのをイメージできたなら、心の目が開いて、あなたはあの仏の国土の美しいようすをはっきりと見ることができるだろう。これが第八の瞑想[像想観]である。

 一切色身想

 以上のような瞑想を通じて心の眼が開いたら、あなたは仏の心も見るだろう。仏の身体と仏の心とは別々ではないからだ。仏の心とは大いなる慈悲の心である。全世界を自分自身とし、すべてを包みすべてをはぐくむ心である。


 
 この瞑想に達したなら、あなたは顔と顔とを合わせて仏を見るであろう。これが第九の瞑想[一切色身想]である。

 仏を観る者は
 本来の自己を観る者、

 本来の自己を観る者は
 仏を観る者である。 
     「観無量寿経」より