二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

9 天使のひとり言

2022-07-31 21:39:00 | 光の記憶
 その後、わたしは数日にわたって記録していた体験日記、といってもあまりたいしたものではないのですが、それを封印しました。そして「今後3年間はこのことを一切考えまい」と決めました。この件に関しては「何もしないこと」が最善であると判断したからです。

 そうして何事もなかったようにごく平凡な日々を過ごしていたある夜、あの日から1年半くらいたっていたでしょうか、ボンヤリと考えごとをしていたら、なぜか胸が熱くさわぎ出し、私の心の内から女性の声が聞こえてきました。前のことがあるのですぐさまノートと筆記具をさがし、準備しました。

 その女性はハッキリした口調で語りはじめました。以下の詩はその人の言葉を書き留めたものです。題名は私がつけました。

  私はあなた

「生命とはなにか?」と、
疑わないでください。

疑われるとわたしは哀しくなるのです。

「人は何のために生きるのか?
わたしはあなたの目の前に居るのになぜ気が付かないのですか。

考えるのでなく見ることが知ることなのです。

わたしたちの幸福とは互いに見つめあうことなのです。

わたしたちが見つめあうその時、あなたは知るでしょう。

わたしはあなた自身だということを。あなたを包むあたたかさ、それがわたしであることを。


画 パウル•クレー「忘れっぽい天使」

8 善の光

2022-07-30 20:51:00 | 光の記憶

 私はまるで抽象画の中に入りこんだかのような錯覚に陥りました。先ほどまで見つめていた〈石〉が、いまやそれが何であるのか全くわからなくなったのです。

 確かに目の前にあるので見えることは見えるわけですが、実に奇妙な見え方なのです。〈石〉としては見えずに、ただ他の場所と色が違うという区別があるだけなのです。

 言葉が失われてしまい、考えることが困難になりました。それは今まで当たり前のように呼吸していた人が、突然空気のない場所に入ったようなもので、いくら息をしようとしてもできないのと同じように、考えようとしても考えることができなくなったのです。 
 
 このような経験ははじめてなので自分の身に何か異変が起きたのではないかと不安な気持ちになり、かなり動揺しました。考えることができないということは恐怖なのです。

 まるで窒息する人がもがくようにもがき、そして記憶の中から何とか探し出し、やっとのことでソレが〈石〉であると思い出すことができました。

 その時です、ソレに向かって私が何と言ったと思いますか?私はこう言ったのです

 「お前は石になれ!」

さらに続けて私は言いました。

 「お前は、生きよ!」

そしてなぜか息をフーッと吹きかけました。すると驚いたことに、その石が飛び跳ね出したのです。まるで生き物になったかのようにジャンプするのです、ぴょんピョンと。
さらに私はそばにあったサザンカの木に向かって言いました。 
 
 「お前も、生きよ!」

そして同じようにフーッと息を吹きかけました。するとサザンカの木が踊り出したのです。枝を揺らしてダンスをはじめたのです。

   

私はアッケにとられて見ていました。私は自分が神になったかのような気がしました。
  
  その瞬間でした。
   
 8 善の光

 これまで見たこともない清らかな、それでいて強烈な光に私の全身が照らし出されたのです。

 あたり一面が高貴な白い光に覆われました。美しい光が広がり、光以外に見えるものは何もありません。  

 ただ一箇所だけ、私のうしろがポカリと穴があいたように黒くなっていました。
「何だろか?」とのぞきこむと、それは人間の形をした意識だったのです。

そしてその意識はナント
「私」だったのです。

 私は私を見たのです。しかしそこに見た私は、いままで見た私とは違っていましたそれはまさに〈悪魔〉と呼ぶのがふさわしいようなグロテスクなものでした。そのあまりのキタナサ、不潔さに、私は見たと同時に“ウッ”と顔をそむけました。こんなきたないものを今のいままで「自分だ」と思い込んでいたのです。

 •••気がつくと私は歩道を歩いていました。私のほかには誰も歩いている人はいません。通る一台の車もなく、あい変わらず音もしないのです。ボンヤリ歩きながら私は思いました。「すべてが終わった。完全に救われた」と。

 するとどこからか声がしました。「受け取れ!」とはっきり聞こえました。私は反射的に「ハイ!」と言ったのですが、何を受けとったのかは今でもわからないのです。

 空を見上げるとドンヨリとした曇り空でした。映画の終わりのシーンのように雲の間から神々しい光が射してくるかとジット見ていましたが、そういうことは起こりませんでした。

    ーーーー

 その日の夜のことです。フッと気がついたのですが、頭の中を猛烈な勢いで信号が駆けめぐっているようなのです。この日の出来事を一体どのように理解すればよいのか
私の脳が当惑しているのだと思いました。

 駆けめぐる信号のせいで脳がコソバユイ感じがしましたが、これは3日ほど続いておさまりました。

 無意識下ではまだドラマが続いているようですが、もう私の意識には入ってきません。私の宗教ドラマは終わったようです。


画 パウル•クレー「新しい天使」


 


7 幻視

2022-07-29 20:10:00 | 光の記憶
 7 幻視

 最初に述べた私の光の体験はその日ばかりでなくまだ続いていたのです。これはその翌日の出来事です。“幻視”と呼ばれる自動現象が起こり、光のビジョンが再び始まりました。

  20**年1月29日

 朝になり目が覚めて、さて、何か変わったことがないかとあたりを見回したり、外の様子をうかがってみたりしましたが特別変わった様子もなく、部屋の中も普段のままの散らかった状態でした。

 もしかすると、古い世界が光輝く新しい世界になり、天国にいるように見えるのではないかと期待したからですが、いつもと変わらぬ朝のようでした。

 それなら、何やら不思議な能力を得たにちがいないと思いながら、「エィッ!」とか「ヤアッ!」とか気合いを入れてみたのですが何事も起こりませんでした。ちょっぴり残念な気持ちもありましたが、普段通りの時間に家を出ました。

 通勤途中のことです。昨日の「あの人」のことを思いながらバイクを走らせていたら、熱いものがこみ上げてきて涙があふれてきました。それはそれでいいのですが場所が悪かったのです。そこはバイクの上なのでヘルメットをかぶっていたのです。さらに私は眼鏡もかけています。そしてハンドルには防寒カバー、手には防寒手袋をはめていました。

 ー前が見えなくなってきたのです。

 なんとか職場にたどり着きヤレヤレです。仕事は適当にかつテキパキとこなしてすぐに休憩です。「さて、一服するか」とひとりで外に出ました。10時の休憩時間の少し前でした。今はやめていますが当時はタバコを吸っていたからです。それもかなりのヘビースモーカーでした。

 そこはツツジやサザンカの植えられた通りに面した場所ですが、あまり人通りがないので、皆ここでタバコを吸っていました。

「どっこいしょ」と腰をおろし、壁にもたれてそのまま地面に目を落としました。するとそこにあった小さな石に目がとまりました。どこにでも転がっているありふれた石です。それをじっと見ていたところ、なにか変なのです、何となく様子がおかしいのです。あたりの雰囲気がいつもとちがうのです。

 そのうち周囲が白くなり、視野が狭くなった気がしました。そして音が全く消えてしまいました。

 ー心理学者が「幻視」と呼ぶものがはじまったのです。



画 パウル•クレー「チュニジアの庭」




6 光明現象

2022-07-28 20:27:00 | 光の記憶
 6 光明現象

 神は光である。

 このような伝統があるからでしょうか、光の体験に関する手記や記録がキリスト教関係の書物に多く残されています。そしてそれらを収集して研究した心理学の書物も多くありますのでとても参考になります。

「純粋経験の哲学」や「プラグマティズム」で知られ、西田幾多郎の「善の研究」にもその名前がでているウィリアム•ジェームズの宗教心理に関するすぐれた著作である「宗教的体験の諸相」はその代表的な書であり、そこから引用します。

 光明現象•••

なんだかオカルト的な響きが感じられてきますが、これも光の体験に関する心理学の専門用語なのです。

『感覚的な自動現象であり、それが頻繁にあらわれるがゆえに、おそらく特別に注意する価値があると思われれ一形式がある。

 それは幻覚的あるいはエセ幻覚的な光明現象のことで、心理学者の専門用語で「幻視 ーphotism」と呼ばれるものである。』

ウィリアム•ジェームズ著
「宗教体験の諸相」第十講回心より 

本ではその記録が数例上げられています。


○ 不思議な光が室内をいっぱいに照らし出すように思われた。

○ 朝、わたしが野原へ仕事に行ったとき、目に映るあらゆる被造物のなかに、神の栄光があらわれていた。

 私はよく記憶しているが、私たちは麦を刈っていた。そして麦の穂も茎もその一つ一つがまるで一種の虹のかがやきに彩られているかのようであった。

 あるいは、こういう表現が許されるなら「神の栄光に輝いている」ようであった。


○ 一時間ほどの間、全世界が水晶のように透明になり、天は明るく光輝いた。
 
○ その室には火もなければ
あかりもなかった。それなのに、その室はわたしには非常に明るいように見えた。

○ にわかに、神の栄光が、ほとんど信じられないほどふしぎに、私の上に、そして私のまわりに輝いた。

 この光は八方に光を発する太陽の輝きにも似ていた。光があまりにも強くて、目で見ることができなかった。


 •••26か27の頃、帰省中のある日の夕暮れ時のことでした。私は庭に面した部屋にいて、ごろんと寝ころんで外をぼんやりと眺めていました。

 ウトウトしていたのですが、やがて妙な事に気がつきました。日が落ちているのに明るいのです。あたりは薄暗くなり庭の木もはっきりとは見えなくなっているのに、なぜか明るいのです。

「変だなあ」と思いながら居間にいくと、夕食の準備が出来ていて、ご飯とおかずが並べられていました。見るとそのすべてが光輝いているのです。茶碗から箸にいたるまで、そしてご飯はその一粒ひと粒までがキラキラと輝いているのです。そして室内は水晶のように透きとおっていて、まるで天国に入り込んだかのような気分になりました。

 この状態は一時間ほど続きました。その間私の心は平安に満たされ、清々しい幸福感に包まれたのを覚えています。そして最初に述べた光の体験のときにあらわれた光は、これと同じ光だったのです。

     
画 パウル•クレー「ホフマネスクのおとぎ話のシーン」



5 初めての出会い

2022-07-27 20:03:00 | 光の記憶
 5 初めての出会い

 誰にでも存在しているといわれる「無意識の人」、私はその人を「内なる人」と名づけておきます。そしてその「内なる人」に私は30年ほど前に一度出会っているのです。

 •••それは20代前半、22〜23くらいの事でした。仕事仲間が集まってよく麻雀やトランプ遊び、そして競馬の予想などしていました。ハイセイコーやタケホープの走っていた時代です。そうとう熱中していたので当時の馬の名前は今でも覚えているほどです。

 さて、その日はポーカーやブリッジなどをしてひとしきりワイワイと騒ぎ、そのあと数人で別の部屋に移りました。その中に少し年長の人がいて、かなり禅の本を読んだらしくて、面白おかしくその話をして皆をケムに巻いていました。たとえばこんな話です‥

 闇の夜に
 鳴かぬカラスの
 声きかば、 

 生まれる前の
 父ぞ恋し   等々

 他の人はあまり興味を示さなかったのですが私もいくらか禅の本を読んでいたので、その人の話し相手になりました。

 あれこれと話しているうちにその人が私に何やらワケのわからない謎めいた質問を投げかけ、「この答えがわかる?」と言ってきました。

 問いそのものは覚えていませんが、とにかくマトモな答えなどありそうもない質問でした。おそらく禅問答の中にでも出ていた話だったのでしょう。

「本当に答えがあるの?」と聞いたところ、「ある」と言うのです。答えが「ある」というその一言によって、私はその問いの中に吸い込まれたような状態になりました。

 •••しばらくして、なにかがパッと心に現れました。
              
 私は「アッ!」と思い 
「わかった!」と声を出し

それから小さな声で答えました。なぜかというと問いと答えが全く関係なかったからです。

 私の答えは「自分が見えた」でした。

「こんな答えでいいの?」と聞くとその年長の人は黙っていました。

私が「内なる人」と出会った初めての日のことです。

 それは一瞬の出来事でしたが、私ははっきりと見たのです。私の意識の内に別の意識が存在しているのが確かに見えました。

 円のような輪郭をもっていたのでハッキリそれとわかりました。その円は顔のようにもみえたのですが、眼もなく、耳もなく、鼻もなく、口もありません。その人はまるで眠っているかのようにただじっとして黙っているままでした。

 不思議に思われるかもしれませんが、そのあとでオカシサがこみ上げてきて大笑いしました。

 なぜなら
 私が見たその人は、
 私だったからなのです。

 全く突然、思いもかけなかった場所から馴染み深い人があらわれ出たのです。「エッ、なぜそんな所にいるの?」といった感じでした。
おそらく生まれてからずっと一緒に居たでしょうに、全く気づいていなかったのです。

「意識が
 意識を意識する」

 その時の体験の説明としてはこのように言うのが最も適切であると思います。

 はじめの「意識が」は、ふだんの私で、つぎの「意識を」は、今まで気づかなかった私の意識であり、最後の「意識する」は、見るということ、気づくという意味なの
です。

これを日常の言いかたに変えて「私が私を見た」とか「出会った」とか「自分を見た」とか言うわけです。

 同じような表現がやはり体験の内容として使われていますので、私だけの異常な体験ではないようです。


○自覚意識は意識を対象とする意識である。
  西田幾多郎
  「左右田博士に答う」二

○自覚体験なるものには
「意識が意識を意識する」ということがなければならない。

   叡智的世界」二  


○自己自身の内を見る直観的自己、それはいわゆる意識された意識であってはならぬ、
「意識を意識する意識」でなければならない。
    叡智的世界」五

○般若は「無意識の意識」に相当する。

○悟ることは「無意識」を意識するという意識である。
鈴木大拙禅選集
    「禅による生活」四


画 パウル•クレー「用心深い天使」