二つに見えて、世界はひとつ

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不一不異/自己同一律

2023-08-14 23:40:00 | 日記


不一不異ふいちふに

 仏教辞典によると、中論の不一不異は「不ニ」のことであり色即是空の「即」の意味、華厳の「相即」の意であると説明されています。

そく

 二つの異なった性質の事象が、その差異を残しつつ一体化していること。不一不異(ふいつふい)、不二、不離であることなどの意。相即ともいう。
『般若心経』の冒頭にある「色即是空、空即是色」の「即」はこの意味であり、「色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり」と読む。
 (WEB版新纂浄土宗大辞典より)

 差異を残しつつ一体化している、との表現がいいですね。次も基本的なことは同じようです。

円融三諦えんにゅうさんたい

「円融」はお互いに融合しているが、それぞれ立場を保ちつつ妨げになっていないこと。 「三諦」は空、仮、中の三つの真理のこと。 天台宗が説く三つの真理のことで、全てのものには実体が存在しないという「空」と、全てのものは因縁によって存在するという「仮」と、それら二つを超越して存在しているという「中」のことをいう。


さらに加えるならこれもそうです。

 一如 いちにょ

仏教用語。一は不二の意味で,如は異なることがないという意。一でありながら異なるが,異なるといっても本質的に一であるということで,万有に遍在する根源的な原理である真如 (しんにょ) の説明に用いられる。
  ブリタニカ国際大百科事典

 仏教は日常では使わない否定形を多用するので何を言っているのかわかりにくのと、宗派により表現が異なるのが難点。

下図はテトラレンマ(論理を定式化したもの)を可視化したオイラー図。テトラレンマは肯定と否定の中間を認める論理。四句分別のことです。
 

下図は西洋の形式的論理の同一律。AはAである。BはBであるのオイラー図。

  

同一律ではAからBへの移行、あるいは関連性や連続性がうまく説明できません。
   

自己同一律

下は同一律と矛盾律を兼ねそなえた中論の図。読み方はAはAであり、BはBである。かつAはBでありBはAである。
この定式化A=Bを自己同一律と呼んではどうか、というのがわたしの意見。




 A=Bの論理は見ての通りです。AとB、それぞれ別のものが同じであり、同じでありながら別のものであるということで、空即是色や一如と同じ論理です。

 形式論理は思考中心の論理ですが仏教の論理は宗教的な内面的直覚にも対応しています。そこには形而上学的、心理学的裏付けがあるということです。

例:
梵我一如、心身一如等

アートマンとブラフマンは
一如である。A=B

 梵我一如の読み方は、アートマンはアートマンであり、ブラフマンはブラフマンである。同時にアートマンはブラフマン、ブラフマンはアートマンである。

 以下は不一不異の宗教的、心理的な面です。鈴木大拙の相互融合は自説である「即非の論理」を逆から表現したものです。

 相互融合(con-fusion)

 ある有名な真宗信者がいました。この人はまったく無学でしたが、真宗への信心はほとんど禅と同じで、よくこう言っていた。「浄土にいる瞬間は同時にこの世にいて、この世にいると言った瞬間、浄土にいる」と。

 この人は下駄作りの職人でした。彼はよく言いました。「わしが木を下駄の形に削っているときは、わしの腕も手も動いているが、この手も、この腕も、自分のものじゃない。アミダ仏のものだ」と。

 このアミダ仏を、神とかキリストと呼んでも構いません。そして「このアミダ仏がわしの手も腕も動かしている。アミダ仏がわしの身体で働いている」と言うのです。

 この「自分がアミダで、アミダはこのわしだ。」と同時に、「アミダはアミダ、わしはわしであって同じではない。」

 この混乱―この融合は、ふつうの意味の混乱ではないのです。「相互融合」(con-fusion)です。互いに融合しあうことで、私は「相互融合」と呼んでいます。ただ「雑然とまじりあう」だけならそれは混沌ですが、そうではない。
 
 「わたしはあなた、あなたはわたし。」同時に「わたしはわたし、あなたはあなた。」という世界です。

 ここがきわめて重要です。「わしが働いているとき、それはわしではなく、アミダが働いている。しかし、アミダはアミダ、わしはわし」という世界。このところは混同してはならない。

 そして「わしはアミダで、アミダはわしだ。それと同時に、わしはわし、アミダはアミダ」と言えるとき、そこに真宗の信心があり、本物の宗教的生活の原点が生まれるのです。

 これは宗教的生活を送る上できわめて重要な点です。宗教的人生が可能になるのは、この「融合」が起こり、同時に相互の区別が実際に可能となっているときです。

 アメリカン・ブディスト・アカデミー講演(1957年)CDブック「大拙禅を語る」より

 あなたと私

私たちの間から
あなたと私は消え去り
私は私ではなく
あなたはあなたではない。
かといって、
あなたが私なのでもない。

私は私でありながら、しかもあなた。
あなたはあなたでありながら、しかも私。
       ルーミーの詩

井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」(岩波新書)のp99、全集5巻

 上のルーミーの詩と読み比べて下さい。キリスト教神秘主義を代表するマイスター・エックハルトの説教からです。

 わたしと彼 

 わたしたちが彼を知るためには、像にもよらず、介するものなしに単純直接に知らなければなりません。しかし、どのようにしてでしょうか?

 彼は彼のままわたしに、
わたしはわたしのまま彼に、ならなければならないのです。

 もっとはっきり言いましょう。神はわたしに、わたしは神にならなければならないのです。
   エックハルト 説教83


ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207〜1273 )はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。

      

マイスター・エックハルト (1260年頃ー1328年頃)は、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者です。
     
 

 もう一度鈴木大拙にもどります。

見神体験/無分別の分別

 ほんとうの見神経験または見仏経験は禅経験における見性と同じく、見即是性、性即是見で、神または仏を見る者が、すなわち神(仏) 自らでなくてはならぬ。

  神(仏)は神(仏)自身を見ているということでなくてはならぬ。そうしてそこに一種の覚知がある、ただ見ているということだけでなく、見ていると知る者がある、もとよりこの知とかの見とは一物であるが、人間知識の制約として二つであるごとき言葉づかいをする、それが無分別の分別である。

鈴木大拙禅選集「禅の思想」p130







四句分別

2023-08-14 23:30:00 | 日記
以下は龍樹という仏教学者が著した『中論』という本からの、ものごとを解釈する四種の論理形式。

四句分別

 存在に関する四種の考察で、有と無についていえば、
①有り
②無し
③有りかつ無し
④有るに非ず無しに非ず
の四種となります。



①コップに水が半分ある。
②コップに水が半分ない。
③コップに水が半分あり、かつ半分ない。
④コップに水が半分なく、半分ある。

形式的論理では排中律によって、この「半分」という中間概念が排除されます。半分というようなあいまいな概念は真偽の対象にはならないからです。したがってコップに水が「ある」か「ない」かのどちらかの判断だけになります。


主観的と客観的

 この半分というのは主観的なものであり、「半分」という存在自体はないのです。これは比較による思考の内にだけある存在なのです。だから、形式的論理は客観的であろうとしてこの主観的判断を排除します。しかし現実は主観•客観的なものなので客観的なものの見方だけでは片目で見るようなもので現実の半分しか見ていないことになります。

上下、左右、遠近、大小、前後、美醜、憎愛、善悪、敵味方、去る来る、同じと異なる、速い遅い、等々。

 これらはすべてその中心に個人の存在があり、その主観を離れては意味のない概念(言葉)です。主観が上下左右、前後遠近、善悪美醜を決めるわけであり客観的にその基準があるわけではないから
です。



四句分別はその論理に中間概念を含めています。つまり論理の中に主観を含めているわけです。中論にはつぎのように書かれています。

18章•10  いかなるものでも縁によって生じるものはそれと同一ではない。しかし全く別でもない。それゆえに断絶でもなく常住でもない。

 これに関して面白い記事があります。「心の哲学まとめ」wikiからの引用です。

 感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。事物が別のものに変わるということ、たとえば青いつぼみが赤い花に変化する時などは、青いつぼみが「ないもの」になり、赤い花が「あるもの」になる。しかし「青いつぼみ」のどこを探しても「赤い花」は無い。すなわちゼロをいくら足しても乗じてもゼロであるゆえに、変化とは論理的に不可能だと主張することができる。また変化とは矛盾であるともいえる。丸いものが四角いものに変化したという場合、両者に同一性があるとするならば、どこかの時点で、これは丸いものでもあり、かつ別のものでもある、ということが許されていなければならない。しかしこれは矛盾律(Aは非Aではない)に反する。どれほど似ていようと、どれかの時点についていう限り、そのものは丸いか、そうでないかのどちらかしかない。つまりどの時点においても特定の一つの形しかもっていない。そして一つの形だけでは変化とはいわない。さらに変化のない形をすべて集めても変化とはいわない。結局変化とは、ある時点での特定の形と、別の時点での特定の形に、人が因果関係を見出すことによって生じる「概念」としての存在であり、変化そのものが実在しているとはいえない。



 □△○の同一性はそれが一本の線によって囲まれた図形という点にあります。この一本の線が丸くもなり四角にもなり三角にも五角形にも変化します。形はそれぞれ違っていてもただ一本の線でつくられているのにはかわりありません。線に注目した場合は「一」、図形に注目した場合は「多」、両者に注目した場合は「一即多」になります。

 廣松渉は、「変化」とは本質的に矛盾した存在様態であるという。別々のものの状態をいくら並べても変化とはいわない。変化とは或る一定のものの変化であって、或る同じものが一貫して存在しなければ変化という概念がそもそも成立しない。しかし同じものがあり続けるのなら無変化である。したがって同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を変化というものは孕んでいると指摘し、変化というものは不思議であると述べる。
(パルメニデス)より

「変化」と「同一性」は相反する概念である。物事が変化したなら別の物事になり同一ではない。しかし異なる時点において別の物事が並んでいるだけなら変化とは言わない。時点1ではFであり、時点2ではGであるとするなら、「FはFである」「GはGである」と言うべきである。FがGに「なる」と言う場合、それは人の推理を表しているのであって、変化は世界の事実とは言えない。このような厳密な同一律を根拠に変化の実在を否定したのが紀元前の哲学者パルメニデスであった。廣松渉は、変化とは同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を持っていると指摘している。
   (人格の同一性)より

自己同一律
いかなるものでも縁によって生じるものはそれと同一ではない。しかし全く別でもない。それゆえに断絶でもなく常住でもない。
     中論18章•10  

 龍樹のこの論理はまさに変化と同一性の論理といえそうです。これを西洋的に「自己同一律」と呼んではどうかというのが私の主張。






生命の根源にある意識

2022-07-13 06:03:00 | 日記

 生命の根源にある意


   ピカソ「夢」
  

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・


 このような夢が覚醒の状態における概念の相互浸透についてわずかながらある観念を与えてくれるだろう


 実のところ、生命は心理的な秩序に属する。心的なものの本質は、相互に浸透しあう錯綜した多数の項を内包しているところにある。


 生命の根源にあるのは意識、いやむしろ超意識である。けれどもこの意識は、一つの創造要求であり、創造が可能であるときにしか、自己自身に対して姿をあらわさない。


 この意識は、生命が自動性に堕しているときには、眠りこんでしまう。しかし選択の可能性が蘇るやいなや、この意識は目をさます。


 自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つものである。


 私たちの意識は自然的というより歴史的なものである。意識には記憶というものが必要だからである。


 単なる反応は意識ではない。意識は関係を知ることであり応答することである。

  ベルクソン   『時間と自由』2章

         『創造的進化』3章より


  イマージュ     
   

 直観とはどんなものでしょうか。哲学者本人がそれを定式化できなかったのですから、私たちにそれができるはずはありません。しかし私たちは、具体的な直観の単純さとその翻訳である抽象概念の複雑さとの中間にあるイマージュなら、何とか把握して定着することができるかもしれません。


 このイマージュは逃げ足がはやく、本当に消えやすいものです。それはおそらく、哲学者本人も気づかないままに彼の精神に付きまとい、彼の思索の紆余曲折に沿って影のように後ろからついてくるのです。


 このイマージュは直観そのものではありませんが、しかし「説明」のために直観が頼らざるをえない必然的に記号的な概念表現よりは、ずっと直観に近いのです。


 影のようなこのイマージュをよく観察してみましょう。そうすれば影を投げかけている身体の姿勢を見分けることができるかもしれません。その姿勢を外から模倣するだけでなく、その姿の中に自分が入りこもうと努力すれば、哲学者の見たものを可能な範囲で見ることができるかもしれません。

  『哲学的直観』媒介的イマージュ


  ピカソ「読書する女の顔」

   

   

  

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・のイマージュです。







たがいに異なりしかも同一

2022-07-11 11:16:00 | 日記
たがいに異なりしかも同一
    

傷つき潰えてなお混沌に陥ることなく、その世界は乱調の中に調和を秘める。


ばらばらな事物に秩序を見出だすとき、万物はたがいに異なりしかも同一なり。
    「ウインザーの森」より

アレキサンダー・ポープ(1688年- 1744年)はイギリスの詩人。


  ふたつにみえて、
  世界はひとつ。

  互いに異なり、 
  しかも同一なり。

どちらも奇妙な言い回しですが、これが宗教や哲学の直観論理なのです。仏教でよく使われる心身一如とか色即是空なども同じ論理なのでつぎのように言い換えることができます。

 心と身体、
 二つにみえて一つなり。

 色と空、互いに異なり
 しかも同一なり。

仏教用語は難解ですが、色とは見える存在、空とは見えない存在といった意味だろうと思います。
 

一滴の大海

2022-07-10 16:12:00 | 日記
 一滴の大海
 
“You are not a drop in the ocean. You are the entire ocean in a drop.”

あなたは大海の一滴ではなくて、一滴の大海なのだ。
     ルーミー語録


 ルーミーとほぼ同じ時代ドイツではキリスト教のエックハルトがほぼ同じことを言っていました。合わせて読むとルーミー理解が深まると思います。

マイスター・エックハルト (1260年頃ー1328年頃)は、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者です。
  

神は唯一の善である。
すべての個々の善はそこに一緒に含まれている。
そこは満ちたるもの、
神性の世界である。
それは「一なること」である。

大海に比して一滴の水は
取るに足らない。
そのように神に比すれば
万物はあまりに小さい。
魂が神をおのが内に
引き入れる時、
水滴は大海に変ずる。

神には欠如も否定もない。
なぜならその本性は充溢であることだからである。

本当に正しくそれを捉えようとする人は、なお善や真理からも、それにただ観念や名称の中でのみ区別の錯覚や影に煩うだけのものからさえも、縁を切る。

その人は、一切の多様と区別を欠いた「一なるもの」のみを信頼する。この「一なるもの」にあっては、あらゆる規定性と特性が消え去り、そして「一」である。
この一者こそが我々を幸福にするのである。
           
ルドルフ・オットー/「西と東の神秘主義」p46より


ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207〜1273 )はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。

   

Out beyond ideas of
wrongdoing and rightdoing,
there is a field,
I will meet you there

        ~Rumi~

善行と悪行、
それらの考えのはるかに及ばぬところ、
そこに一つの場がある。
私はそこで
あなたに会おう。
        ルーミー