二つに見えて、世界はひとつ

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宇宙的無意識/天地の心

2022-12-20 21:26:00 | 仏教の大意

 
鈴木大拙とハイデッガー
1953年フライブルクにて

以下は『禅と精神分析』(創元社)の中の一篇「禅仏教に関する講演」より


 宇宙的無意識

 近代日本の禅匠の最も偉大な一人に盤珪禅師がある。彼は”不生”の一句をもって彼の禅を終始した人である。不生のなんたるかを人に示すために彼は「それ、鳥が啼いているではござらぬか、花が咲いているのが目に入りませぬか」と我々の日常経験のなんでもない事実をただちに指摘して、「これらはみな人々が不生を持っているがためでござる、いかなる悟りといえども、みないっさいが不生でととのいまする」と言う。

 この盤珪和尚の言うところを表面的に見れば、われわれの感覚の領域と高次の形而上的不生というものが、別になんら変りはないということを説いているように見える。或る意味では別になんの変わりもない、といってもよい。しかし別の面から見ると、これは誤りなのである。

盤珪の不生とは、あらゆるもの、全存在の根源なのである。それはわれわれの日常に経験する感覚的領域を含むのはもちろんであるが、さらにそんなところに止まらず、それは過去、現在、未来のありとあらゆる実在のすべてであり、尽大地、十方虚空ことごとくにみち溢れてあますところのない不生なのである。

われわれの日常の心、日常の経験、本能的な行為といったものは、ただそれだけではなんら特別な意義もなければ価値もないようである。このなんでもないただの平常性、ありふれたことが一旦不生に触れ合うとき、そこに大きな価値が生まれ意義が生ずるのだ。

この不生が私の言う「 宇宙的無意識」である。不生というのは実にいっさいの創造的可能性の源泉なのである。ここに到れば、私が飯を食うていても、もはや食うている者は私でなくて不生が飯を食うている。眠っていても疲れてグッタリしている時でも、グッタリと眠っている者、それはわれにあらずして不生なのだ。  
 鈴木大拙•フロム
「禅と精神分析」p39〜40
「鈴木大拙全集27巻」p338―339 


 ものの進化の筋道をたどって考えてみると、意識というものは、進化の過程の或る時に無意識の中から目ざめたものである。自然の造化はそれみずからは無意識である。この無意識の中から意識ある人間が出て来たのである。

意識とは一種の飛躍である。しかし飛躍ということは物理学的に言っても接続を絶するということではない。つまり意識と無意識とは、意識がつねに、無意識と絶え間なく連絡を保っているという関係にある。事実、無意識なくして意識の活動はあり得ないのである。無意識がなければ意識はその活動の根拠を失ってしまうのだ。

禅家で平常心是道――というのはこのゆえである。この場合は、”道”とは無意識のことである。これが四六時中われわれの意識の中で働くのである。 
  「禅と精神分析」p38〜
  「全集27巻」p337

「宇宙的無意識」と言われても抽象的すぎてつかみどころがないものですが、大拙言うところの「宇宙的無意識」のイメージにピタリと合致する詩があります。ルーミのこの詩の「わたし」が宇宙的無意識のイメージそのものです。


わたしはすべてに宿る魂

わたしは日にちらちらする塵、わたしは日輪。 

塵に言う、そこに居て、と。
日輪に言う。廻って、と。

わたしは朝の微光、
わたしは夕べの香り。

わたしは森のざわめき、
海のうねり。

わたしはマスト、舵、舵手、船。わたしは船の乗り上げるサンゴ礁。

わたしは生命の樹、そしてそこにいるオウム。

沈黙、思考、おしゃべりと音。わたしは笛の音、人の心。 

わたしは石に散る火花、
金属の黄金の光。

ロウソクと周りを舞う蝶。
バラとバラに酔う夜鳴き鳥。

わたしは物をつなぐ鎖、
世界を結ぶ環。

創造の梯子段、上りと下り。
わたしはあるもの、
そしてあらぬもの。

わたしはーおゝ、
あなたの知っている、
ジャラール•ウッディーンと申す者。

わたしはすべてに宿る魂。

「西と東の神秘主義」p111~112より/R・オットー

ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207〜1273 )はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。

      

 
鈴木大拙がこの”宇宙的無意識”を説明した記事がかなりの数あります。そこから二つえらんでみました。

 大いなる意志

 意志というものは、その根源的な意味において、知性よりももっと人間にとって深く根ざしたものなのである。なぜかと言えば、いっさいの存在の根底にある原理、ありとあらゆる存在をひっくるめて、ただ一つに結ぶ原理、それが意志なのである。

 岩は岩のあるがままーこれが岩の意志である。河は流れるーこれが河の意志である。草木は青々と伸びる ーこれが草木の意志である。鳥は飛ぶーこれが鳥の意志である。人間がしゃべるーこれが 人間の意志である。

 四時は移り変わり、天から雨が降り、雪が降る。大地は時に震動し、波はノタリノタリと波打ち、星はキラキラときらめく。これすべて彼らの意志に準じているのだ。 あるということは意志すること、またそう成るということもまた意志することである。

 一つの大なる意志がみずから意志するとき、これらのいっさいが意志するのだ。この大なる意志は限りなく変じて みずから流動する。これを私は宇宙的無意識というのである。    
「禅と精神分析」p94
「全集27巻」p381―2


 天地の心

 物理界でも、一般生物界でも、天地の心を体得していることはもちろんであろう。いずれも天地のほかに出ることのできないものなのである。 天地の心を体得しないというものがあるならば、それは無と同じである、すなわち存在しないということになるのである。

 そんなものは風ということもできない、火ということもできない、いわんや蜂、蝶、狼、虎、そうしたものであるということさえ不可能である。元来そういうものが存在することが言われなくなっているからである。何であっても、天地の間に存在するか、生存するかといわれる限りは、どうしてもことごとく天地の心をもっていなくてはならぬのである。

 春になれば花が咲く、秋になれば草や木の葉が落ちる、 つぎに明るい月の世界になる、星斗闌干ということになる。冬になると雪が積ってどこもかも白一色で塗りつぶされることになる。こんなことはやはり天地の心と言わなくてはならない。

 天地の心は一言にして尽くせば、生々の力である、創造である。いわゆる乾の徳で、 「日に新たにして、また日々に新たなり」というようなあんばいに新しい世界を、次から次からと、創造してゆくのが天地の心である、乾の徳である。人間的にいえば、努めて努めて休まないというところに、天地の心を見るのである。

 これはどの宗教でもみな一様に見ているところと信ずる。そこで物質界では物質として天地の心を表現している。物質の世界は繰り返しだというが、決してそうではない。そこにはまた創造の世界があるのである。一般生物はまた一般生物として、物質とは違った様式で、天地の心を表現している。天地の心を表現しないものには、存在ということがないのである。

 鈴木大拙「無心ということ」
「全集第7巻」p271―272






盤珪不生禅/鈴木大拙編

2022-12-19 19:36:00 | 仏教の大意
 盤珪は彼の「不生」の観念を一般聴衆にもっとわからせるためには、いつも彼は次のようにいった。


『あなたがたが私の説教を聴きにここへ来る途中に、また、現に説教を聴いているとき、鐘の音、カラスの声を聞けば、ただちに鐘が鳴っている、カラスが啼いていると聞こえる。けっして誤らぬ。目で見る場合にも同じことである。とくに注意して見るわけではないが、ある物を見るときは、ただちにそれが何であるかを知る。 これらの不思議を行なうのはあなたがたの中の「不生」である。 あなたがたがすべてかくのごとくであるかぎり、霊明な仏心である不生を否定することはできない。』

 それではこの「不生」とは何であるか、盤珪自身に語ってもらうことにする。

  不生の仏心

『皆さんの誰れもが親から享けているものは「仏心」にほかならない。 この心はけっして生まれなかったもので、決定的に智慧と光明(霊明)に満ちている。生まれぬがゆえに、けっして死なない。 しかし、私はそれを「不滅」とはいわぬ。仏心は不生であり、この不生の仏心により、一切の事が完全にととのうのである。

 過去・現在・未来の三世の諸仏、われらの中に現われた歴代の祖師たちー これらはいずれも皆生まれた後に、めいめいに与えられた名にすぎないから、「不生」の見地からすれば、いずれも皆、第二義的な、末のことで、本体そのものではない。

 皆さんが「不生」に住すれば、一切の仏陀と祖師が出て来る根本に住していることになる。 仏心が不生だということを皆さんが確信するときは、誰も皆さんの居る所を知らず、仏陀や祖師でさえ皆さんの居場所を突きとめることはできず、皆さんの本性は仏祖もこれをうかがい知ることはできない。 皆さんがこの決定的確信(決定)に達すれば、畳の上に安坐して活如来となるに十分である。私がやったように骨を折る必要はまったくない。

 皆さんがこの決定に達した瞬間から、皆さんは、 人間を正しく見るが開かれる。これは私自身の体験である。 私は「不生」の眼を得てから、けっして人を誤って判断したことは一度もない。この眼は 誰れの場合でも同じである。それゆえ、私の宗派は「明眼宗」という。なおまた、皆さんがこの決定を得れば、皆さんは不生の仏心におかれ、そこに生き、 それとともに生きる。仏心は両親からうける
ところのものである。ゆえにわが宗の別名は「仏心宗」で ある。

  

 ひとたび皆さんが仏心は不生で霊明であるという決定を得れば、 けっして他人にあざむかれることはない。鵜(黒)は鷺(白)だと全世界が主張しても、鵜は生まれつき黒く鷺はもともと白いということが、 人々の日常の経験からはっきり知られて、けっしてだまされることはない。
   
 仏心は不生で霊明なもの、 この不生の仏心で人は一切事がととのうとの決定を得れば、皆さんはけっしてものを見誤ることもなく、 偽わりの場所におかれることもなく、道を迷うこともない これが世の末まで如来として生きる「不生」の人である。

鈴木大拙禅選集『禅による生活』 四ー7「悟りへの道」より


盤珪禅師墨跡「円相」

 信心

『あなたの不生の心は、生も死も知らぬ「仏心」そのものである。 その証拠には、あなたが事物を見るときは、いろいろなものを直下にそれを見る。その中に音を聞くときはただそれを感知して、これは鳥が啼いているのだ、あれは寺の鐘だなどという。寸時たりともそれを反省する必要はない。われわれは、朝から晩まで、自分の仕事を一瞬たりとも考えず、 一念不生にやっているが、それを知らず、多くの人はこの生活が分別と料簡とではたらくと考えている。

 それは大きな誤りである。 「不生」がわれわれの内部に働らいているのである。仏心とわれわれの心とは二つのものではない。しかるに悟りたいと思い、また自心を発見せんとする人々は、かかる考えで修行用心するが、大きな誤りを犯している。不生不滅ということは、心経を少しでも知っている者は誰もよく知っているが、彼らは「不生」の根源を測ろうとはせず分別と計較とを用いてそれを達し成仏しようと努め、これが仏性を得る道だと考えている。

  しかし、ごくわずかでも、仏を求め、道を得んと思えば、たちまちそれが「不生」にそむき、あなたの内部に生まれながらにあるものを見失うのである。 この「心」は「自分は悧発だ」とも「自分は暗愚だ」ともいわぬ、それはあなたの内部に生まれたときと同じままにある。それを悟りの状態に持ち来たそう とすることは、二義に落ちたことである。

 あなたは本来初めから仏なのであるから、今始めて仏になるのではない。あなたの生まれながらの心には、「迷い」というものは鵜の毛のさきほどもなく、 したがって、けっしてあやまった考えの起こりようはない。両拳をしっかり握って競走してもあなたの不生には変りがない。あなたがもし現在のあなたより少しでもよくなろうとするならば、何か求めて少しでも急ぐならば、あなたはすでに「不生」に反するである。あ
なたの生まれつきの心は喜びもなく怒りもなく、絶対に自由であり、 万象を照らす霊妙の仏心ばかりである。かたくこの道理を信じて、日常生活において何ら執着を持つなーこれが信心というものである。』
    同 五「公案」より




 


盤珪不生禅/龍門寺の巻

2022-12-17 20:47:00 | 仏教の大意
龍門寺にて元禄3年冬(1689~90)、大結制が行われた。そこに参加した者、寺に逗留して帳簿に記された修行僧だけで1,683人であった。さらに外宿して会に列席した者は万をもって数えた、といわれる。曹洞・臨済の両宗を始めとし、律、真言、天台、浄土、門徒(真宗)、日蓮の各宗の僧侶が集まり、僧俗あわせた大勢の人々が法座を取り囲んだ。そこへ、盤珪が現われ聴衆に語り始める。盤珪六十九歳の時の説法である。

   

 一念不生

 この集まりには僧俗大勢いらっしゃるが、私が若い時分に、「一念不生」という事に気付きまして、そのことを説いて聞かせようとしている
のでございます。この「一念」と申すのは、すでに第二、第三に落ちた事でございます。僧のみなさんは不生の身でございますれば、不生の場には説くべきことも聞かせることもございません。ところで、仏心は不生にして✳霊明なものゆえに、事々物々にうつりやすく、その向かう物々に転じて変わりますので、仏心を念にし替えなさるなと申す事を、世俗の皆さんに説いて聞かせまするので、出家の方もご一緒に聞きなされ。

 ー禅師は大衆に示して言われた。

 不生の仏心

 皆さん、親がうみつけて下さったものは仏心ひとつでございます。ほかのものはひとつもうみつけはしません。 その親のうみつけて下さった仏心は、 不生で霊明なものにきわまりました。

 不生な仏心、仏心は不生で霊明なものでありまして、不生であらゆる事がととのいます。その証拠は、皆さんがこちらを向いて、私がこのように話しているのを聞いている間に、うしろの方で鴉の声、雀の声、それぞれの声を、聞こうと思う念を生じないにもかかわらず、鴉の声、雀の声が通じ分かれて、間違えずに聞こえるのが、不生で聞くというものでございます。

   

 このようにすべてのことが、不生でうまくととのいます。これが不生の証拠でございます。その不生で霊明なのが仏心にきわまったと決定し、直に不生の仏心のままでいる人は、今日から永遠に活き如来でございます。 今日から仏心でいますから、私どもの宗を仏心宗といいまする。

 さて、皆さんがこちらを向いておいでになる際に、うしろで啼くすずめの声を、からすの声とも間違えず、また鐘の音を太鼓の音とも聞き違えず、男の声を女の声とも聞き違えず、大人の声を子どもの声とも聞き違えず、みなそれぞれの声をひとつも聞き間違えずに、明瞭に聞き分けて、聞きそこなわずに聞くということ、これが霊明な働きというものでございます。ここをほかでもない、仏心は不生で霊明なものと言いまする。これが霊明な証拠でございます。   
     
  
 
 ところでもし自分は聞こうと思う念を生じていたから聞いたのである、という人がございますなら、それは妄語の人ございます。私がこう喋っているのを、こちらを向いて、盤珪はどんなことを言うのだろうと、皆さん耳を傾けて、一 心に聞こうとしておいでではありこそすれ、うしろで鴉やら雀やら、それぞれの声のするのを聞こうと思っている人は、一人もおりませぬ。しかるに思いがけずに
ヒョッヒョッと、それぞれの声が通じわかれて、聞きちがえずに聞こえるのは、不生の仏心で聞くからでございます。

  自分は前もって、それぞれの声がしたなら聞こうと覚悟していたから聞いたのだという人は、ここには一人もおりませぬ。ですから、不生の仏心で聞くというものでございます。不生にして霊明なのが仏心にきわまりきったというのを、人々皆決定して、不生の仏心でおいでになる人は、今日から未来永劫の活き如来と申すものでございます。

 もっとも、仏というのも生じたあとの名前でございますから、不生な人は諸仏のもとで、いるというものでございます。不生が一切のもと、不生が一切の始めでございます。不生よりほかに、一切の始めというものはございませんから、不生であれば、諸仏のもとでいるというものでございます。

 ところで、不生にしていれば、もはや不滅というのもむだ事ですから、私は、不生といって、不滅とは申しません。生じないものが、滅するということはないですから、不生であれば、不滅ということは言わなくともすむわけでございます。

 不生不滅ということは、昔からお経のあちこちに出ておりますが、不生の証拠がございません。ですから皆さん、ただ不生不滅とばかりおぼえて口にしますけれども、決定して不生な事を、ご存じないです。

 私が数えで二十六歳の時、はじめて一切のことは不生でととのうという事をわきまえましてから、このかた 四十年来、仏心とは、不生で霊明なものが仏心にきわまったという事の、その不生の証拠をもって人に話すということは、私が初めて言い出しました。 ただ今、この集りの中のお坊さんのなかに、私より先に、仏心は不生で霊明なものにきわまったという証拠をもって、人に教えられた人があって、それを自分はかつて聞いたことがあるという方はおられますまい。私が初めて証拠を示しましたです。

 不生でいますれば、一切のもとでいるというものでございます。むかしの仏が決定する所も不生の仏心。今は末世ですが、 一人でも不生でいる人があれば、正法が起ったというものでございます。皆さんそうじゃございませんか         
 
 禅師、一日大衆に示して言われた。

 迷いは身びいきのせい

 一切の迷いは全て身びいきのせいでありますから、迷いをつくる身びいきさえしなければ、一切の迷いは出てはきません。たとえば、となりで人が喧嘩をしますれば、こちらには非があり、こちらには道理があるという事が、明らかにわかれて聞こえますけれども、自分の身にかかわらない事なら、聞こえるだけで、自分の腹は立ちはしません。もし、自分の身にかかわれば、身びいきをいたしますから、相手にとり合って、仏心をつい修羅にしかえて、互いにののしりあいますわい。

 あるいはまた、仏心は霊明なゆえに、これまでに自分がしてきたすべての行為の影を映さぬということはございません。その映った影にとらわれれば、たちまちまた迷うことになります。 念というものは、われわれの心底から起るものではありません。これまでに見たり聞いたりした事が縁になって、その見聞きしたものが霊明な仏心に映っている状態、それが念というものでございます。もとより、念に実体はありはしませんから、映れば映るままに、起きれば起きるままに、やめばやむままにしておいて、その映る影にとらわれなければ迷いは生じません。とらわれなければ迷わないゆえに、いくら影が映っても映らないのと同じことで少しも妨げにならないので、払う念、断ずる念というものは一つもありはしませんわい。

 身の上批判

 ある和尚が私に言われるのに、あなたも毎日々々また同じ事ばかりを話さなくとも、合間には少し因縁話や故事物語などをもして、人の心がさわやかに入れ替わるように、説法を行われるのがよろしいのではないか、と言われました。私はこのように愚鈍ですけれども、人のためになることならば、愚鈍なりに故事の一つや二つは覚えようと思えば覚えられないこともありますまいが、そのような事を話すのは人々に毒を食わせるようなものでございますわい。毒を食わすようなことは、まずいたしません。

 私は、お釈迦さまの言葉や祖師の言葉を引いて人に示すこともいたしません。ただ人々の身の上のひはんですむ事でございますから、それで済むのに、さらにお釈迦さまの言葉を引く必要もありません。私は仏法も語らず、また禅法も語らず、説きようもありませんわい。みな人々の今日の身の上のひはんですむ事でございます。 

 凡夫

 今、ここにおられるかたがたは、一人も凡夫はおりませぬ。皆人々、不生の仏心ばかりでございます。 凡夫であると思われる方がいれば、これへ出なされ。凡夫は、どのやうなものが凡夫でありますと、いうて見なされ。

 ここには、一人も凡夫はおりませぬが、もしここを立たれ、敷居一つ越えて、人がひよっとぶつかるとか、後ろから突かれるとか、あるいは、宿へ帰りて、子供でも、下男下女でもあれ、我が気にいらぬことを、見るか聞くかすれば、すぐそれに貪着して、顔に血を上げて、身のひいきゆえに迷うて、つい仏心を修羅にし替えまする。そのし替える時までは、不生の仏心で居まして、凡夫ではございませんでしたが、一念、向うのものに貪着し、つい、ちょろりと凡夫に成ります
る。

 決定した人

 この不生の正法が、日本にも唐にも久しく世に絶えてすたれておりましたが、今日また再びこのように、世に起こりました。不生で霊明なのが仏心にきわまったという事を決定なされば、千万人の人、あるいは世のすべての人が寄り集まり、口をそろえてカラスをサギだといいくるめようとも、カラスは染めないでも黒く、サギは染めないでも白いものであるということは、ふだん見なれてよく知っていますので、どれほど人がいいくるめようとしてもいいくるめられないように、確かになりますわい。

 まずはそのように、不生で霊明なのが仏心、 仏心は不生にして一切事がととのうという事さえ、人々たしかに決定して知っていれば、もはや他人にだまされず、いいくるめられず、他人の惑わかしを受けぬようになれますわい。 そのようになった人を決定した人といって、すなわち今日不生の人で、永遠の活き如来でございます。

 わたしが若い時、はじめてこの不生の正法を説き出したころは、誰もが理解せず、
わたしを外道やキリンタン のように思いまして、人がおそろしがって、一人もより 付きませんでした。しかし次第に皆さんご自分の非を知りまして、これは正法であるという事をよく理解いたしまして、今は昔一人も寄りつかなかったのにかわって、あまり人がたずね過ぎて、わたしをせびり、せがんで会いたがって、一日たりともわたしを安楽に置かぬようになりましたわい。物には時節が有るものですわいの。わたしがここ に住んで、四十年にわたって人に教えを示してきましたので、この辺には善知識まさりな者が、多くできましたわい。
 
兵庫県網干の龍門寺

霊明れいめい
不可思議な力を備えて、明るくくもりのないこと。霊妙で明哲なこと。また、そのさま。  日本国語大辞典より






 
 


盤珪不生禅/丸亀の巻2

2022-12-16 21:51:00 | 仏教の大意
九月一日、朝の説法

 日月のたとえ

 どなたも私の説法を聴聞しようと、夜明け前からこのように大勢せり合い、窮屈な目を顧みずにこの会合に参られるのは、もちろんのこと有難いことと存じます。というのも皆さん夜明け前から早起きをなさってここへお出でになるのは、どなたも仏に成りたいとお思いになってのこと、そのように思うその心が、そもそも賢く生まれついているからなのでございます。これはそのまま仏心が各々に備わっている徳と申すべきものでございます。そうではありますが、今どきは、世渡りをするのに、悪い習慣が身について育ち、霊明な仏心を暗まして迷っているのでございます。

 仏心は育ちの悪い念に引かれ、迷ったのでこそあれ、失って、無いと申すのではございません。我欲が強く身のひいきに引かれ、迷い暗ましたと申すもので、失ったというのではございません。

 その証拠に、たとえを以ていいましょう。日月は、日々かわらずに照らしますも、雨の夜、また、曇の時は、昼であっても日は見えません。

 しかし、毎日毎夜、少しも違うことない時刻に、朝方には東よりお出になされて、夕方には西の山へお入りなさるではございませんか。ただ雲に隠れて、あらわれないというだけのことです。

 日月は仏心に、雲は迷いのようなものでございます。仏心もそれと同じように、迷いが隔てをなしてあらわれないために、皆さま方が知らぬというだけのことで、たとえ寝入った間も失ってはおりません。

 親の産み付けた仏心は、霊明なものでして、失いようがございません。生まれ出るや否や、水をかければ冷たく、火を近づければ熱く、その仏心一つの働きで、一切のことが調いまする。

 我慢

 このたび、仏になりませんといつになっても仏果をえられません。もし畜生になりましたら、どれほどありがたい事を説き聞かせても話しが通じず、縁が切れてしまいまして、また、仏に成りたいという思いもありはしません。このようなことを皆さんお聞きになり、今日から不生の仏心にもとづこうとお思いになるなら、第一に、この身にひいきがないようになされませ。そうすればおのずから仏心で居るようになるものでございます。

 人には我慢なるものが有るものでございます。何事も人に劣るまいと思うのが、悪い事でございます。この劣るまいという思いが、すなわち我慢と申すものでございます。   何事も人に勝とうと思はねば、劣る事もございません。
また、人がまた自分に悪くあたるのは、きっと我慢があるからでございます。人が自分に悪くあたるのは、自分に悪いところがあるからではないかと、自分に目を向けてみるときは、世間に悪い者は一人もいなくなるものでございます。

 怒りの念が起こりますと、仏心を修羅道にし替えてしまいます。ただ怒りも喜びも、みなこれ身びいきがあるからですので、霊明の仏心を暗まして迷って流転するのでございます。身びいきがなければ、また仏心の不生で居ますので、流転することもございません。

 ですから、どなたもよくご理解なされるがよろしい。このことわりをとくと納得なされば、修行をしなくとも、戒律を保たなくとも、今日から仏心でございます。 


 同二日、朝の説法

 不生不滅の仏心

 これまで皆さんお聞きの通り、めいめいが生まれつきの仏心でございますので、不生のままで居ますればよいのですが、世間のならわしで、悪い世渡りを習いましたので、惜しい可愛いの餓鬼道に仏心を替えているのでございます。ここをよくよくご決定なされば、不生の仏心で常に居るというものでございます。

 しかしながら、不生になりたいと思われて、怒りや腹立ちや、惜しい欲しいという念が起こるの止めようとされますと、二つの念が起こりまして、ちょうど走る者を追うようなもので、 起る念とを止めようとする念が戦いまして永久に止まらぬものでございます。

 たとえを使って言うのであれば、血でもって血を洗うようなものでございます。もっとも、先の血は落ちるでしょうが、また後の血が付きまして、いつまでも赤色はとれません。そのようなものでございまして、前の止められる怒りの念は止むでしょうが、止めようとした後の念がいつまでも止まらないのでございます。

 だとすればどのようにして止めるのかとお思いでしょうが、たとえ、はからずも思わず知らず立腹する事がありましょうとも、あるいはまた惜しいとか欲しいとかの念が出ましょうとも、それは出るままにして、その念を重ねて育てず、執着をせずに、起こる念を止めようとも、止めまいとも取り合わなければ、止むよりほかはないのでございます。垣と論争するのは、一人では成り立ちません。その相手がいないのであれば、自然と止まないではいられないのです。たとえまた色々の念が起こりましょうとも、その起こってきました念は、ちょうど三つか四つの幼い子供の遊びのように、嬉しいも悲しいも続けてその念にかかわらず、止めようとも止めまいとも、思わず知らずにおられることが、とりもなおさず不生の仏心で居るというものでございます。こうした心持ちで常におられるのがよいのでございます。

 また、悪いことも善いことも思うまいとか止めようとかなさらなくとも、おのずから止まないことはないのでございます。怒り、嬉しいというのも、これはすべて我が欲に付いて、身のひいきの強さより生じたものですから、一切貧着の念を離れましたならば、その念が滅せないではいません。その滅したところが、すなわち不滅でございます。不滅なものは不生の仏心でございます。

 とにかく常に不生の仏心を心がけなさい。不生の上にあれやこれやの念を出かしこしらえ、向こうのものに貧着し、仏心を念に取り替えなさらぬ事、これが一番です。これに油断をしなければ、善悪の念も起らず、 またやめようとも思わなくなります。そのときは生ぜず滅せずではないですか。そこが不生不滅の仏心というものでございます。このことを、よくよく納得なされるがよろしい。
     

 漢語より日本語

 私も若い頃には、何としてでも、仏心を見開こうと、あちらへこちらへと善知識をたずねて熱心に参禅問答をしたものですが、すべて普段の話し言葉で問いましたが心安くく聞き受けられました。その後はよく納得がいって、しませんでしたわい。日本人は日本人に似合ったように、普段の話し言葉で道を問うほうがよろしい。日本人は漢語が不得手ですから、漢語の問答では、思うように道が問いつくされないものです。 しかし、普段の言葉で問えば、どのようにも問われぬということはございません。ですから、使いにくい漢語で気張って問答するよりも、使いなれた言葉で気張らずに問答したほうがよろしいのです。

 それもまた漢語でなければ真実が体得できないというのならば漢語で問答するほうがよろしいが、平生の日本語で自由に問答して、結局それでよいわけですから、ことさら使いにくい言葉で問答するのは、どうかと思います。ですから、皆さんそう思って、どのようなことであろうと結構でございます。遠慮せずに、自由に普段の言葉で問答して、らちをあけなさい。らちさえあけば、使いやすい普段の言葉ほど便利なものはないですか。 

 日本の僧侶が漢語にうとい俗人に、ことさら通じにくい外国の言葉で示すのは、自分の上に、仏心のらちが明かぬゆえに、それを俗に通じにくい漢語を使ってごまかしているというものでございます。           
     
 不生で歩く

 仏心は不生にして霊明なものだと、皆さん思いなさい。 一度行った所は、何年たっても、覚えていようと常に思ってはいませんが、よく覚えていまして、忘れはしません。自分の行った所へ、 またほかの人が行きましたら、そこから百里も離れた土地で話しましても、行った者同士はどこで話しても、話が合うものです。また道を行きますとき、向うから大勢の人が来れば、よけようと思う念を人々は生じませんが、向うから来る人に自然と突き当たりもせず、また人に突き倒されもせず、踏まれもせず、大勢の人の中を通っても、あちらにくぐり、こちらにかたより、抜けつ、くぐりつ、しようという思う分別の念を生じなくとも、自由に道を歩きますわい
仏心はこのように不生にして、霊明でございまして、それで一切のことがうまく運びます。もし万一、自然にかたよろうと思う念を生じてかたより通りますは、霊明なはたらきでございます。しかし、片寄る方へは念を生じて片寄りますが、足もとには、一足一足に分別の念を生じて歩きはしません。 それでも自然に歩くは、不生で歩いているからでございます。
     

自力でもなく他力でもない

 私どもの宗旨は、自力にかかわらず、他力にもかかわりませぬ。自力他力を超えているのが私どもの宗旨です。

 その証拠には、私がこう言っているのを、皆さんこちらを向いて聞いておいでになる間にも、うしろの方で、雀の声、鴉の声、男の声、女の声、風の吹く音がすれば、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずにいても、こちらへはそれぞれの声が、ちゃんと分かれ通じて聞こえるのは、自分が聞くのではないのですから、自力ではありません。

 またこれを人に聞いてもらって、聞きわけているわけではないので、他力でもありません。そうすると、自力にも関係せず、他力にも関係せず、自力他力を超えているのが、私どもの宗旨でございます。 そうじゃございませんか。

 このように、その不生で聞けば、一切のことが聞えております。そのほかの一切のことも、みなまずそのように、不生でうまく運びます。不生で働く人はどなたであれ、皆一切のことが不生でうまく運びますから、不生な人はどなたでも、自力他力にかかわりなく、自力他力を超えておりますわい。     

 
 香川県丸亀の宝津寺


*禅の六祖慧能の「六祖壇経」に盤珪禅師の日月のたとえと同じものがあります。

 日月のたとえ

 日月はいつも天上に輝いている。しかし厚い雲に包まれると天上は明るくとも地上は暗やみとなる。人々の般若の知恵もこれと同じようである。

 人々の本性の清らかなことはまるで青空のようである。その知は月のようであり、その恵は太陽のようである。知恵はいつも輝いているのだが、外に向いてそこにとらわれると、妄念の浮き雲が現れて本性の輝きが覆われてしまう。やがて妄念が幾重にも厚く重なり、煩悩の根が深くくい込む。それは厚い暗雲が太陽を覆い隠すようなものである。

 風が吹き払ってくれないと太陽は姿をあらわすことができない。そのときは友人をたずね妄念を払ってもらわねばならない。

 間違った考えは正しい考えで払い、無自覚は自覚で、愚かさは知恵で、悪は善で、迷いは悟りで、払いのけるのである。

 このようにして知恵の風が吹きつけ妄念の雲や霧を追い払ってしまうと、ふたたび世界は新しくその姿を現す。

   「六祖壇経」般若第二

       


盤珪不生禅/丸亀の巻1

2022-12-16 19:56:00 | 仏教の大意
盤珪永琢(ばんけい ようたく/1622-1693)は、江戸時代前期の臨済宗の僧。不生禅を唱え、やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いた。法名を授けられ弟子の礼をとった者五万人あまり。  wikipedia  

盤珪禅師、丸亀養性山宝津寺にて、元禄三年(1689年)
八月二十三日、昼の説法  

 不生の仏心  

 私が皆さんに申し聞かせますのは、別の事でもございません、不生のことわりでございます。人々の身には仏心がそなわっているのですが、それをご存知ないので、私が申し聞かせるのでございます。

 では、仏心がそなわっているとはどのような事かと申しますと、皆さんそれぞれのお宿よりこの場へ、私の説法を聞こうと思われてお出でになっていますが、説法を聴聞されるうちに、この寺の外で鐘がなれば鐘と、太鼓がなれば太鼓と聞き分け、犬が吠えれば犬の声と、カラスが鳴けばカラスの声と聞き分け、大人子供の声がすれば、大人子供と聞き分け、目には千差万別の色を見分けなさいます。

 いずれの方もお宿からこの寺へまいろうとお出になるとき、私が法の話を申してる最中に、鐘太鼓が鳴れば鐘太鼓と知ろう、犬の声カラスの声がすれば犬の声カラスの声と知ろう、大人子供の声がすれば、大人子供の声と知ろうとは、前もって思いもせず、人より教えてもらうのでもありませんが、このように明らかに聞き分け、見分けできる
心のそなわっていますのを、不生不滅の仏心と申します。       

 たとえばスズメの声を聞かれたとき、「今のはカラスの声であった」と千万人が言おうとも、人に言い惑わされはしますまい。これがすなわち不生の仏心でございます。

   

 見ようとも、聞こうとも思ってもいずに、目には色を見分け、耳には声を聞き分けなさる所が、不生と申すものでございます。不生ならば不滅でございます。不生不滅とは生ぜず滅せぬことです。生じたものは必ず滅しますが、生じないものが滅するわけがございません。

 仏菩薩の世より、今の世の人に至るまで、仏心と申すものは不生不滅でございますので、おひとりおひとりにこの仏心が備わっているのでございます。その仏心の有ることをご存知ないことから、迷いなさるのです。

 その迷いとはどのような事かと申しますと、それは我が身にひいきがある事によって迷います。我が身にひいきがあるとは、どのような事かと言いますなら、たとえば隣の人が自分を悪く言っている事を聞いては、それに腹立ち憤り、その人を見ては嫌悪したり、その人の言う事なす事を悪くとらえたりなどします事、これは我が身にひいきのあるせいでございます。このように憤り、腹を立てますと、わが身に備わっているところの仏心を、修羅道に取り替えてしまいます。また、隣の人が自分をほめているという事を聞きますなら、いまだほうびもなく、喜ばしい知らせもやってこぬ先に、早くも嬉しがるではありませんか。この喜びは何事かといえば、我が身にひいきがあるからでございます。

 この身、親より産まれましたときには、憎いかわいいの念もなく、欲しい惜しいの念もなく、一切の迷いを親が産み付けはしません。これらはみな生まれて後、知恵が付きましてからこのような事を生じたのでございます。このように、憎いと思い、怒りの心になると、この仏心が修羅道となり、欲しい惜しいの心になりますと、この心が餓鬼道となります。これを生死流転の心といいまする。この身にひいきの有るゆえでございますので、この道理をとくと考えられ、怒り腹立ちの心もなく、憎いかわいいの念もなければ、すなわち不生不滅の仏心にかないまする。

 このことについて、皆さんの心に納得できないことがありますれば、何なりとお尋ねなさい。それを尋ねる事に何の遠慮もいりません。このことは、今の世渡りの事について尋ねるのとは違って、未来永劫のためでございますから、不審な点は、今聞かれた方がよいのです。皆さんにまた私がお目にかかることは不定でありますから、このたび、何なりともご不審なことをお尋ねになって、とくとこの心の不生であることを納得なされば、皆さん一人一人のお得になるのでございます。


同二十五日、朝の説法 

うつらうつら過ごした日々

 このように夜明け前から大勢お集まりになり、私の話すことをお聴きになろうとしている心、それがすなわち仏心で不生の心でございます。朝早くからここへ来られましたのは、有難き説法だと思わなければ、このような志しは起りません。

 ですから、ここにお集りの人々、お年五十にもなられた皆さまは、五十年の間、我が身に仏心の有ることも知らずに、またお年三十になられる方は三十年の間、我が身に仏心のあることをお知りにならずに、うつらうつらと月日を送られてきたのでございましたが、今日この場で、我が身に不生の仏心のそなわっていることわりを、とくと納得なされば、そのまま今日からどなたも仏でございます。

  私がどなたへもお話ししますことは、何れもの不生であるということを、 納得させますまでのことでございます。ここをとくと納得なされれば、今日から仏心であって、永遠の後まで、釈迦•達磨とかわらぬ仏体を得て、二度とふたたび悪道に落ちることはございません。

 しかし、私がお話し申し上げる不生のことわりを、この場でよく納得されても、また、 宿へ帰られて、何やかやにて腹を立て、怒りの念を
起しますなら、この不生のことわりをお聞きになる以前の罪よりさらに大きな罪になりまして、ただいま聞かれた不生の心を、修羅道や餓鬼道につくりかえて仏心を失い、流転なさるというものでございます。

 皆さんのなかに、どなたも仏になることは厭だとおっしゃる方はひとりもございますまい。ですからどなたに向ってもお話しいたすわけです。 ここを納得なされるときは、今日から仏心でございます。        
   
     
磨かれた鏡のたとえ
    
 不生の心と申しますものは、とりもなおさず仏心でございます。この集まりの座では、皆さんわたくしが申し上げることをお聴きになろうとお思いになっているばかりでございますが、この寺の外で犬の声や物売りの声がするのを、この説法のあいだに聞こうと思ってはいなくても、各々の耳に聞こえます。これが不生の心というものでございます。
     
   
 

 不生というものは、たとえば磨かれた鏡のようなものでございます。 鏡というものは、何であれ映りますと、自ら映そうとは思わなくても、何であれ鏡に対すればその色形が映らないではおかないものです。またその映っているものをのけますと、この鏡が映すまいと思うわけでもないのに、取りのければ 鏡に映りません。この不生の仏心と申すものはちょうどこのようなものでございます。
 
 何であれ、見ましょう聞きましょうと思ったうえで、見聞きしますのは仏心ではございません。前もって見聞きしようと思いもしないのに、 ものが見えたり聞えたりするのは、 お一人お一人にそなわった仏心の働きによるものでございます。

 このように、どなたにも納得していただけるように、不生のことわりをお話しいたしております。 今日のお話しさえもわかっていただけなければ、ほかの話をなんぼお聞きになっても無駄でございます。また、一度聞いただけでも、このことわりを納得された方は仏と申すものでございます。    
     
 どなたも今までは、惜しい欲しいと、またさまざまな怒り腹立ちを本意とされた悪い心で、仏心を修羅・餓鬼道にかえて流転なされていましたけれど、今日私の話しを聞きまして、これをとくとご納得されれば、惜しい欲しい、怒り腹立ちの心が、たちまち不生の仏心に成りまして、この仏心で居られることにより、今日より生き仏というものでございます。このたび仏心を取り損なうと、いつになっても仏には成れませんから、よくよく納得されるのがよろしい。    

主な参考文献
 岩波文庫 「盤珪禅師語録」
 講談社 禅入門9「盤珪」
 大東出版社「盤珪禅師説法」
 筑摩書房「禅家語録」 

✳岩波本に欠けていると思われる文や語句の差異が講談社本と読み比べるとにいくつかありましたので編集しています。
   
    水月

 うつるとも月も思わず
 うつすとも水も思わぬ
 広沢の池

これは剣の奥義をたとえたものでこの無心の境地を「水月の位」と言います。
  
東慶寺 水月観音

   不生

 見ようとも、聞こうとも思ってもいずに、目には色を見分け、耳には声を聞き分けなさる所が、「不生」と申すものでございます。盤珪

 ふたつ比べるとわかりやすくなりますが、盤珪禅師の「不生」は禅で「無心」というのと同じもののようです。無心とは無分別心のことで分別も思案も何も無いときの心です。