鈴木大拙とハイデッガー
1953年フライブルクにて
以下は『禅と精神分析』(創元社)の中の一篇「禅仏教に関する講演」より
宇宙的無意識
近代日本の禅匠の最も偉大な一人に盤珪禅師がある。彼は”不生”の一句をもって彼の禅を終始した人である。不生のなんたるかを人に示すために彼は「それ、鳥が啼いているではござらぬか、花が咲いているのが目に入りませぬか」と我々の日常経験のなんでもない事実をただちに指摘して、「これらはみな人々が不生を持っているがためでござる、いかなる悟りといえども、みないっさいが不生でととのいまする」と言う。
この盤珪和尚の言うところを表面的に見れば、われわれの感覚の領域と高次の形而上的不生というものが、別になんら変りはないということを説いているように見える。或る意味では別になんの変わりもない、といってもよい。しかし別の面から見ると、これは誤りなのである。
盤珪の不生とは、あらゆるもの、全存在の根源なのである。それはわれわれの日常に経験する感覚的領域を含むのはもちろんであるが、さらにそんなところに止まらず、それは過去、現在、未来のありとあらゆる実在のすべてであり、尽大地、十方虚空ことごとくにみち溢れてあますところのない不生なのである。
われわれの日常の心、日常の経験、本能的な行為といったものは、ただそれだけではなんら特別な意義もなければ価値もないようである。このなんでもないただの平常性、ありふれたことが一旦不生に触れ合うとき、そこに大きな価値が生まれ意義が生ずるのだ。
この不生が私の言う「 宇宙的無意識」である。不生というのは実にいっさいの創造的可能性の源泉なのである。ここに到れば、私が飯を食うていても、もはや食うている者は私でなくて不生が飯を食うている。眠っていても疲れてグッタリしている時でも、グッタリと眠っている者、それはわれにあらずして不生なのだ。
鈴木大拙•フロム
「禅と精神分析」p39〜40
「鈴木大拙全集27巻」p338―339
ものの進化の筋道をたどって考えてみると、意識というものは、進化の過程の或る時に無意識の中から目ざめたものである。自然の造化はそれみずからは無意識である。この無意識の中から意識ある人間が出て来たのである。
意識とは一種の飛躍である。しかし飛躍ということは物理学的に言っても接続を絶するということではない。つまり意識と無意識とは、意識がつねに、無意識と絶え間なく連絡を保っているという関係にある。事実、無意識なくして意識の活動はあり得ないのである。無意識がなければ意識はその活動の根拠を失ってしまうのだ。
禅家で平常心是道――というのはこのゆえである。この場合は、”道”とは無意識のことである。これが四六時中われわれの意識の中で働くのである。
「禅と精神分析」p38〜
「全集27巻」p337
「宇宙的無意識」と言われても抽象的すぎてつかみどころがないものですが、大拙言うところの「宇宙的無意識」のイメージにピタリと合致する詩があります。ルーミのこの詩の「わたし」が宇宙的無意識のイメージそのものです。
わたしはすべてに宿る魂
わたしは日にちらちらする塵、わたしは日輪。
塵に言う、そこに居て、と。
日輪に言う。廻って、と。
わたしは朝の微光、
わたしは夕べの香り。
わたしは森のざわめき、
海のうねり。
わたしはマスト、舵、舵手、船。わたしは船の乗り上げるサンゴ礁。
わたしは生命の樹、そしてそこにいるオウム。
沈黙、思考、おしゃべりと音。わたしは笛の音、人の心。
わたしは石に散る火花、
金属の黄金の光。
ロウソクと周りを舞う蝶。
バラとバラに酔う夜鳴き鳥。
わたしは物をつなぐ鎖、
世界を結ぶ環。
創造の梯子段、上りと下り。
わたしはあるもの、
そしてあらぬもの。
わたしはーおゝ、
あなたの知っている、
ジャラール•ウッディーンと申す者。
わたしはすべてに宿る魂。
「西と東の神秘主義」p111~112より/R・オットー
ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207〜1273 )はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。
鈴木大拙がこの”宇宙的無意識”を説明した記事がかなりの数あります。そこから二つえらんでみました。
大いなる意志
意志というものは、その根源的な意味において、知性よりももっと人間にとって深く根ざしたものなのである。なぜかと言えば、いっさいの存在の根底にある原理、ありとあらゆる存在をひっくるめて、ただ一つに結ぶ原理、それが意志なのである。
岩は岩のあるがままーこれが岩の意志である。河は流れるーこれが河の意志である。草木は青々と伸びる ーこれが草木の意志である。鳥は飛ぶーこれが鳥の意志である。人間がしゃべるーこれが 人間の意志である。
四時は移り変わり、天から雨が降り、雪が降る。大地は時に震動し、波はノタリノタリと波打ち、星はキラキラときらめく。これすべて彼らの意志に準じているのだ。 あるということは意志すること、またそう成るということもまた意志することである。
一つの大なる意志がみずから意志するとき、これらのいっさいが意志するのだ。この大なる意志は限りなく変じて みずから流動する。これを私は宇宙的無意識というのである。
「禅と精神分析」p94
「全集27巻」p381―2
天地の心
物理界でも、一般生物界でも、天地の心を体得していることはもちろんであろう。いずれも天地のほかに出ることのできないものなのである。 天地の心を体得しないというものがあるならば、それは無と同じである、すなわち存在しないということになるのである。
そんなものは風ということもできない、火ということもできない、いわんや蜂、蝶、狼、虎、そうしたものであるということさえ不可能である。元来そういうものが存在することが言われなくなっているからである。何であっても、天地の間に存在するか、生存するかといわれる限りは、どうしてもことごとく天地の心をもっていなくてはならぬのである。
春になれば花が咲く、秋になれば草や木の葉が落ちる、 つぎに明るい月の世界になる、星斗闌干ということになる。冬になると雪が積ってどこもかも白一色で塗りつぶされることになる。こんなことはやはり天地の心と言わなくてはならない。
天地の心は一言にして尽くせば、生々の力である、創造である。いわゆる乾の徳で、 「日に新たにして、また日々に新たなり」というようなあんばいに新しい世界を、次から次からと、創造してゆくのが天地の心である、乾の徳である。人間的にいえば、努めて努めて休まないというところに、天地の心を見るのである。
これはどの宗教でもみな一様に見ているところと信ずる。そこで物質界では物質として天地の心を表現している。物質の世界は繰り返しだというが、決してそうではない。そこにはまた創造の世界があるのである。一般生物はまた一般生物として、物質とは違った様式で、天地の心を表現している。天地の心を表現しないものには、存在ということがないのである。
鈴木大拙「無心ということ」
「全集第7巻」p271―272