二つに見えて、世界はひとつ

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二項関係

2022-09-13 19:01:00 | 哲学
二項関係

 動と静、生じることと滅すすること、有と無、これらは二項関係にあるといわれていますが、それに関する記事や解説をいくつか選んでみました。

二項対立 dichotomy  

 二項対立(にこうたいりつとは論理学用語の一つ。二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしているような様のことを言う。元々は一つの概念であったものを二分することにより、それを矛盾や対立をする関係へと持っていくことを二項対立と言うこともある。
     二項対立(WIKI)

対概念(ついがいねん)

 互いに対照的な要素を持ち、一方が言及される場合には自ずと他方の存在が前提されている、といった関係の概念。対をなす二つ一組の概念。    
  (実用日本語表現辞典)
    
反対概念

 論理学で、同一の類概念に属する概念のうち、その内包上最も対立度ないし差異の大きな概念。例えば、白と黒の関係。両者の間に灰色という中間の概念が介在する点が矛盾概念と異なる。

*内包とはある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延は具体的にどんなものがあるかを指すもの。 これらは互いに対義語の関係をもちます。
    (デジタル大辞泉)

 対義語•反対語

対義語・反対語・反意語・反義語とは、意味の上で互いに反対の関係にある語をいう。「善」⇔「悪」のように全く反対の概念を表す語を反対語、「右」⇔「左」のように、組になる語を対義語と区別することもある。
 (対義語•反対語辞典)

  対概念のイメージ
 
 
 相補性

 相補性とは、光や電子の粒子性と波動性や、古典論における因果的な運動の記述と量子論における確率的な運動の記述のように、互いに排他的な性質を統合する認識論的な性質であり、排他的な性質が相互に補うことで初めて系の完全な記述が得られるという考えのことである。

 相補関係

 複数の人や物事が、互いに相手を非常に重視する関係にあること 。緊密な関係、2つで1つ、一心同体、相補的な関係、相補的関係、互いを補い合う関係、2人で1セット等
     (Weblio類語辞書)

 表裏一体

 相反する二つのものが大もとでは一つであること。また、二つのものの関係が密接で切り離せないこと。

 表裏一体とは、「密接に結びついていて決して切り離せないこと」を意味します。 コインの表と裏は本来別々の面であっても、決して切り離すことはできないことから、二つのものが密接に結びついた関係にあるなら、それは一つであるという考えのもと用いられる言葉です。

 表裏一体の類義語・対義語 類義語には、決して分けられないという意味の「不可分」などが挙げられます。また「陰と陽」などの考えかたも表裏一体と同じだといえます。
 また対義語には「二律背反」が挙げられます。互いに矛盾し、決して交わらない二つのことを指す言葉です。

(表裏一体

小学館 大辞泉ほか)

 関係とはなかなかに難しいものですが、なんのことはない、人間が表裏一体そのものです。
    
   

     

  画 ルネ•マグリット









ゲーテ/色彩論

2022-09-10 11:48:00 | 哲学

   

ゲーテ(1749~1832)は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。


ゲーテ『色彩論』(1810)。ゲーテは自らの色彩論を、いわゆる「色彩環」を用いて論述し、色彩現象の全体的なあり方を明らかにしました。世界には無限に多様な色が存在しますが、色彩にはある種の対立関係も認められるとゲーテは考えます。彼はこれを「分極性」と呼びました。さらにゲーテは「色彩環」の直径の両端が互いを「よび求める」現象にも注目します。色同士の対立関係は、たとえば青と黄が濃くなると赤みがかった輝きをおびるという「高進性」の理論へも展開します。このような「分極性」「よび求め」「高進性」をもつ「色彩環」には、ゲーテによる色彩現象のトータルな把握が示されています。ゲーテの色彩論は、ヘーゲルの哲学にも影響を与えました。


分極性と高進性

 あらゆる自然の二大動輪の直観はすなわち分極性と高進性の概念である。

 分極性はわれわれが自然を物質的と考える限りにおいて物質の属性であり、高進性はわれわれが自然を精神的と考える限りにおいて自然の属性である。

 前者は不断の牽引と反発、後者は絶えず高昇しようとする内的欲求にある。しかし、物質は精神なしには、精神は物質なしにはけっして存在せず、また作用することができないので、物質もまた高進することが可能である。同様に精神もまた牽引し反発することをやめない。結合するために充分に分離し、充分に結合したあと再び分離できる者だけが真に考えることができるのと同じである。

ゲーテ論文「自然」への注釈より
 
 色彩論

 色彩は光の行為である。その能動的なはたらきと受動的なはたらきとによって生じ行
たものである。

 色彩と光は相互にきわめて厳密な関係を保っている。両者はともに自然の全体に属している。なぜなら、自己を眼という感覚を通して啓示しようとしているのは、自然全体にほかならないからである。

 同様に自然の全体は他の感覚に対しても自己の内部を開示する。目を閉じ、耳を開いて傾聴してみるがよい。いともかすかな気息から荒々しい騒音にいたるまで、きわめて簡素な単音から最高の和音にいたるまで、激情の叫びから穏やかな理性の言葉にいたるまで、そこで語っているのは自然そのものである。

 自然はこのようにその存在、その力、その生命、その諸関係を啓示しているので、無限の可視的世界を拒まれている盲人も、聴覚の世界の中に無限の生命あるものを捉えることができるのである。         
(まえがき)

 自然の全体は色彩を通して眼という感覚に自己を啓示する。しかし奇妙に聞こえようとも、眼が形を見ないということである。

 明と暗と色彩が合わさって初めて、対象と対象を、また対象の諸部分を相互に眼に対して区別するものを構成するからである。

 眼が存在するのは光のおかげである。未決定の動物的補助器官から、光は光と同じなものとなるべき一つの器官を呼び起こし、こうして眼は
光にもとづいて光のために形成される。それは内なる光が外なる光に向かって現われ出るためである。

 色彩のエネルギー



 物理的色彩、特にプリズムによる色彩は、かつてその特別なすばらしさとエネルギーのために、強烈な色彩とよばれた。しかしさらに考察すると、すべての色彩現象に著しい強烈さを容認することができる。

 色彩の暗い本性、その高い飽和性、この性質によってまさに色彩は厳粛であると同時に魅力的な印象をひき起こす。色彩は光が条件をくわえられたものとみなすことができるが、色彩も光なしで済ますことはできない。なぜなら、光は色彩が現れてくるための作用因の一つ、色彩現象の基盤、輝き出て色彩を啓示する強烈な力にほかならないからである。
 
 色彩の決定性



 色彩の生成と自己決定は同一である。光が普遍的な未決定のまま現われて対象を提示すると現在の事象がいかにもつまらなく見えるのに対して、色彩はいつでも特殊化されて、特徴的かつ意義深く現われる。

 一般的に見て色彩は二つの方向に向かって自己決定を行なう。色彩が提示する対立関係をわれわれは「分極性」と名づけ、プラスとマイナスによってひじょうによく表示することができる。

 プラスとマイナス、黄色と青、作用と反作用、光と陰影、明と暗、強と弱、暖と寒、近と遠、反発と牽引•••

 この特殊化された対立関係をそれら自身の中で混ぜ合わせても、両側の性質は互いに打ち消されれことはない。しかし、これらの性質が平衡点にもたらされ、両者のいずれをも特に認識できないようにされると、この混合は目に対して再び特殊な性質を帯びる。

 すなわち、それは一つの単一のものとして現われ、そのさい、われわれは合成されたということをもはや考えない。この単一なものをわれわれは緑と呼ぶ。

 さて、同じ源泉から生ずる二つの相対対立する現象が寄せ合わされても互いに消し合わず、第三の快適に知覚しうるものに結合される場合、この現象はすでに調和というものを示唆している。より完全なものはまだあとに残っている。

 赤への高進

青と黄が濃くなると、同時に必ず他の現象が一緒に現われてくる。色彩というものは、その最も明るい状態においてさえ暗いものである。それが濃くされるならばますます暗くなるのは必然的であるが、しかし同時にある輝きを帯びる。これをわれわれは赤味を帯びたという言葉で表わす。

   ー以下略ー
「色彩論」ちくま学芸文庫より
   
  ヘーゲル

 純粋な光のうちでは純粋な闇の中でと同様、見ることはできない。闇は光の中でも活動しているのだ。闇は光を限定して色にし、それによって光自身に初めて可視性を与えるからである。

 可視性は眼の活動であり、あの否定的な闇も、実在的、肯定的なものと見なされる光と同じだけこれに関与しているのである。

ヘーゲル『論理学』第1章「存在注3」より


「色彩論」概要

 もしもこの世界に光だけしかなかったら、色彩は成立しない。もちろん闇だけでも成立しない。光と闇の中間にあって、この両極が作用し合う「くもり」の中で色彩は成立する。

 色彩は単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と、自然たる光の共同作業によって生成するものである。

 音や香りなどの感覚もそうだが、色彩には、ただ客観的な自然を探求しようとする姿勢では捉えられないものがある。色彩は数量的、客観的に分析される光の中に最初から含まれているとすると、客観的に光を分析してゆけば色彩のことが分かるということになる。

 しかし、外界の光を分析するだけでは理解できない、眼の働きによる色彩の現象がある。灰色の像を黒地の上に置くと、白地の上の同じ像よりも明るく見える。この像を単独で、客観的に分析するだけでは明るさの違いは説明できない。これには眼の作用が関わってくるからである。

 対立するものが呼び求め合うというこのような運動が自然のうちに見いだされる。分極性の働きである。眼はひとつの色彩の状態にとどまらず、明るさと暗さという両極にあるものを呼び求め合うことによって新たなる色彩を生み出す。

 このように、静止した対象としてではなく、生成するものとしての色彩を見いだすのである。生きるとは活発に運動し、新たなるものを創造することである。

   

 白紙の上に色を付けた紙片を置いてそれをじっと見つめる。しばらくしてから色付きの紙片を取り去ると、白紙の上に紙片の色とは違う色の残像が浮かび上がる。その残像の色こそ対になっている色である。即ち赤は緑、黄は紫、青は橙の残像を出現させるのである。ここにも対立する色が呼び求め合う働き、分極性が見出される。色彩は静止したものではなく、それ自身の内部に力を有して運動するものであり、動きもその色単独のものではなく、他の色と結びついた動きである。色は有機的・生命的に捉えなければならない。

 眼は単なる青にも黄にも満足せず、それ以外の色を求める。黄と青は呼び求めあい、結合することによって第三の赤という高度なものを生み出す。赤はただ黄と青が混ざったというわけではなく、黄が橙を、青が紫を経て高みで合一したものである。黄色と青の絵の具はそのまま混ぜれば緑色になる。ここに分極性とならんで自然の中に見いだす力、高昇の働きがある。高昇とは自らを高め、発展させようとする上昇意欲である。赤は高昇の働きを経て合一しはたぶん、エネルギーに充ちた力強い色になっている。
 ゲーテ「色彩論」より(wiki)




知識の木の実

2022-09-09 19:15:00 | 哲学
知識の木

 アダムとイヴの伝説によれば、人間が最初の統一を去るようになった誘惑は蛇によって人間にやってきたことになっています。

 しかし実際は、「対立」へ足をふみ入れること、すなわち意識の目覚めは人間自身のうちにあるのであって、このことは、あらゆる人のうちで繰り返されている歴史なのです。
  ヘーゲル「小論理学§24
 ランベール画「善悪の樹」
  
 
 生命と知識

 わたしたちは知識を得るために分析・分解します。わたしたちは知覚のうちに、多くの要素からなる具体的なものを持っています。

 知識を得るためわたしたちはそれらの緒要素を、まるで玉ねぎの皮でもはぐように分解するのです。そして分解ということ以外には何もつけ加えないと考えています。

 しかし実際には「知覚」を「思想」に変えているのです。具体的なものを抽象的なものに変えているのです。

 もし具体的なもの、統一的なもののみが「生命あるもの」なら、このような方法は同時に生命あるものを殺していることになるのです。 
        同§38

 多くの人は、認識するということは与えられた具体的な対象を抽象的な要素に分解し、これらを個々別々に観察する以外なにもすることができないと言う。

 しかし、こうした方法が事物を変化させるものであり、あるがままに事物をつかもうとする認識は、そのさい自己矛盾におちいることはすぐわかります。

 たとえば、化学者は一片の肉をレトルトに入れて、それをさまざまな方法で処理し、それが窒素、炭素、水素などから成っていることがわかったと言います。

 しかし、これら抽象的な素材はもはや決して肉ではないのです。経験的心理学者がある行為を観察し、そこにおいて示されるさまざまな側面を分解して、これらをあくまで分離する場合も同じです。分析の対象は、いわば、人がその皮を一枚一枚はいでいくタマネギのように取り扱われているのです。
         同 § 227

 たとえば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではありません。なぜならそれらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、決して統一に無関係なものではないからです。それらは、解剖学者の手にかかるとき、はじめて単なる諸部分となるのであり、解剖学者が取り扱うのは、もはや生きた肉体ではなくて、死体にすぎないのです。  同§136

 肉体の個々の分肢はその統一によってのみ、また統一との関係においてのみ、それらがあるところのものであります。たとえば、身体から切り離された手は、すでにアリストテレスも言っているように、名の上でのみ手であるにすぎず、事実においてはそうでありません。  同§216

ランベール画「善悪の樹」


 知識の木の実

 わたしたちが知識の木の実を食べるとき、すなわち反省により意識が知識へと変わるとき、現実であったものが観念的となり、具体的であったものが抽象的になり「一」であったものが「多」となります。

 ここにおいて一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、すべての物は互いに相対し、すべての物は対立するようになるのです。

西田幾多郎「善の研究」四篇四章より

西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870 - 1945は、日本の哲学者。著書に『善の研究』などがある。


弁証法

2022-09-08 21:12:00 | 哲学
 弁証法は以下のように説明されています。

弁証法

 物の考え方の一つの型。形式論理学が、「AはAである」という同一律を基本に置き、「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。(不明)



上図は一般的な説明に使われる図。下図は上からの下降図。これを見ると弁証法はいわゆる「ツリー構造」になっているのがわかります。


別の説明もあります。
 
 一つの物事を対立した二つの規定の統一としてとらえる方法。
(日本大百科全書(ニッポニカ)「弁証法」の解説)
対立と統一のイメージ


以下はヘーゲル本人の説明です。

対立するものの相互関係

 常識的には、区別されたものは相互に無関係であると考えられています。たとえば、わたしたちは人間であり、私の周囲には空気や水があり、動物やさまざな物がある、と言う。ここではすべてのものが別々になっています。

 哲学の目的はこれに反して、このような無関係を排してさまざまな事柄の必然性を認識することにあり、他者をそれ固有の他者に対立するものとみることにあります。

 たとえば無機物を単に有機物とは別なものとみるべきではなく、有機物に必然的な他者と見なければならないのです。両者は本質的な相互関係のうちにあり、その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさにそのことによって他方に関係するかぎりにおいてのみ存在するのです。

 同じように自然もまた精神なしには存在せず、精神は自然なしには存在しないのです。
   ヘーゲル 小論理学§119

 主観と客観の同一性が主題になっていますが、ヘーゲルの「小論理学」は仏教で説かれる縁起や不二法門に近いものがあります。その原理自体は簡単なものであるとヘーゲルは言います。

抽象的同一と具体的同一

 真正の宗教あるいは知的直観は、ある人にはとても理解し難いものと、またある人には正真正銘の真理と、また別な人には迷信に類するものと見なされています。

 しかし真正の宗教の主張が神秘的に思えるのは知性に対してだけなのです。しかもその理由は、実に単純なことです。知性の原理が「抽象的な同一」であるのに対し、真正の宗教、または知的直観の原理は「具体的な同一」であること、これだけのことです。
 
 ヘーゲル小論理学§82の意訳
  
ヘーゲル(1770年 - 1831年)は、ドイツの哲学者。


 

ベン図とオイラー図

2022-09-05 19:17:00 | 哲学


オイラー図やベン図は、集合の相互関係を表す図。 オイラー図はベン図とは異なり、各集合を表す円が必ずしも重なっている必要はない。(wiki)

スーパーポジションとは集合Aと集合Bの重なり合う部分をいいます。下図の場合は「Aであり、かつBである」の部分です。

数学ならプラスマイナス0の部分ですが、0の考え方が数学とは違います。


スーパーポジションは重なり合いと状態の共存の場所ですからプラスもマイナスも0もそのまま保存されます。そして赤い部分をみると上図がそのまま繰り込まれています。部分の中に全体が入り、全体がそのまま部分をあらわした構造になっています。論理自体が入れ子構造になっていてこれが無限に続いていきます。鏡の中に鏡が写り、それがまた鏡に写り、それが延々と重なり合う状態です。フラクタル状態とは静止した状態ではなく、時間軸に沿った一種の動きであり、変化でもあります。



ここの0は数式のプラスマイナス0ではなく座標軸の原点のようなものです。プラスとマイナスはあるがその場ではどちらとも区別がつかない、あるいはどちらにでも変化できる状態、といった意味です。

 これは色々な考え方に応用がききます。「重ね合わせと状態の共存」は論理学的に言えば弁証法運動をおこなっているからです。


✽ベン図が便利なので使っていますが、考え方は下図のU磁石からの発想です。U磁石を真上から見たイメージがベン図で横から見たイメージが弁証法です。+と−は電子のイメージです。弁証法というのは重なり合う部分にプラスとマイナスの二項対立の両項がアウフヘーベン(統一かつ保存され)てゼロという概念になっているからです。

 ですから重なり合う部分は+-がそのまま「ある」という保存状態と、引力・斥力が「ない」という統一状態の二面性をもっているわけです。ここでは「ない」というのは「無」ではなく「統一」のことです。

これを言葉で表現するなら、ゼロとは「あり」かつ「ない」ものだと言わざるを得ません。これを形式論理学では「矛盾」と呼びます。