二つに見えて、世界はひとつ

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我思うゆえに我あり

2023-06-07 07:05:00 | 心の哲学/心身問題

ルネ・デカルト (1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。 合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。(ウィキペディア)




 哲学の第一原理


 わたしは、真理の探究において次のように考えた。


 ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、 わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と。


 こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純な ことがらについてさえ、推論を間違えて誤謬推理をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証と見なしていた推理をすべて偽として捨て去った。


 最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考がすべて そのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。


 すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしはある」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認めたから、 この真理を、求めていた「哲学の第一原理」として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。


 私とは何か

 次に、私とは何であるかを注意深く検査し、何らの身体をも持たぬと仮想することができ、また私がその中で存在する何らの場所もないと仮想することはできるが、そうだからといって私が全く存在せぬと仮想することはできないこと、それどころではない、私が他のものの真理性を疑おうと考えるまさにこのことからして、私の存在することがきわめて名証的に、きわめて確実に伴われてくること、それとはまた逆に、もしも私が考えること、ただそれだけをやめていたとしたら、たとえこれよりさきに、私の推量していた他のあらゆるものがすべて真であったであろうにもせよ、私自身が存在していたと信ずるための何らの理由をも私は持たないことになる。


精神と肉体は別個の実体

 このことからして、私というものは一つの実体であって、この実体の本質または本性とは、考えるということだけである。そうして、かかる実体の存在するためには、何らの場所をも必要とせぬし何らの物質的なものにも依頼せぬものであることを、したがってこの「私」なるもの、すなわち私をして私であらしめるところの精神は身体と全く別個のものであり、なおこのものは身体よりもはるかに容易に認識されるものであり、またたとえ身体がまるで無いとしても、このものはそれがほんらい有るところのものであることをやめないであろうことをも、私は知ったのである。


 「デカルト 方法序説四部」


それは「我」ではない

2023-06-02 12:04:00 | 心の哲学/心身問題
ゴータマ・ブッダは、紀元前5世紀前後の北インドの人物で、仏教の開祖。
 
 
以下はブッダの思想のもっとも基本的なものである「無我」の教えです。南伝のパーリー経典から幾つか選びました。


 聞いたことのない教え

 あなたたちよ、わたしの教えを知らなくてもこの<身>のあることを歎き、厭い、解放されたいと願う者は多い。そこに生死老病を見るからである。しかし、この<心>と呼ばれるものについてはこれを厭い、これから解放されたいと願う者はいない。

 なぜなら、彼らはそれを「自分」であると信じているからである。しかしながら、この心を「自分」と思うよりも、身体を「自分」と思うほうがまだしもましなのである。

 なぜなら、この身体は50年あるいはもっと長く存続するであろう。しかしこの<心>と呼ばれるものは、日夜に転変し生じては滅するものなのである。

 南伝大藏経13巻  
 相応部経典12「無聞」


 砂の城

 あなたたちよ、世間の人々が心といい身体と呼んでいるのは砂で造られた城のようである。それは、まるで子供たちが砂で城をつくって遊んでいるようなものである。

 渇愛のある間は彼らはそれに夢中になっているのだ。しかし、渇愛がなくなれば、彼らは自分の手であるいは足でその砂の城を壊して立ち去るのである。

相応部 ラーダ相応-2「衆生」


 つながれた犬

 あなたたちよ輪廻はその始まりがわからない。無明におおわれ、渇愛に縛られ流転し輪廻する人の過去はしられない。

 まるで彼らは柱に革紐でつながれた犬のようである。
いくら歩いても立っても寝そべってもいつも柱から離れられない。ただ柱のまわりをいつまでもグルグルと回るばかりである。

 私の教えを知らない世俗の人々は、この犬のようである。この肉体を自分だと思い、心や感情の動きや、その思いなどを自分そのものであると思い込む

 これが彼らの柱であり、いつもこのまわりをグルグルと回り歩いている。

 相応部 蘊相応100「繋縄」


 絵の中の世界

「あなたたちはチャラナという絵を見たことがあるか。」そう言ってブッダはビクたちに語りかけた。

 あの絵は、人の心が描き出したものである。あなたたちよ、あの絵より、さらに多彩なものを人の心は描き出す。

 あなたたちよ、絵かきは白い布に絵筆をはしらせ、美しい女の姿やあるいは男の姿を、その顔立ちから身のこなしまで実にたくみに描くものである。

 わたしの教えを知らない世間の人々は、絵かきと同じようにその心の筆で、さまざまなものを描き出しているのだ。そしてそのことに気づいていない。

 相応部 蘊相応100「繋縄」


 重荷

 重荷とはあなたの心であり、あなたの思いであり、あなたの身体である。

 そうとは知らずに背負うのが世間の人である。その世間でも荷物を背負うのは苦といい、荷物をおろすのは楽と言う。

 あなたは重荷を捨てるがよい。重荷を取ってはならない。

 渇愛を根絶したならば人は無欲にして涅槃に入る。

相応部 蘊相応重荷品「重荷」