これは、金古第5号古墳(前方後円墳)、別名を金古入道山古墳と言います。
文献によると、この古墳は、紀元6世紀後葉の時代に生きていた人の手により造られた“墳墓”と言われています。 『後葉』の意味から考えると、100年間の三分の一、つまり、紀元6世紀が終わる凡そ33年前~紀元6年が終わるまでの間に造られた古墳で、紀元7世紀に入るほんの少し前頃の建造物だと言う事になります。そして、この頃になると、古墳文化は終わりを告げる時期に入っていたのです。
金古入道山古墳は、おおよそ1,500年の時の流れの中で、自然現象や人の手により“前方後円墳”の容は、かなり壊れてしまっていますが、紀元21世紀の令和の時代までのこの国のありさまを、寡黙にずっと見続けて来たのです。そう考えると、なんと凄いことなのでしょうか。
今回、私がこの古墳を紹介した理由を、以下に記します。
この古墳には、ある人の碑が建っています。
この写真は、しばらく前に写された『大蔵少輔(おおくらしょうゆう) 金子家長の碑』です。
大蔵少輔 金子家長の碑は、昭和27年に、金子有鄰氏により建立された碑です。
※大蔵少輔とは、従五位の貴族で明治期初期には廃止された位らしい
この古墳を、ボランティアで長い間維持管理していた人の中に、天田三郎さんと私の祖父が居ましたが、ともに物故者となっていて、この前方後円墳は、荒れ果ててしまっています。
裏側から写した碑の写真ですが、裏面には、天田〇〇(不明)という文字がうっすらと読み取れます。この碑は、前述の金子家の碑ではありません。おそらく、金子家所有の金古入道山古墳に隣接している方の物だろうと思います。草木が生い茂り、蛇が出て来そうだったので、足を踏み入れる事が出来ず、前面からはその全様を確認することは出来ませんでした。
金子家長という人物像については、巻末の『雑ぱく文』に、書き込んであるので、後ほど一読してください。
今から凡そ1500年も前に建造された金子氏の先祖のお墓(金古第五号古墳)に、戦国時代に、八王子城を拠点にして活躍した「大蔵少輔 金子家長」の碑を建立した金子有鄰さんの思いは今となっては分かりません。
金子有鄰さんは、大日本弓馬会を創設され、武田流流鏑馬を現代に伝えた人として知られている方で、映画監督の黒澤明氏に懇願されて、映画の「影武者」に武田流流鏑馬司家役として出演しました。また、当時の役者達への馬術指導に関わった事でも有名です。
戦後、アメリカ軍の高級武官達に馬術を指導し、日本とアメリカの戦後処理をスムーズに行った第一人者としても、篤志家あるいは学識経験者を自ら名乗っている方なら、知らない人はいないと思います。
この金子有鄰さんのご先祖のお墓が、高崎市金古町に現存する『金古第5号古墳(金古入道山古墳)』なのです。 そして、高崎市金古町の町名の〝金古〟は、金子有鄰さんのご先祖の“金子氏”から頂いた名前なのですが、これらの事を知る人は、私以外に、あと何人いるのかはわかりません。 それでも、せいぜい、高崎市の市長や教育長くらいは、知っていて欲しいものですが、行政の場や教育の場等で、なんのアクションも起こしていないところから察すると、まったく知らないのだろうと思い、残念でなりません。
小学校の社会科の授業で使われているのが、社会科の「教科書」ですが、それと併せて「社会科の副読本」が使われていて、地域を知る学習として授業時数にカウントされています。 地域によって、この社会科の副読本の名称は様々ですが、〝のびゆく◎◎市〟(◎◎のところには、市町村名が入ります)等という名称になります。 この副読本は、それぞれの地域の教育委員会の肝いりで、各学校から選出された社会科の教員が、時間と手間と予算を使って作成し、小学生の中学年(三年生と四年生)の児童に、自分の住んでいる地域を学ばせるために配布しているものなのです。 一人一人の児童に、自分の住んでいる地域を学習させる事で、自分の住む郷土への誇りを持たせ、自分の住んでいる地域と他の地域との歴史的・地理的・経済的な文化的繋がりを考えさせる手がかりとさせるのですが、残念ながら、この『金古第5号古墳(金古入道山古墳)』の事は、社会科の副読本には掲載されてはいません。
上の写真は、雛壇に金子有鄰さん、右の女性は令夫人、手前は私の祖父が写っています。
これは、金子有鄰さんが金古入道山古墳に金子家長の碑を建立された折に関係者と食事をした時の写真だろうと思われます。
次の写真は、アングルを変えたものです。 金子有鄰さんの左隣にいる人は、福田赳夫さん(元内閣総理大臣)です。一番左の人は福田赳夫さんの弟さんの福田宏一さんです。
大蔵少輔金子家長碑は、上の写真の右側の鬱蒼とした木々の中に存在しています。
金子有鄰さんは、既に亡くなられてしまいましたが、この武田流流鏑馬は、一子相伝により、息子さん、そして『日本古式弓馬術協会』にて、お孫さんに受け継がれています。 金子有鄰さんは、戦前・戦中・戦後を通して私の祖父と交流があり、1年に数度、我が家に立ち寄られていました。 私の祖父も、有鄰さんから明治神宮や鶴岡八幡宮に奉納される「流鏑馬」に毎年招待されるので、武田流流鏑馬の参観に出かけて行きました。私は、小学校の低学年の児童でしたが、祖父に連れられて、流鏑馬の見学に出かけた事があります。その時には鎌倉にある金子有鄰さんのお宅にお邪魔させて頂き、遠路の長旅の疲れを癒させてもらったものです。
千数百年の長い歴史を持つ『金子家』と、『金古町』との関係は、時の流れと共に風化し、すでに忘れ去られてしまいましたが、私は、我が家の中で語り継いでいこうと思います。
金子有鄰さんが創設された『大日本弓馬会』、金子有鄰さん亡き後に、お孫さんが創設した『日本古式弓馬術協会』は、共に今でも武田流流鏑馬を継承していますが、いつの日にか一つになり、これからも純粋に武田流流鏑馬を伝えて行って欲しいと願うばかりです。 そして、願わくば、高崎市内あるいは近隣の市町村内で毎年実施されている祭り事に、金子氏ゆかりの『武田流流鏑馬』を誘致してみようとする団体、または行政が手を挙げてほしいと思うのです。ちなみに、戦国時代に長野氏の居城だった箕輪城(高崎市箕郷町)を落としたのは、武田信玄公の騎馬軍団です。武田の騎馬軍団と武田流流鏑馬は、同族です。箕輪城祭りは毎年盛大に行われてはいますが、流鏑馬は実施されてはいません。さらに、歴史的にこの武田流流鏑馬をつなげようとするならば、甘楽町の小幡さくら祭りです。このお祭りには、武者行列はあっても流鏑馬はありません。甘楽町は、織田信長公ゆかりの地として有名な地です。このような場所だからこそ、本物の武田流流鏑馬の誘致を期待したいところです。
金子一族の長い歴史を調べると、主だった歴史上の出来事の中には、必ず金子一族の名前が見え隠れしています。
古墳の縁にたたずむと、私はいつも松尾芭蕉のある俳句が頭の中に響きます。
“ 夏草や 兵もの(つわもの)どもが 夢のあと ”
※ 以下は、金子氏に関する歴史的な流れですが、この流れを文章にするのにあたり、幾つかの資料を読みあさり一つの流れにしてあります。したがって、文脈が乱れている部分が多々あることを事前にお断りしておきます。
金子氏は、武蔵七党の一つ村山党の一族で、武蔵押領使村岡忠頼の四代の孫頼任が、武蔵の村山郷に居を構え、村山氏を名乗りました。
保元の乱では、金子十郎家忠が源義朝に従い為朝方の高間氏を討ち、平治の乱では源義平のもとで平重盛を攻めたのです。その後、源平合戦には源義経のもとで一の谷の戦い等で数々の軍功をたて、本領の金子郷のほか、播磨国斑鳩荘などの地頭職になりました。
応安元年(1368)二月、武州平一揆が起こり、一揆方は河越館に立て篭り鎌倉公方足利氏満に叛しました。この時、金子氏は同じ武蔵村山党の一族の河越氏に率いられた武州平一揆に参加をしたのです。そして、永禄二年(1382)に起こった下野国小山義政父子の乱で、金子忠親の子息の家祐は、軍忠を申告しています。武州平一揆の金子家祐が提出した軍忠状に証判を加えたのは、将軍義満となっています。これは、このとき出された他の軍忠状と同様に、小山の乱で討手の両大将をつとめた上杉朝宗・木戸法季のいずれかが証判を加えたものと推定されます。
長尾景春は、山内上杉氏の家宰だった景信の子で、父景信の死後、家宰職が叔父忠景に奪われたために上杉氏に背き、古河公方の足利成氏と結びました。山内上杉氏に従っていた金子氏が景春に味方したのは、景春が主家山内上杉氏の執事白井長尾氏の嫡流であったからであろうと推察されます。 文明九年(1477)四月、扇谷上杉氏の執事太田資長(道灌)は、小沢城を落とし、その残党を武蔵国奥三保に遂っています。 上杉氏と対立した古河公方成氏は、文明十四年(1491)に和解しました。そして、延徳三年の伊豆国堀越公方の滅亡により、古河公方は幕府公認の鎌倉公方の地位を回復するに至ったのです。 やがて、伊豆国から相模国に入ってきた後北条氏は、次第に武蔵国をその支配下に組み入れていきました。そのころ武蔵国は、江戸・河越・岩槻の三城を支城とした扇谷上杉氏が南部地域を支配していました。やがて、その扇谷上杉氏の領域が、後北条氏の支配するところとなりました。一方、河越城に近い入東郡内にいた金子氏は、山内上杉氏に属していました。 武蔵金子氏の概要は、『萩藩閥閲録』に記されています。同書の一点に、永和五年(1379)二月十六日付宗基譲状があり、その中の『金子家譜』によれば、宗基は家祐の子の家重であり、法名も家重を名乗っていたようです。この譲状によって、金子氏は南北朝時代の末頃には、武蔵国金子郷を伝領していたことが分かります。 《金子氏の流転》 金子家には、北条氏康の判物も見つかっているようです。
家譜によれば、金子家定の弟正義は、北条氏政・氏直に仕え、天正十八年直江兼続の手に属して討死したとあります。兼続は上杉景勝の重臣ですから、八王子城攻めに上杉方に属して討死しました。一方、金子三郎右衛門は八王子城内金子丸を守って討死しています。高正寺所蔵家譜によれば、金子正助の子の家定は天正十五年(1587)に死去し、家督を継いだ金子政熙は、北条氏滅亡ののち上杉景勝に属し、慶長五年(1600)の徳川家康による会津出兵によって、景勝の領地が削減された時に浪人の身となりました。その後、京都守護代板倉勝重に仕え、その子息の金子政景は、板倉家の老臣として重用されたと記されています。のちに政景は、ある事情から自害し、長門藩主の毛利秀就の家臣宍戸元真の女だった政景の妻は、自分の子である就親を連れ、実家の宍戸家に戻りました。
就親は、外祖父の主家毛利氏に仕えました。戦国時代の末まで武蔵国にあった金子氏に関わる文書が、西国の萩藩士の家に伝来したのは、政景の妻子が、自分の実家である宍戸家に帰った時に持参していたから残されたものと考えられます。