自分表現

家族に応援されながら、自由気ままに趣味の世界を楽しむ、自分への贅沢なご褒美

金古第5号古墳(金古入道山古墳)

2019-08-09 14:17:01 | 雑観

 


 これは、金古第5号古墳(前方後円墳)、別名を金古入道山古墳と言います。

 

 文献によると、この古墳は、紀元6世紀後葉の時代に生きていた人の手により造られた“墳墓”と言われています。 『後葉』の意味から考えると、100年間の三分の一、つまり、紀元6世紀が終わる凡そ33年前~紀元6年が終わるまでの間に造られた古墳で、紀元7世紀に入るほんの少し前頃の建造物だと言う事になります。そして、この頃になると、古墳文化は終わりを告げる時期に入っていたのです。

 金古入道山古墳は、おおよそ1,500年の時の流れの中で、自然現象や人の手により“前方後円墳”の容は、かなり壊れてしまっていますが、紀元21世紀の令和の時代までのこの国のありさまを、寡黙にずっと見続けて来たのです。そう考えると、なんと凄いことなのでしょうか。

 今回、私がこの古墳を紹介した理由を、以下に記します。

 

 

 



 

 

この古墳には、ある人の碑が建っています。


 

 この写真は、しばらく前に写された『大蔵少輔(おおくらしょうゆう) 金子家長の碑』です。

  大蔵少輔 金子家長の碑は、昭和27年に、金子有鄰氏により建立された碑です。

大蔵少輔とは、従五位の貴族で明治期初期には廃止された位らしい

 

 この古墳を、ボランティアで長い間維持管理していた人の中に、天田三郎さんと私の祖父が居ましたが、ともに物故者となっていて、この前方後円墳は、荒れ果ててしまっています。

 

 


 

 裏側から写した碑の写真ですが、裏面には、天田〇〇(不明)という文字がうっすらと読み取れます。この碑は、前述の金子家の碑ではありません。おそらく、金子家所有の金古入道山古墳に隣接している方の物だろうと思います。草木が生い茂り、蛇が出て来そうだったので、足を踏み入れる事が出来ず、前面からはその全様を確認することは出来ませんでした。

 


   

 

 金子家長という人物像については、巻末の『雑ぱく文』に、書き込んであるので、後ほど一読してください。

 今から凡そ1500年も前に建造された金子氏の先祖のお墓(金古第五号古墳)に、戦国時代に、八王子城を拠点にして活躍した「大蔵少輔 金子家長」の碑を建立した金子有鄰さんの思いは今となっては分かりません。

 

  金子有鄰さんは、大日本弓馬会を創設され、武田流流鏑馬を現代に伝えた人として知られている方で、映画監督の黒澤明氏に懇願されて、映画の「影武者」に武田流流鏑馬司家役として出演しました。また、当時の役者達への馬術指導に関わった事でも有名です。

 戦後、アメリカ軍の高級武官達に馬術を指導し、日本とアメリカの戦後処理をスムーズに行った第一人者としても、篤志家あるいは学識経験者を自ら名乗っている方なら、知らない人はいないと思います。

 この金子有鄰さんのご先祖のお墓が、高崎市金古町に現存する『金古第5号古墳(金古入道山古墳)』なのです。 そして、高崎市金古町の町名の〝金古〟は、金子有鄰さんのご先祖の“金子氏”から頂いた名前なのですが、これらの事を知る人は、私以外に、あと何人いるのかはわかりません。 それでも、せいぜい、高崎市の市長や教育長くらいは、知っていて欲しいものですが、行政の場や教育の場等で、なんのアクションも起こしていないところから察すると、まったく知らないのだろうと思い、残念でなりません。

 

 小学校の社会科の授業で使われているのが、社会科の「教科書」ですが、それと併せて「社会科の副読本」が使われていて、地域を知る学習として授業時数にカウントされています。 地域によって、この社会科の副読本の名称は様々ですが、〝のびゆく◎◎市〟(◎◎のところには、市町村名が入ります)等という名称になります。 この副読本は、それぞれの地域の教育委員会の肝いりで、各学校から選出された社会科の教員が、時間と手間と予算を使って作成し、小学生の中学年(三年生と四年生)の児童に、自分の住んでいる地域を学ばせるために配布しているものなのです。 一人一人の児童に、自分の住んでいる地域を学習させる事で、自分の住む郷土への誇りを持たせ、自分の住んでいる地域と他の地域との歴史的・地理的・経済的な文化的繋がりを考えさせる手がかりとさせるのですが、残念ながら、この『金古第5号古墳(金古入道山古墳)』の事は、社会科の副読本には掲載されてはいません。

 

 

 


 上の写真は、雛壇に金子有鄰さん、右の女性は令夫人、手前は私の祖父が写っています。

 これは、金子有鄰さんが金古入道山古墳に金子家長の碑を建立された折に関係者と食事をした時の写真だろうと思われます。

 

 

次の写真は、アングルを変えたものです。  金子有鄰さんの左隣にいる人は、福田赳夫さん(元内閣総理大臣)です。一番左の人は福田赳夫さんの弟さんの福田宏一さんです。


 

 

 

 

 

 


 


 大蔵少輔金子家長碑は、上の写真の右側の鬱蒼とした木々の中に存在しています。

 

 金子有鄰さんは、既に亡くなられてしまいましたが、この武田流流鏑馬は、一子相伝により、息子さん、そして『日本古式弓馬術協会』にて、お孫さんに受け継がれています。 金子有鄰さんは、戦前・戦中・戦後を通して私の祖父と交流があり、1年に数度、我が家に立ち寄られていました。 私の祖父も、有鄰さんから明治神宮や鶴岡八幡宮に奉納される「流鏑馬」に毎年招待されるので、武田流流鏑馬の参観に出かけて行きました。私は、小学校の低学年の児童でしたが、祖父に連れられて、流鏑馬の見学に出かけた事があります。その時には鎌倉にある金子有鄰さんのお宅にお邪魔させて頂き、遠路の長旅の疲れを癒させてもらったものです。

 千数百年の長い歴史を持つ『金子家』と、『金古町』との関係は、時の流れと共に風化し、すでに忘れ去られてしまいましたが、私は、我が家の中で語り継いでいこうと思います。

 金子有鄰さんが創設された『大日本弓馬会』、金子有鄰さん亡き後に、お孫さんが創設した『日本古式弓馬術協会』は、共に今でも武田流流鏑馬を継承していますが、いつの日にか一つになり、これからも純粋に武田流流鏑馬を伝えて行って欲しいと願うばかりです。 そして、願わくば、高崎市内あるいは近隣の市町村内で毎年実施されている祭り事に、金子氏ゆかりの『武田流流鏑馬』を誘致してみようとする団体、または行政が手を挙げてほしいと思うのです。ちなみに、戦国時代に長野氏の居城だった箕輪城(高崎市箕郷町)を落としたのは、武田信玄公の騎馬軍団です。武田の騎馬軍団と武田流流鏑馬は、同族です。箕輪城祭りは毎年盛大に行われてはいますが、流鏑馬は実施されてはいません。さらに、歴史的にこの武田流流鏑馬をつなげようとするならば、甘楽町の小幡さくら祭りです。このお祭りには、武者行列はあっても流鏑馬はありません。甘楽町は、織田信長公ゆかりの地として有名な地です。このような場所だからこそ、本物の武田流流鏑馬の誘致を期待したいところです。

 金子一族の長い歴史を調べると、主だった歴史上の出来事の中には、必ず金子一族の名前が見え隠れしています。

 


 古墳の縁にたたずむと、私はいつも松尾芭蕉のある俳句が頭の中に響きます。 

“ 夏草や 兵もの(つわもの)どもが 夢のあと ”

 

 

※ 以下は、金子氏に関する歴史的な流れですが、この流れを文章にするのにあたり、幾つかの資料を読みあさり一つの流れにしてあります。したがって、文脈が乱れている部分が多々あることを事前にお断りしておきます。

 

 金子氏は、武蔵七党の一つ村山党の一族で、武蔵押領使村岡忠頼の四代の孫頼任が、武蔵の村山郷に居を構え、村山氏を名乗りました。

 保元の乱では、金子十郎家忠が源義朝に従い為朝方の高間氏を討ち、平治の乱では源義平のもとで平重盛を攻めたのです。その後、源平合戦には源義経のもとで一の谷の戦い等で数々の軍功をたて、本領の金子郷のほか、播磨国斑鳩荘などの地頭職になりました。

 応安元年(1368)二月、武州平一揆が起こり、一揆方は河越館に立て篭り鎌倉公方足利氏満に叛しました。この時、金子氏は同じ武蔵村山党の一族の河越氏に率いられた武州平一揆に参加をしたのです。そして、永禄二年(1382)に起こった下野国小山義政父子の乱で、金子忠親の子息の家祐は、軍忠を申告しています。武州平一揆の金子家祐が提出した軍忠状に証判を加えたのは、将軍義満となっています。これは、このとき出された他の軍忠状と同様に、小山の乱で討手の両大将をつとめた上杉朝宗・木戸法季のいずれかが証判を加えたものと推定されます。

 長尾景春は、山内上杉氏の家宰だった景信の子で、父景信の死後、家宰職が叔父忠景に奪われたために上杉氏に背き、古河公方の足利成氏と結びました。山内上杉氏に従っていた金子氏が景春に味方したのは、景春が主家山内上杉氏の執事白井長尾氏の嫡流であったからであろうと推察されます。  文明九年(1477)四月、扇谷上杉氏の執事太田資長(道灌)は、小沢城を落とし、その残党を武蔵国奥三保に遂っています。  上杉氏と対立した古河公方成氏は、文明十四年(1491)に和解しました。そして、延徳三年の伊豆国堀越公方の滅亡により、古河公方は幕府公認の鎌倉公方の地位を回復するに至ったのです。  やがて、伊豆国から相模国に入ってきた後北条氏は、次第に武蔵国をその支配下に組み入れていきました。そのころ武蔵国は、江戸・河越・岩槻の三城を支城とした扇谷上杉氏が南部地域を支配していました。やがて、その扇谷上杉氏の領域が、後北条氏の支配するところとなりました。一方、河越城に近い入東郡内にいた金子氏は、山内上杉氏に属していました。  武蔵金子氏の概要は、『萩藩閥閲録』に記されています。同書の一点に、永和五年(1379)二月十六日付宗基譲状があり、その中の『金子家譜』によれば、宗基は家祐の子の家重であり、法名も家重を名乗っていたようです。この譲状によって、金子氏は南北朝時代の末頃には、武蔵国金子郷を伝領していたことが分かります。 《金子氏の流転》  金子家には、北条氏康の判物も見つかっているようです。

  家譜によれば、金子家定の弟正義は、北条氏政・氏直に仕え、天正十八年直江兼続の手に属して討死したとあります。兼続は上杉景勝の重臣ですから、八王子城攻めに上杉方に属して討死しました。一方、金子三郎右衛門は八王子城内金子丸を守って討死しています。高正寺所蔵家譜によれば、金子正助の子の家定は天正十五年(1587)に死去し、家督を継いだ金子政熙は、北条氏滅亡ののち上杉景勝に属し、慶長五年(1600)の徳川家康による会津出兵によって、景勝の領地が削減された時に浪人の身となりました。その後、京都守護代板倉勝重に仕え、その子息の金子政景は、板倉家の老臣として重用されたと記されています。のちに政景は、ある事情から自害し、長門藩主の毛利秀就の家臣宍戸元真の女だった政景の妻は、自分の子である就親を連れ、実家の宍戸家に戻りました。

 就親は、外祖父の主家毛利氏に仕えました。戦国時代の末まで武蔵国にあった金子氏に関わる文書が、西国の萩藩士の家に伝来したのは、政景の妻子が、自分の実家である宍戸家に帰った時に持参していたから残されたものと考えられます。

我が家の畑事情

2018-08-26 19:45:19 | 雑観
暑い日が続いています。
テレビを観ると、コメンテーターが「今日も暑い日になりましたね~、熱中症にならないよう、お互い気をつけましょうねぇ。」等と、冷房の効いた涼しいスタジオから、注意喚起をしています。

私の住む群馬県は、首都圏の東京で生活している東京人が、コンクリートジャングルの中でエアコンをガンガン効かせるものだから、建物の外に出された熱い空気が、太平洋から吹き込む湿度の高い偏西風と合体して、群馬方面に吹き込むから群馬が熱くなるのさ。

まあ、愚痴を言ったところで解決はしません。

さて、最近我が家の畑に異変が起こっています。
異変は、畑に限らず庭も同様です。








これは、畑の雑草です。名前はわかりません。
2年ほど前には、見られなかった雑草なのです。素人考えとしては、外来種なのかも知れません。
この雑草は、ちょっと油断していると、畑全面に広がってしまいます。
実は、「ちょっと、畑に小さな草がはびこり始めたなぁ。」と、思っていて、2~3日油断していたら、気がついたときには畑の殆どを覆ってしまっていたのです。

この雑草を取るのに2週間ほどかかってしまいましたが、「総て草退治が出来た。」と、喜んだのはつかの間でした。
最初に草退治を始めたところに、また、同様の草が蔓延り始めていたのです。

今まで生えていた草とは異なり、砂地に張り付くように広がっていくこの雑草には本当にまいりました。

「この草は、どこからわき出てきたのだろう。」と、言う疑問から始まり、家族一同で無い知恵を出し合い、色々と考えた結果、導かれた答えは、「堆肥の中に、この草の種が入っていたのではないだろうか。」と言う結論でした。



確かに、最初に出現しだしたこの雑草の出始めた場所に、農業専門のお店から買ってきた堆肥を、かなりの量、使用したのです。
でも、正解は本当のところわかりません。
畑なので、除草剤を使うわけにはいきません。そのうち、草焼きバーナーを購入して、この雑草退治に挑戦してみようと考えています。




我が家のブルーベリーも、そろそろ旬を過ぎ始めました。
この、箱に入っているブルーベリーは、私が一人で30分位で摘み取りました。魚釣りで例えれば、入れ食い状態です。
枝についているブルーベリーの集合体の中に両手を差し込んで引き寄せるだけで、どんどん収穫できます。
ただし、雑に収穫するものだから、かなりのブルーベリーの実がポロポロと下に落ちてしまいます。
私は、面倒なので、拾いません。

無農薬なので、摘み取った実をそのまま口に入れてみると、とても甘くて美味しいのです。



我が家のブルーベリーの木は7本ほどあるので、今年は、米俵にして凡そ3俵くらい収穫できました。
収穫したと言っても、私は昨日20㎏程収穫しただけで、あとは、妻が収穫したり、知り合いの人が収穫したりしての総計です。
商売にしているわけではないので、欲しい人に好きなだけ持って行ってもらっています。














栗の実は、風が吹く度に、バタバタと地面に落ちてきます。
正に、今が旬です。









これは、胡麻です。胡麻の収穫は、もう少し先になりますが、胡麻の木を丁寧に根本から切り取り、切り取った木を天日干してから、実を採る作業を行います。

それにしても、毎日暑い日が続きます。

私は、朝5時頃起きて、気が向けば午前6時頃から畑に出て、概ね2時間ばかり暑さと藪蚊と戦い、午前8時から午前9時頃には農作業を終了し、シャワーで汗と埃を落とし、その後はダラダラと1日を過ごすことにしています。

夕食前の1人で呑むビールは、虚しさと旨さのコラボです。
子どもの頃、親には内緒で瓶底に余っていたビールをほんの少しだけ味見をしたのですが、本当に不味かったです。
「大人って、なんでこんな不味い物を旨そうに呑むのだろうか。」と、不思議で仕方がありませんでしたが、今は、ビールの味が「美味しい」と言う事が理解できます。

96歳の母は、私とは全く違い、毎日早朝から畑に出て、午前10時頃まで農作業に従事するのです。
そんな母に、私は頭が上がりません。




迷惑な訪問者への対応策

2018-07-21 12:29:13 | 雑観

退職して4年目の暑い夏がやって来ました。
日々思う事の中に、大分けすれば一種類なのですが、中分けとしては、2つの案件があり、この事を可及的速やかに解決したいと考えているのです。

《其の1》煩わしさを感じる電話対応。
一日中、家の中でゴロゴロしていると、電話機からコール音が鳴ります。慌てて受話器を取り上げてみると、
「健康食品を買いませんか?」「恩宅には、必要が無くなった貴金属が眠っていませんか?」「独身の方は居ませんか?」「お年寄りは居ませんか?」「光回線にしませんか?」「健康青汁を申込みませんか?」等々、
まあ、ありとあらゆる話しが舞い込んで来ます。中にはワン切りもあります。

毎日、暇をもてあましているとは言え、私だって少しは女房のお手伝いをする時だってあるのです。今日は、自家製のニンニクの皮を剥き、そのニンニクを摺り下ろしていた時に事件が勃発したのです。両手がニンニク臭くなっていた時の事です。電話が鳴ったので、ニンニクで汚れた両手を洗わずに受話器を持って「はい、モシモシ。」と、心では慌て、声は落ち着き払って話しはじめると、「あっ、モシモシ~、こちらはNTTの〇〇と申します、今度、新しく光回線の……」と、話始めたので、「NTTは、直接、顧客には電話を掛けない事になっているはず、そのような内容は、文書で送付する事になっているよね!」と、応対したところ、相手は何も言わず電話を切ったのです。相手の電話番号は非通知。受話器を置いた後の私の顔と髪の毛には、生のニンニクがしっかりとくっつき、ニンニクの臭いがこびり付いたままになってしまいました。ニンニクの臭いって、なかなか落ちないのですよ。
すでに、4時間も経過しましたが、髪の毛と顔から、特大餃子の臭いが今もしています。

私が勤めていた時は、私の両親が毎日、このような電話に対応していたのだなと思うと、両親には本当に申し訳無く思うと同時に、このような迷惑電話への対応を有難く感じるのです。

このような電話に、真面目に対応していると、たぶん知らない間に、相手の口車に乗ってしまう事になってしまうのだろうと考えると、恐くなります。

《其の2》不動産業者の訪問や新興宗教の勧誘への対応。
不動産業者は、だいたい半年に一度の頻度でやって来ます。
「こんにちは、お変わりありませんか?」で、始まる挨拶には閉口します。
「お変わり」の意味を聞いてみたところ、ナント、『空いている土地にアパートを建てる気持ちになりましたか?』
という意味なのだそうです。
閉口どころか開いた口が塞がりません。アパート経営をしたければ、あなたに言われなくても自分で不動産会社を探してそうだんをしますよ。
最初は、丁寧にお断りしていたのですが、あまりにもシツコイので、最近は玄関前にシールを貼り付けました。
「あなたのために、こんなみっともない張り紙をしているんだよ!」と、言ってやりたくなります。シールを貼っても、やって来るのには、頭にカッチーンと来ました。
「玄関前に貼ってあるシールの文字が読めないの?」と、聞き、その次に、間髪を入れず、「名刺を下さい、警察に通報しますから。」と、言いました。
でも。また来るのかなあ~??もう、20数年も前から来ているからなあ~。

『宗教関係者』が先日やって来たので、「私の家は、宗教の勧誘はお断りしていますよ。」と、話したところ、
相手も執念深く、「今回は、勧誘で来たのではありません、震災に遭われた方達の事を、どうお考えですか?」と、聞いて来たので、「あなたは勧誘では無いとおっしゃるが、最終的には、勧誘を目的としているのだろうと、この家の主である私が判断した事なので、勧誘なのです、直ちにお帰り下さい。私は、あなたと議論をしたくは無いのです。」と、言って追い返しました。

まあ、それにしても、毎日毎日、本当に飽きの来ない日々を過ごしている私なのですが、これらのイタチごっこは未来永劫と続くのでしょうか?



本格的な花粉症のシーズンに突入しました

2018-03-14 17:03:48 | 雑観
急に暖かな陽気になってまいりました。
自宅の周りは、すっかり花咲の季節になりました。




何度か紹介してまいりましたが、やっと梅の花が満開になりました。





と、言う事で、杉の花粉がかなり飛散しています。

指先の怪我がまだ治っていないので、二日毎に皮膚科通院です。そのために、洗車もままならない状態なので、クルマは杉の花粉で汚れたままです。


近い内に、ゴム手袋で手を完全防水して、洗車をしようと思います。

さて、杉の花粉飛散のために、私は子どもの頃から、かなり悩まされ続けて来ましたが、今季は少し、花粉症の様子が違うのです。

それは、昨年の9月から始めた療法です。

この『シダトレン舌下液』を毎日服用する事です。

このシダトレンの服用により、私の花粉症の様子は、昨年度よりもかなり軽くなっています。ただし、今のところなのですが。

鼻水、鼻詰まり、目の痒みの度合が、昨年度の今頃が「10」だとすると、今年は、今のところ「2~3」程度です。
もしかしたら、『シダトレン療法』が功をなしているのかも知れません。
花粉症の症状が、この程度で済んでくれるとありがたいと思っています。