信越線の横川駅構内の様子です。
東京と長野方面を結ぶ重要な路線の駅として、かつては大賑わいをした所でしたが、今は、ここ横川駅は、信越線の終着地点になってしまいました。
それは、新幹線が通ったからです。
私が、この町に通勤していた時は、少しずつではありましたが、衰退の様子が見え始めていた時代でした。
現在、鉄道文化村になっている所は、その当時は、鉄道員の官舎や寮舎等が建ち並び、栄華ある鉄道員の生活が垣間見られる場所でした。
『峠の釜めし』で有名な、荻野屋さんの本店もここにあります。
今日5月10日は、私にとって終生忘れられない日なのです。
33年ほど前、私は転勤族の一人として人事異動により、碓氷郡松井田町(現:安中市松井田町横川)に、転勤しました。
この松井田町の横川は、群馬の西に位置し、すぐ隣は長野県軽井沢町になります。
田舎は、人との繋がりをとても大切にするところです。
ここで過ごした期間は、わずか3年間でしたが、地域の人達は、私の事を本当に大切にしてくださいました。
私が転勤して2年目の5月9日(土曜日)午後1時過ぎ。
元号が、昭和から平成に変わる1年前の事でした。
信越線と併走する国道18号線の、第15号踏切の横断歩道で、とても悲しい事故が起こりました。
土曜日の放課後、小学校6年生の男の子が、友達の家に遊びに行く途中、この第15号踏切を渡り、
国道18号線を横断するために、歩道を横切っていた時、高崎市方向から軽井沢方面に向かって走っていた
大型トラックにはねられたのです。
仕事を終えて帰宅途中にあった私は、後ろから迫って来た救急車に道を譲り、走り始めたのですが、
自宅からの無線連絡で、T君の交通事故を知りました。
私は、今、先に行った救急車の後を追い、安中市の病院に駆けつけました。
病院に着いた私は、事情を話し、診察室に案内されたのですが、
彼は、治療用のベッドの上に寝かされていて軽い痙攣を起こしていました。
驚いて見ている私に、看護婦(看護師)さんは両手の人差し指を交差させてバッテンを示しました。
それからしばらくして、母親が来院したのですが、私は、気が動転している母親を落ち着かせる事もできませんでした。
母親とドクターとの協議の末、T君を高崎市内の病院に転院することにしたのです。
私も、転院先の病院にそのまま出向き、ご家族に付き添いましたが、治療のかいもなく、
翌日10日(日曜日)の明け方に亡くなってしまいました。
あの事件から、すでに31年の年月が過ぎ去りました。
私は、5月9日、5月10日の日の出来事を忘れた事はありません。
毎年、命日にはお焼香をあげさせてもらいに横川へ出かけています。
T君は、男兄弟の長男で、とても賢い子どもでした。
そして、心優しい子どもでした。
私は、生前のT君とは、良く話もしました。
今日の横川は雨模様でした。
時折降る雹(ひょう)にも驚かされてしまいましたが、横川駅から見る裏妙義の天辺は、霧が漂っていました。
一年ぶりに訪れた私は、この横川という地域の事を一生涯忘れてはならない場所だという事を、あらためて実感したのです。
お線香をあげながら、「今年も会いに来たよ。」と、30年前のT君の元気な姿を思い出しながら、
ほんの少しの時間ではありましたが、生前のT君の思い出にひたりながら過ごしました。
下の写真は、荻野屋の本店です。
横川駅の駐車場を後にし、碓氷峠の関所跡を通り、旧国道18号(中山道)を使い、今は観光地となっている、通称「眼
鏡橋」まで、出かけてみることにしました。
これが、碓氷峠の関所です。江戸時代には、この場所よりももう少し西にあったのですが、今は、この場所に移設されています。
『入り鉄砲に出女』を監視する役割を担った関所ですが、幕末には、京都から江戸の14代将軍徳川家茂に輿入れするために、和宮もこの関所を通過しました。
週休日なら、観光客で賑わっている場所ですが、今日は、誰も居ませんでした。
旧道になってしまった国道18号線(中山道)沿いの坂本宿は、今は閑散としていて、県外ナンバーの車の往来もほと
んど見られなくなりました。
映画「野生の証明」で、有名になった〝麦わら帽子を落としてしまった谷〟の近くの霧積温泉へ行くための道は、ここ
を右に曲がります。
「眼鏡橋」には、数人の観光客が居て写真を撮っていました。
今日は、ほんの3時間ほどの時間でしたが、一年ぶりに松井田町の横川に出かけて来ることが出来ました。
往路・復路共に、第15号踏み切りの所を通りましたが、T君がトラックにはねられた場所には、今も白い生花が飾られていました。
お父さんは、T君が亡くなってしばらくして、南海の海でスキューバダイビングをしていて事故で他界していますので、
事故現場に飾ってある生花が枯れるたびに、お母さんが新しい生花を花瓶にさし替えているようです。
親は、子どもが何歳になっても、無償の愛を差し伸べるものですが、T君のお母さんは、T君が亡くなってからも31年間、
ほぼ毎日、この第15号踏み切りの横断歩道を訪れているのです。
T君が生きていれば、今は働き盛りの42歳の立派な人間になっていたはずです。
仏壇の中に飾られている小学6年生のT君の写真は、いつも笑顔でこちらを見てくれています。
時代は、めまぐるしく変化するものです。
今では、子ども達の頭にヘルメットを装着することを奨励(義務ではない)していますが、昭和後期末の頃は、『交通戦争』という
言葉が飛び交う中にあっても、「ヘルメットを被ると頭が蒸れてしまうから被らせたくはない。」とか、
「ヘルメットは、戦争を思い出させるから絶対反対だ。」とか、今では、考えられない言葉が社会の中を飛び交っていた時代でした。
マスコミも、子どもにヘルメットを被らせる事には、あまり関心を示してはいませんでしたし、親や教師の中にも子どもに
ヘルメットを被らせる事を反対する人がいたのです。
T君の事故当時、交通事故処理にあたっていた警察官は、「ヘルメットを被っていたら助かった事故だったかも知れない。」と
話してくれました。
子どもは、大人と違い、車に当てられた瞬間に、空中で無意識的に身体を丸め自己防御をするのだそうです。
そして、地面に頭を打ちつけて脳をいため、最悪の事態になるケースが散見されるのだそうです。
今、私もクルマを運転する事が多いのですが、交通安全には十分に注意を払ってはいますが、
ヒヤッとする事もあります。
また、ヘルメットを被らずに、自転車に乗っている子どもさんも多く見かけます。
子どもを交通事故では死なせない大人でありたいものです。
また、お花をお供えし続けてらっしゃるお母様の愛。涙が溢れます。