私は地元老人会の写真クラブに入っています。
次の会合には『冬』を主題にした写真を2枚持参しなければならず、その日が近づいています。
2月も半ばを過ぎ、春の雰囲気が漂い始めていますが、遠くの山々は白い雪を冠っでいます。
今日は、冬を切り取りに近くの伊香保と榛名山に出かけて参りました。
伊香保の『かのうや旅館』は、子どもの頃、夏になる度に祖父に連れられ一週間程過ごしたところです。
現在は、『かのうやホテル』という名前に変わっていますし、昔の『かのうや旅館』は、石段の1番上にあり『かのうや本館』と名付けられていました。
当時の4階建ての建物は今もあり、伊香保の石段街の写真には必ず写り込んでいます。 昔は親戚だったので、祖父や父が生きていた時代には互いに交流がありましたが、今は時の流れの中で自然に付き合いは無くなりました。
十数年前、かのうやに親戚が集まり、私も呼ばれたので同席した事があります。身内が群馬県主導で第三セクターのスキー場の社長に就任した者と、県副知事に就任した者、弁護士会代表で天皇陛下に謁見した者、付け足しとして私も特任教授就任で同席し、とりあえず親戚一同が集まっての食事会の席を『かのうや』で行ったのです。私は、それ以来、訪ねた事はありません。
伊香保神社には、有名な話があるのでご紹介いたします。
それは、伊香保神社掲額事件(いかほじんじゃけいがくじけん)と言います。
文政年間に発生した千葉周作が興した北辰一刀流と馬庭念流の抗争事件です。
北辰一刀流創始者千葉周作は、1820年(文政3年)から廻国剣術修行の旅に出て、各地で他流試合を行なっていました。
3年目の1822年(文政5年)、上州一の剣豪といわれる馬庭念流の小泉弥兵衛を破り、熱しやすく冷めやすいという上州(群馬)気質の小泉をはじめ100名を超える人々が、あっと言う間に千葉周作の北辰一刀流に入門したのです。
当時の北辰一刀流の道場は、北斗妙見菩薩(妙見様)近くの冷水村(高崎市冷水町)の佐鳥浦八 邸の馬庭念流道場に作られました。
この時の門弟のほとんどは、馬庭念流の門人だったのです。
入門者たちが伊香保神社へ北辰一刀流の額を奉納しようとすると、その情報が馬庭念流の道場のある馬庭村(群馬県高崎市吉井町馬庭)に伝わったのです。
馬庭念流は戦国時代の剣客樋口定次以来上州で連綿と続く流派で、新興勢力の北辰一刀流の進出を許せば面目にかかわるとして一同は憤激したのです。
掲額を阻止するため、馬庭念流一門500余名のほか、同じくらいの数のやくざ者や、鉄砲を持った猟師まで集まり、気勢を上げ、千葉周作門下一同が伊香保神社に武道額を持ち込むのを待ち構えていたのだそうです。
伊香保に今も残る木暮ホテル(金太夫、武太夫)の主も馬庭念流の使い手でした。
事態を重くみた当代樋口定輝は大事を制止するために、伊香保へ向かいましたが、これを見た人々は、当主の出馬だと勘違いして、いよいよ騒ぎは大きくなったのです。
村役人木暮武太夫や代官所の取成もあって、千葉周作は上州から撤退し、事なきを得たのです。
この結果、上州(現・群馬県)において北辰一刀流は明治中期に至るまで、教える者がほとんどいなくなりました。
その後、千葉周作は江戸に戻り、北辰一刀流の道場として日本橋品川町に玄武館(後に神田於玉ヶ池に移転)を設立したのです。
千葉周作が守護神として終身信仰した北斗妙見菩薩を祀る石碑(北辰鎮宅霊符尊)が伊香保神社階段下(日本で始めて温泉饅頭を作ったと言われている饅頭屋さんの建物の右横)に昭和三年に建立されていますので、伊香保温泉に行った時には一度訪ねて欲しいと思います。
また、すぐその碑の近くには、大隈重信公のご母堂が、子安観音像を寄進していますので、併せてご覧頂きたいと思います。
伊香保温泉には長い歴史があります。
探れば探るほど『伊香保』の面白さが発見出来ます。
まだ、まだ、私の知る伊香保をご紹介したいのですが、またいつかご紹介する機会に譲りたいと思います。
群馬県人なら誰もが知る『上毛かるた』には、「伊香保温泉 日本の名湯 」と、謳われていますが、伊香保温泉の歴史を含めた総称をカルタの詞で表したのです。
テレビのバラエティー番組では必ずこの橋が紹介されるのですが、昔はこんな橋はありませんでした。おそらく、温泉組合が考えた『客寄せパンダ橋』だろうと思います。また、このすぐ近くには露天風呂があり、私が子どもの頃は無料の男女混浴露天風呂だったと記憶しています。
伊香保の民家は、崖に作るのでこの様な作りの住宅が多く見られます。