いつもの地震と違って揺れが次第に大きくなっていくのがわかりました。
すると、窓のブラインドが音を立てて揺れ始めました。
かなり長く感じました。
揺れ始めから収まるまでに6分もあったそうです。
東京のボクのオフィスに直接の被害はなかったのですが、その後の計画停電によってしばらくは大変な状態が続きました。
いや,そんなことは大したことではありません。
被災地では雪の降る寒い季節に不自由な生活を強いられました。
そうした中,日本全国,いや世界中から支援の声が上がりました。
ボクも少しだけですが復興のお手伝いをさせていただきました。
名取市の子供たちに文房具などを送る活動をさせていただきました。
当時の子供たちも中学生になっているのですね。
しかし、9年を経た現在でも復興は道半ばです。
この間のことを振り返って、なぜこんなに時間がかかるんだろうか、と疑問に思いました。
原発の被害を受けた地域と津波の被害を受けた地域は別に考える必要があるので、津波の被害を受けた地域について考えてみました。
原因はいろいろあるのですが,最大の原因は防潮堤と計画的な街づくりにあると思うのです。
頭でっかちな計画が復興に時間がかかっている最大の原因です。
ボクはその手法がベストだとは思えないのです。
当時,被災した元の場所で再建するという選択肢も議論されていました。
ボクはそれがベストだったと思うのです。
そうすれば5年もかからずに再建できたでしょう。
それを望んだ住民も多かったと聞きます。
再建後は,地震が来たら高台に逃げるという教訓を生かせばよいのだから。
これまでに要した莫大な予算。
その予算で以前と同様の暮らしが取り戻せたはずです。
住民の負担はゼロで復興が叶っていたでしょう。
ハワイ島のヒロではそういう選択をしましたね。
防潮堤を作ったってそれを超える津波が来ないとは限りません。
地震が来たらすぐに逃げる。
再建にかかる費用は国がすべて保証します。
そのほうがわかりやすいし、被害も少なく費用も安くつくでしょう。
どうも役人は物事を難しく考えたいとしか思えません。
おりしも昨日は75年前に東京大空襲があった日です。
死者数は10万人、罹災者は100万人を超す大惨事でした。
それでもその11年後の1956年、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述しています。
ボクの家は戦後のどさくさで青山の土地を失いました。
自分の家があった場所さえ分からなくなってしまったのです。
それでも杉並にあった土地に小屋を建てて生き延びました。
なぜその勢いが今の日本にはないのでしょうか。
頭でっかちの役人に問題があるんじゃないか。
ボクはそう思います。
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