落ち穂拾い 9
父は1904年大津の生まれで コドモの頃玉屋町のカッパと他人から云われるほど 水泳が上手かったと話していた 嘘ではなさそうだ。
櫓も上手く漕いだ 絵の才能は琵琶湖に大型の汽船が浮かんだトキ 小学生の代表として その汽船に乗り スケッチに行ったと云っていた。
母の郷里へ行ったとき トイツァンという従妹の亭主が――その人とは親子ほどわたしと年齢差があったが――わたしに
「アンタのお父ッあん かなんヮ バスが来る時間やのに 『トイツァンちょっと待ってャ』 と云ってのんびり 写生しャハル(敬語)・・・ワシ(自分)はバスが来るのに・・ひやひやしていた・・」
と笑っていた トイッアンとは村で呼ばれていた通称である 懐かしい。
どうでもよい話だが ここでわたしが語っておかないと 消えてしまう話しである こんな話は外に山ほどある それを語るスケッチ・ブックは何冊か残っている。
応召で2度衛生兵として参戦した 2度目の戦では終戦を済州島で迎えた だから幸運にも早く帰還できた。
父の背囊(はいのう・リック)の中一杯に軍用ワラバンシがあった 済州島のスケッチである。
煙草を燻らす老人や 水を汲む婦人などのスケッチはよく描けていた これらのスケッチをどうしようか・・と悩んで取り敢えず整理した。
立命館大学平和ミュージアムが引き取って呉れた。
74歳の人生であった 懐かしい話しをして見た。